4話 蝕む夜の夜明け
雨が降っている。
熱を失った頰に、滴が落ちる。
その冷たさが、沈んでいた意識まで届いた。
暗い水底から、ほんの少しずつ浮かび上がるように、世界が戻ってくる。
息を吸うと、血と泥と涙の匂いがした。
濡れた服が肌に張り付いて、重たい。
何かを思い出しかけた。
その輪郭に触れる前に、また意識が沈んだ。
次に目が開いたとき、雨は止んでいた。
空が白んで、濡れた石畳が光をうすく照り返して、風が吹いて、静かだった。
身体は動かなかった。
身体の右半分がない。
剥き出しの断面がざわめいている。
まるで無数の線虫が蠢いているように。
痛みがあった。
強い、強い痛みだった。
痛みが這い回り、
痛みが絡み合い、
痛みが膨れ上がり、
痛みが呼吸している。
痛みの中に身体があった。
痛みは意識を齧っていった。
また意識が戻った。
空はもう高く明るくなっていた。
濡れた石の色。
夢から覚める前の色。
まぶたの裏まで染みる色。
太陽を映した湖の色。
最後に残った一日の色。
目を開くたびに、世界の色が少しずつ変わる。
その中で、一つだけ変わらないものがあった。
目の前、泥の上に横たわる少女──ジェシカの瞳が色を失ったまま、こちらを向いている。
その瞳を見るたび、胸の奥の深い場所で、暗い塊のようなものが大きく跳ねた。
それを表す言葉を、まだ知らなかった。
風が吹いた。
丘の町レヴィスは、いつも風が先に立つ。
井戸端の笑い声も。
石畳を駆ける足音も。
パン窯から立ちのぼる香りも。
みんな風に乗って町を巡っていた。
けれど、今は何もなくなってしまった。
風だけが吹いている。
何かを探すように。
誰かを呼ぶように。
空になった家々の隙間を抜け、血に濡れた石畳を渡り、壊れた井戸の周りを巡る。
今はもう返事がない。
迷子になった風が、レヴィスを彷徨っている。
胸の奥にできた暗い塊は、ずっと静まらない。
どくん、となる度に。
父の顔が赤く染まる。
どくん、となる度に。
母の手が冷たくなる。
どくん、となる度に。
ブラウン爺さんの大きな背中が霞んでいく。
どくん、となる度に。
ミラ叔母さんの呼ぶ声が遠ざかる。
どくん、となる度に。
ジェシカの笑顔が歪んでいく。
みんな、あの夜に塗り潰されていく。
それでも、死は訪れなかった。
痛みだけが生きている。
それ以外は、何もなかった。
その静寂がどこまでも続くように思えた頃。
――コッ。
何かが石を叩く音だった。
遠い。けれど、たしかに聞こえる。
――コッ。
また鳴った。
規則正しく、途切れることなく。
雨の音でも、風の音でもない。
世界のどこかで、まだ何かが動いている。
――コッ。
――コッ。
音は少しずつ近づいてきた。
――コッ。
やがて、それはすぐ傍で止まった。
プロセアの視界の端に、黒い革靴が映る。
泥を踏んだ先端は濡れていた。
革靴の人物は、しばらく何も言わなかった。
ただ、地面に転がるプロセアを眺めている。
そして、静かに声が落ちた。
「……この娘が、そうか」
男性の、落ち着いた低い声だった。
「なるほど。君が騒ぐわけだ」
足元の影がかすかに波打った。
「銀漿が定着している」
男は小さく首を傾げた。
「拒絶も崩壊も起こしていないどころか……まさか生かしているなんてね」
男はしゃがみ込んで、
「……聞こえるかい?」
と、泥の中に伏したプロセアへ静かに問いかけた。
プロセアの眼球がわずかに揺れる。
その反応を確認し、男は小さく息を吐いた。
それを合図に、プロセアの意識は深い闇の中へと途切れていった。
次に光が戻ったとき、場所は変わっていた。
石造りの壁に囲まれていた。
血と泥の匂いは消えて、薬品と古い紙の乾いた匂いに変わっていた。
外光は天井高くにある窓から差し込むのみで、室内の大半は影の中に沈んでいる。
プロセアは身体を動かそうとして、やめた。
眠っていた痛みが目を覚ます。肩から腰にかけてひどく重い。息をするだけで傷が軋む。
視線を落とす。白い包帯が幾重にも巻かれていた。その隙間から、赤黒い染みが滲んでいる。
かさり、と紙をめくる音がした。
部屋の隅に男がいる。本を読んでいたらしい。こちらの気配に気づき、静かに顔を上げた。
「……目が覚めたかい?」
