7話 望郷は風に鳴く
「一人も、逃さない」
プロセアの声は低く落ちた。
焚き火の光を受けてもなお、その表情は昏い。銀白の髪の隙間から覗く瞳が赤く揺れている。それは、かつて燃え落ちた町の残り火を宿しているようだった。
そのとき、右腕の奥が震えて、高く澄んだ鈴の音のような声が響いた。
『ねぇねぇ、きれいなおとがしたよ』
耳で聞いたのではない。もっと奥、頭の内側を撫でるように声が鳴った。
彼女は、わずかに目を伏せた。
この声が聞こえるようになったのは、いつからだったか。
あの日、すべてを失った夜。半身を奪われたあと、生き延びるために取り込んだものが、元の肉体に馴染みはじめた頃。
最初は、ただの違和感だった。
自分のものではない鼓動が内側で重なり、それはやがて形を持った。意思を持ち、歪んだ音を帯び、今は声として内側に触れてくるようになった。
『もっと、ききたいな。プロセアの、やわらかいおと』
楽しげな響きだった。
血の匂いと、これから起こる死を待ち望んでいるかのように。
プロセアは静かに顔を上げた。
視界の先で火が揺れている。そこから離れて点在している兵士たちを順に捉えていく。
――次は、あいつらから消す。
視線は、そのまま外縁に繋がれた馬へと移る。数頭が落ち着きなく鼻を鳴らし、わずかな刺激にも反応しそうに耳を立てている。
あれを最初の綻びにする。一度崩れれば、この手の集団は脆い。混乱が広がる前に間合いを詰め、まとまる前に崩しきる。水を背にした陣では散るにも限度があり、森へ逃げようとしても、夜の暗さとぬかるんだ地面が足を重くする。
流れは、もう見えていた。
その時には、プロセアは動き出していた。
影から影へと滑り込むように移動し、外縁に近い兵から距離を詰めていく。焚き火の光に背を向けた者、酒の残りを口に運ぶ者、気の抜けた姿勢で腰を落としている者、そのどれもが視界の端に収まる頃には、すでに手の届く間合いに入っていた。
「……巡回のやつら、遅いな」
「そのうち戻るだろ」
気にも留めない声のやり取りが、火の爆ぜる音に紛れて消える。
刃は振るわれるたびに、夜の闇に刹那のきらめきを残す。声を上げさせることなく、崩れる身体の向きを選びながら、次の影へと移るまでに余計なものは何ひとつ残さない。
数は減っているはずだったが、夜営地の様子に大きな変化はない。森の息遣いがすべてを覆っている。
プロセアは気配を消して馬へと寄った。手綱の結び目に刃を差し込み、緩める。解放された馬が一歩踏み出し、次の瞬間には連鎖するように不安げな嘶きが漏れる。それを合図にしたように、他の馬たちも落ち着きを失った。
「なんだ……馬が……?」
「誰か押さえろ、逃げ出すぞ!」
瞬く間に騒ぎが広がり、火の周辺に居た者たちの意識が一斉に外へ向いた。声が重なり、立ち上がる者が増える。
「……おい! 誰か倒れてるぞ!」
「何だと? 敵襲か!」
その揺らぎの中心へ、プロセアは踏み込んだ。
あとは速い。間合いに入った者から順に、気づく前に崩し、剣を抜く前に断つ。応じようとする者もいるが、連携する間もなく次々と沈んでいく。
「て、敵襲! 敵襲!」
「どこだ、どこにいる!」
「散らばるな! 固まれ!」
夜営地は、もう崩れていた。
隊形を組んで集まった数人が、状況を把握しきれないまま互いに視線を交わしている。
その中へ、プロセアは自ら一歩を踏み出す。
影から離れ、焚き火の光の中へ。
血に濡れた外套が、静かに揺れる。
「なんだ、あれ……」
「お、女……?」
兵士たちのざわめきが広がる
プロセアは歩みを止めない。視線をまっすぐに向けて、残された兵士たちを見据える。
「レヴィスの風が、聴こえるか」
「……は? 何を言っているんだ」
兵士の一人が眉をひそめ、吐き捨てる。
「貴様、聖光律教団に歯向かう気か! 自分が何を相手にしているか、わかっているのか!」
誰も動かなかった。
武器を構えながらも、兵士たちは目の前の少女から視線を離せずにいる。
「我々は神の御業に仕えている。神罰を代行しているのだ。聖光の裁きがくだるぞ!」
声に熱が帯びるが、誰も前に踏み出さない。神の御業を叫びながらも、その視線は忙しなく揺れていた。
プロセアは、それをただ見ている。その静けさは、突然訪れた恐慌とはあまりにもかけ離れていて、兵士たちの剣先に迷いを生じさせていた。
奥のほうで、覆いの布がかすかに鳴った。
「何を騒いでいる」
布が持ち上がり、影の中から一人の男が姿を現す。
この小隊の指揮官だろう。他の兵士とは違い、白銀の甲冑を身に纏っている。胸元には、双月の紋を刻んだ銀の飾章が留められていた。
視線は一瞬で場をなぞり、プロセアで止まる。
戦場に不釣り合いな少女の姿。少なすぎる兵の数。その異様な事態に、騎士の表情が強張った。
「……まさか、これを一人でやったのか」
周囲を見回し、首を振る。
「いや、一人であるはずがない。周囲を警戒しろ。娘は生け捕れ」
兵士たちを一瞥し、言い放つ。
騎士の声が落ちた直後、兵士たちは一斉に踏み込んだ。
――崩れた家屋の影を、傷ついた人が引きずられていく。
転がる屍を白い外套が踏み越えていく。
祈りの途中で途切れた声は悲鳴へ変わり、
火の手が上がり、誰かの手が力なく地面へ落ちる――
奴らが残した死の残響が、プロセアの脳裏をよぎった。
彼女は片刃剣を胸の前に掲げる。
