5話 果実の重み
部屋は静かだった。
天井付近の明かり取り窓からは、夕陽に焼かれた雲がゆっくりと流れているのが見えた。
プロセアの荒い呼吸が、小さく部屋を震わせている。泣き腫らしたまぶたは熱を持ち、涙の跡は乾いていない。
「……ゆるさない……」
かすれた声が、乾いた唇から漏れる。
男は黙ってそれを聞いていた。
「なるほど。生きる理由は十分らしい」
男はそう呟くと、静かに踵を返した。
室内へ斜めに差し込む夕陽を横切りながら、ふと思い出したように振り返る。
「まだ名乗っていなかったね」
男は長衣の裾を揺らし、プロセアに向き直る。
「私はゾイロスと言う。学者をやっている。そして、君を生かせる可能性を持つ人間でもある」
プロセアは荒い呼吸のまま、黙って天井を見つめていた。
「いま君の身体は、かろうじて生命を繋いでいる状態だ。半身を失った人間が生存できる道理はないんだけどね」
ゾイロスは、壁沿いに並ぶ書架の脇で足を止めた。その傍らには、古い木箱が置かれている。
「でも、君は生きている。理由は一つ」
鉄の留め金を外す。鈍い音を立てて蓋が開く。箱の中から黒い布包みを取り出し、机の上へ置く。
「銀漿だ」
布がゆっくりと剥がされる。
現れたのは、赤黒い肉塊だった。
両掌に余るほどの大きさで、まるで未熟な胎児のように丸まりながら、かすかな収縮を繰り返している。内側から湿った光が滲んでいた。
「銀漿が君の断面に定着した。拒絶も崩壊も起こさず、失われた肉体を補おうとしている。でも、それだけでは足りない。君は失いすぎたからね」
観察記録でも説明するような、淡々とした口調だった。
その言葉に応えるように、肉塊が脈打つ。静かな部屋に、心臓の鼓動にも似た音が響く。
「だから別の生命を使う」
肉塊に視線を落として、指先でそっと触れる。
「私はね、これをルピナと呼んでいる。古い植物の名前でね、荒れ地でも生き残り、どんな土地にも根を張る。生きるためなら周囲のものを取り込みながら育つ」
明かり取り窓から日没の光が細く差し込み、それを妖しく照らし出す。
まるで生き物のように脈打つそれは、どこか神聖なもののようだった。崇めるべきものを前にしたときのような、不思議な畏れが胸の奥をかすめる。
「死に損なった生命が稀にこうなる。肉体は滅びても、生きたいという執着が、こうやって歪んだ形で残るのさ」
指先で、その肉塊──ルピナの表面を軽く叩く。それは反応するように、ぶるっと震えた。
「多くは獣以下だ。ただ餌を求めて、蠢いて、いずれ崩壊する。でも、これは少し違うようだ」
ゾイロスの声が、わずかに熱を帯びた。
彼はルピナをそっと抱え上げて、プロセアへ少しだけ近づけた。
ルピナの一部がゆっくりと持ち上がった。細い触手のようなものが伸び、迷うように空中を彷徨い、プロセアの方へ向かった。
触手は空中で止まった。それでも何かを探しているようだった。まるで幼子が母の手を探すみたいに。
「どうやら君を認識しているらしい」
どくり、とルピナが大きく脈打つ。
プロセアの胸の奥が疼いた。なぜかはわからない。気味が悪いはずなのに、目を逸らすことができなかった。
「君が生きたいというのならば、選択肢は一つしかない。これを君の身体に接続する」
ルピナは言葉を理解しているみたいに、小刻みに震え出した。
肉塊の表面が波打ち、裂け目のような隙間が開閉する。その奥で濡れた肉が、捕食する瞬間を待つように蠢いていた。
「ルピナは生きようとする。そして君も生きようとしている。だから成立する」
ゾイロスは気を取り直すように、小さく咳払いをする。
「……話はまだあるが、後回しにしよう。君には時間がない」