男は本を閉じて、しばらくプロセアの様子を確かめるように視線を巡らせた。
「一つだけ、確認したい」
男は椅子を引いて立ち上がりながら、告げた。
プロセアは声を出そうとした。けれど喉は乾ききっていて、空気がかすれる音が漏れるだけだった。
男は水差しを取り、木の匙で彼女の喉を湿らせた。少し間を置いてから、男はゆっくりと言葉を発した。
「君は、生きることを、望むかい?」
生きる──その言葉がプロセアの胸の奥で音を立てた。
みんな死んだ。父も、母も、みんな。どうして。どうして自分だけ生きている。
「……っ」
喉の奥がひきつり、声にならない音が漏れた。
涙で視界が滲む。
揺れる光の向こう側で、いつものレヴィスの町並みがゆっくりと蘇ってくる。
風が吹いていた。
白い布が空を泳ぎ、石畳の上を木の葉が転がっていく。
坂道を駆け登る。
朝のレヴィスは、いつも風がよくおしゃべりをしていた。
パン屋の前を通ると、石窯から焼きたての香りが流れてきた。
ミラ叔母さんが、長い木杓で鉄皿を引き出している。
「あら、ちょうどいいとこに来たねぇ。ほら、焼きたてだからお食べ」
そう言って、ミラ叔母さんは丸パンをひとつ手渡してくれた。
熱くて、慌てて持ち替える。
叔母さんがパンみたいに丸い頰をゆるめて、ふふ、と笑った。
そのまま坂を登る。
雑貨屋の軒先には、色硝子の風鈴が並んでいた。
風が吹くたび、ちりちりと小さな音が鳴る。
店主の爺さんはいつも眠そうで、けれどプロセアが前を通ると、片目だけ開けて「今日は盗っていかないのか」と笑った。
広場では子供たちが追いかけっこをしていた。
木剣を振り回して、誰かが勇者役で、誰かが怪物役だった。転んで泣いて、またすぐ笑う。
ブラウン爺さんの畑の横を抜けると、土の匂いが濃くなる。
爺さんは腰を叩きながら鍬を振っていて、プロセアを見つけると、「プロセア、今日は丘が気持ちええぞ」としわがれた声を張った。
丘へ続く道は好きだった。
たくさんの草が揺れて、空が近い。
風守の丘へ着くと、ジェシカがもう座っている。
膝の上には摘んだザクロソウがたくさん広がっていた。
「プロセア、待ってたよ! 今日はかんむりの編み方を教えてあげる」
嬉しそうにそう言って、ジェシカは隣を叩いた。
丘の下にはレヴィスの町がよく見えた。
煙突の煙。小さな鐘楼。夕暮れへ向かう灯り。
ずっと、あそこへ帰るのだと思っていた。
丘を下りる頃には、空が赤く染まっている。
家の窓から灯りが漏れていた。
母の鼻歌が聞こえる。
父が酔っ払って笑っている。
どれも知っている景色だった。
どれも大好きな景色だった。
次の瞬間には、全部あの夜に塗り潰される。
あの口笛が聞こえる。
楽しそうだった。
祭りの余興みたいに。
みんなが泣いているのに。
みんなが死んでいるのに。
みんなの命を踏みにじるみたいに、あの口笛が鳴り続ける。
「……ふ、ぅ……っ……ふぅぅぅっ……」
一度溢れ出した嗚咽は、もう止まらなかった。
唇を噛む。歯を食いしばる。それでも震えは止まらない。
あの夜、銀の刃は振るわれた。
まるで雑草を刈るみたいに。まるで家畜を潰すみたいに。昨日まで笑っていた人たちが、土に倒れて動かなくなる。
目を閉じても消えない。目を開いても消えない。
あの夜が、ずっと目の前で続いている。
「……っ……ぅうあぁぁぁぁぁっ!!」
涙が止まらなかった。全身の傷が悲鳴を上げている。それでも泣いて、泣いて、泣き続けた。涙で洗い流せば、あの夜が消える気がした。泣き続ければ、みんなが帰ってくる気がした。けれど、どれだけ泣いても、誰も帰ってはこない。涙は何も変えてくれない。だからこそ、自分だけは覚えていなければならない気がした。
忘れたくなかった。
そして、奪ったあいつらにこそ、忘れさせてはいけない。
「……いき……」
震える唇から、かすかな声がこぼれる。
「……いきる……」
男は黙って続きを待っていた。
プロセアは涙で濡れた瞳を向ける。
そのまぶたは赤く腫れ、呼吸はまだ震えていた。
「いきて……あいつら……」
生死の境にありながら、その視線は揺らがなかった。
「……ゆるさない……」
次回は、5/30 19:00更新予定です。
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