「……お前らは間違えすぎた。もう、祈る必要はない」
最初の兵士が斬りかかる。
白刃が閃いて、男の喉が裂ける。
血が焚き火の光に照らされて、黒い飛沫となって舞い上がる。
「一人で向かうな、囲め!」
騎士の怒声が飛ぶ。左右から兵士がそれぞれ間合いを詰める。
しかし、プロセアは既にその内側へ入り込んでいた。一人の兵士が腹部を断たれ、返す刃が反対側の兵士の首筋を裂く。さらに一人、また一人と一太刀のまま討たれていき、悲鳴も長くは続かない。
「何をしている! 数で押せ!」
騎士の叫びはむなしく、兵士たちはまとまることができない。
踏み込んだ者から死んでいく。誰も彼女を捉えられない。
最後の一人が剣を取り落とし、後ずさる。足をもつれさせ、その場に崩れた。
プロセアは足を止めない。
その横を通り過ぎ、音もなく終わらせる。
残ったのは、騎士だけだった。
「な、何なのだ……貴様は……!」
後退りながらも、視線は逸らせなかった。
目の前に立っているのは少女のはずだった。
表情ひとつ変えずに、屍を築いていく。死が、彼女の歩みを追うように広がっていた。
「……贖月は、すべてを照らしている。貴様の罪は聖光に刻まれた。その裁きは、こんなものじゃない……もっと重く、もっと深く抉られる」
男の視線が落ち着きなく揺れる。
その目は、まだ見ぬ裁きを乞い願うようだった。
「一体、お前たちは何を裁いたつもりでいるの」
「罪だ」
男は即座に答える。
「贖月はすべてを照らし出す。聖光は魂を選り分ける神の光だ。穢れとは、その選別から漏れた証。裁かれるのは当然だ」
「……そう。じゃあ、お前もその月の元に送ってあげる」
プロセアの瞳が月光を映した。
「……その前に、一つだけ聞く」
男に向かって、一歩踏み出す。
「顔に蠍の刺青がある男を知っているか」
男の眉が、ほんのわずかに動く。
焚き火の光が、その表情に深い陰影をつくる。
「蠍の刺青……? 知っていたところで、貴様なぞに教えると思うか」
プロセアは言葉を返さない。
その視線が、ほんのわずかに外れる。目の前の男ではない、どこでもない空間へ。
『ふふふっ。いっぱい、なってるよ』
また声が、内側に触れてきた。
それは新しい玩具を前にした子どものように、抑えきれない調子で弾んでいた。
「そうだね、ルピナ」
プロセアはゆっくりと頷いた。
「風が聴こえる。ずっと泣いてるの」
彼女の表情は凪いでいた。波ひとつ立たない水面のように、すべてを奥底へ沈めている。
その静けさが何よりも異様だった。
男は、目の前の光景と彼女の言葉の意味を測りかねていた。
「……何を言っている」
声が漏れたその瞬間、距離が消える。
プロセアの拳が、男の顔面へ叩き込まれる。骨が歪む鈍い音が響き、男の頭が後ろへ弾かれる。プロセアはその髪を掴み、強引に引き戻す。間髪を入れず、膝が打ち上がる。
顔の中心が陥没し、潰れた鼻から鮮血が噴き上がる。
「知っているか」
もう一度、膝が叩き込まれる。肉と骨が潰れる感触が手と脚に伝わる。
さらに、もう一度。男の身体はすでに力を失い、反応は鈍い。
「知っているか」
それでも掴んだ髪は離さず、引き寄せては叩き込み、同じ動作を何度も繰り返す。
プロセアはそのまま男を地面へ押し倒し、上から馬乗りになる。
「そいつは、バルデス、と呼ばれていた」
血に塗れ、変形した顔面を見下ろす。
男の口元がかすかに動き、血の泡が溢れ出す。
「……ぐ……っ、ぶぷ……」
潰れた鼻と唇の隙間から、歪な呼吸音が漏れる。
「……ば、るで、す……し、しってる……!」
言葉が崩れながらも、必死に繋ごうとする。
「……だ、だぃ……なな、かんく……!」
――第七管区。
息を引きつらせ、なおも絞り出す。
「お、おれは……かんけい、な……みみ、みのが、して……」
「関係ない?」
プロセアは、静かに見下ろしている。掴んでいた髪を引き上げ、わずかに首を反らせる。
「お前らが奪ったあの村の人たちは、どうなる」
男から返事はなかった。
次の瞬間、刃が走る。男の身体から力が抜け、血が遅れて吹き上がる。
「あの子たちは……」
プロセアは手を離し、ゆっくりと立ち上がった。足元で血が広がっていく。
焚き火が静かに揺れている。もう動くものはない。夜は、何事もなかったかのように流れている。
『わぁ、すごくきれいに、なったよ。また、きかせてほしいな』
プロセアは剣身を拭い、腰に戻す。
「……そうだね」
夜空を見上げる。
常月と影月が、雲の切れ間に浮かんでいる。
「まだ、終わらないよ」
プロセアは血の匂いが濃く残る夜営地に背を向け、森の奥へと溶けていくように消えていった。
【今回のトピック】
第二章「春」が始まりました。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この物語はギリシャ神話のペルセポネ(プロセルピナ)の神話をモチーフにしています。
とはいえ、あくまでフレーバーとして取り入れている程度です。実際の神話を知っていると、「あれ?」と思う場面があるかもしれません。もしかしたら、その対比から色々見えてくるものがある……かも?笑
【次回更新】
次回は、6/12 19:00更新予定です。
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