彼はそう言って、プロセアの欠損した断面へルピナを少しずつ近づけていく。
プロセアの意識は混濁し、黙って見守るしかなかった。何が起きるのかはわからない。怖くないわけではない。
――生きて。
最後の母の声が耳の奥で蘇る。
プロセアはゆっくりとまぶたを閉じた。もう答えは決まっていた。だから、ただ身を委ねた。
プロセアに触れる瞬間、ルピナの触手が歓喜するように震えた。
――熱が生まれた。
身体の内側へ溶けた鉄が流れ込む。断面から一気に広がり、肩へ、胸へ、腹へ、首へ、全身を焼いていく。息が止まり、肉が裂け、骨が砕け、神経が一本ずつ引き抜かれ、見えない指が身体の奥へ入り込み、臓腑を掻き混ぜて、喉が開き、絶叫が漏れ、それが自分の声なのかもわからないまま耳を潰すほど響いて、それでも遠い、遠いところから聞こえてくる、鼓動が聞こえる、自分の心臓ではない、境界がわからない、腕はどこだ、足はどこだ、身体はどこまでが自分だ、思考が千切れ、記憶が飛んでいく、
あ
あ、ああ、あ、あ、赤い、ザクロ、お母さん、笑っ、白、刃が、ちぎれる、ちぎれる、ちぎれ、
何が? わたしの右が、だれかの、黒い、むしの、うね、うねり、たくさんの、糸、いと、いいいと、
いたい、
いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい、
「おまえが」だれ? 影が、のびて、わたしの、なか、を、喰って、吸い、
とけて、混ざる、ひとつの、
しぬの、みんな、そう、ぶっ、こわれ、
「ひゅう」「ひゅう」ジェシカ、ねえ、ジェシカ、わたしのなまえを、よんで、
口が、うごかない、唇が、ない、もう、なにも、ない、おと、が、きえ、
むし、うごく、せかいが、
あか、
あか、
赤、赤い、
ザクロ、ソウ、
そうだ、
ジェシカ姉ちゃん、教えてくれた、
一緒に、編んでくれた、
お母さん、手を振って、帰りを待っていた、
お父さん、いつも、お酒を飲んで、顔を赤くして、
流されていく。川へ落ちた花びらみたいに。それだけは嫌だった。痛みよりも、死ぬことよりも、ただ忘れることが怖かった。だから手を伸ばす。流されていく記憶へ。消えていく名前へ。忘れるな。忘れるな。忘れるな。胸の奥で暗い塊が脈打つ。憎しみだった。悲しみだった。生きたいという願いだった。それだけは消えなかった。どれだけ痛みに打ちのめされても、どれだけ記憶が流されても、その願いが闇の底で燃え続ける。
――生きる。
誰かの声ではない。
自分の声だった。
――生きて、忘れない、忘れさせない。
その瞬間、暗闇の奥で何かが応えた。
『……やっと』
声が聞こえた気がした。
『……あえた』
どくり、と大きな鼓動が鳴った。
『ね……え……』
その声は、最後まで聞こえなかった。
「……受け入れたようだね」
ゾイロスの声が聞こえた。
現実が戻ってくる。肉塊の鼓動と少女の鼓動が、少しずつ同じ律動になっていく。
「一つ、言い忘れていた」
ゾイロスは静かに呟いた。
「ルピナは君の身体を求める。君の肉体へ根を張り、神経を這い、君という器へ馴染んでいく。そしていつか、君を着て、君の顔で、君の声で、歩き始める可能性は否定できない」
誰に聞かせるでもない声だった。
沈みゆく夕陽が、痙攣する少女の横顔を濃く染め上げる。
「そのとき、それを君と呼べるかどうかは……私にもわからない」
次回は、6/5 19:00更新予定です。
「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、★評価やブックマークをいただけるととても励みになります。




