3話 不浄の口笛
母に強く抱きすくめられていた。
顔は胸元へ押し付けられ、何も見えない。母の心臓は、罠にかかった小動物のように胸の奥で激しく跳ねていた。
外では怒号と悲鳴が幾重にも重なり、壊れる音が絶え間なく響いていた。そのとき、裏口の扉が開かれた。
「おい! 無事か!」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、ブラウン爺だった。
「ブラウン爺さん……!」
母の顔に一瞬安堵がよぎる。
しかし、それも束の間だった。近づく鉄靴の音に、再び表情が強張る。母はブラウン爺を見た。
「お願いです。プロセアを連れて逃げてください」
「イヤだっ! お母さんも一緒じゃなきゃ、絶対イヤだよっ!!」
母は震える手で、プロセアの頰を優しく撫でた。
「プロセア、お願い。いい子だから言うことを聞いて」
プロセアたちを追い詰めるように、鉄靴の音が大きくなる。
母の指が、プロセアの肩を強く握った。
「まだ誰かいるぞ!」
怒声が響く。母の肩がびくりと震えた。
ブラウン爺は黙ってその手を取る。節くれだった大きな手だった。安心させるように、一度だけ強く握る。
「プロセア、こっちにおいで」
プロセアは首を振り、母の服を掴んだ。
母は静かに娘の顔を見つめた。
「ごめんね……ごめんね……あなたには――」
その言葉は最後まで続かなかった。
「お願い、生きて」
ブラウン爺がプロセアを抱き上げると、そのまま駆け出した。
その拍子に、頭に載せていた花冠の蔓が切れた。ザクロソウの花の連なりが地面に落ちる。雨に打たれて、それは無残にほどけていった。
「イヤだっ! お母さんっ!!」
プロセアは暴れ、必死に手を伸ばす。
母が、最後に笑った。プロセアの記憶の中の自分が、悲しい色に染まらないように。
白い外套の兵士が迫る。
白銀の刃が、母の胸を貫いた。
プロセアの喉が裂けるほど開いた。
「――ぁ、あ゛ッ、ぁああああぁぁッ!!」
奥から、壊れたような音が漏れた。その叫びは、少女の小さな身体には収まりきらなかった。喉が裂けて血が滲んでも、叫びは止まらない。
「見るんじゃない!」
しわだらけの無骨な手が、プロセアの目を覆った。
その背後から、複数の鉄靴の音が迫ってくる。
「不浄の輩め! 大人しく罰を受けよ!」
白い外套の兵士が現れた。
ブラウン爺はプロセアを地面へ下ろすと、両肩を掴み、言い聞かせるように話した。
「プロセア、西門から湿地帯へ逃げるんだ。いいね。絶対に振り返るんじゃない」
そして、その背を強く押す。
兵士が間近へ迫り、剣を振り上げた。
ブラウン爺は一歩踏み込み、その身体へ組みつく。
「走るんだっ!」
次の瞬間、別の兵士も背後から突きかかった。鋼の刃が、老人の身体を貫いた。
二つ、三つ、次々と刃が突き立つ。ブラウン爺の身体がびくりと震えた。それでも、掴んだ兵士を離さない。
「おい! こっちにまだいるぞ!」
「絶対に逃がすなよ!」
ブラウン爺の背中に、さらに刃が突き込まれた。
やがて力が抜けて、身体が崩れ落ちる。
白い外套の兵士たちは、血に濡れた刃を引き抜いた。
その頃にはもう、プロセアは走っていた。
なぜ走っているのか、自分でもわからなかった。
背中を押された。「走れ」と言われた。ただそれだけだった。石畳が何度も視界の下で流れていく。
後ろではまだ怒号が響いていた。
しかし、振り返ることができない。振り返ったら、何か決定的なものを見てしまう気がした。それを見たら、もう二度と歩けなくなる気がした。
だから、プロセアは走った。ただ、逃げるように。ただ、転ばないように。小さな身体で、必死に。
やがて見慣れた家の前に出た。
ミラおばさんの家だった。ここなら――そう思った瞬間だった。
何かがおかしいことに気づいた。
家の前に、白い外套の兵士たちが立っていた。地面には、ミラおばさんが押さえつけられている。
「あはははっ……!」
誰かの高らかな笑い声が、夜の空気を裂いた。
「や、やめてええぇぇぇっ!!」
その笑い声に被さるように、ミラおばさんの悲鳴が響いた。
プロセアは足を止めた。
兵士たちはミラおばさんを地面に押さえつけ、両腕を掴んでいた。ミラおばさんは必死に身をよじっている。
「離してください! お願いです! 娘を……っ!」
その声が途切れる。
兵士の影の向こうで、誰かが地面に押し倒されていた。
泥に汚れた少女だった。服は裂け、髪が顔にかかっている。その身体の上に、白銀の甲冑を纏った騎士が跨っていた。
「あははっ……!」
騎士はなおも愉しそうに笑いながら、ひゅう、と口笛を吹いた。ひどく軽い音だった。まるで、本当に遊んでいるかのように。
「バルデス隊長、相変わらず趣味が悪い」
「ま、どうせ不浄民だ」
「何をしたところで誰にも咎められない。聖伐役の特権だな」
兵士たちの間から、下卑た笑いが漏れる。
どうして笑っているのか、プロセアにはわからなかった。ただ、とても悍ましいことであるとはわかった。
泥に押さえつけられた少女の顔が、ふと横を向いた。髪の隙間から、見慣れた顔が覗いた。
――ジェシカだった。
生理的な嫌悪と、言葉にできないほどの異様さが全身を駆け巡った。胃の奥がひっくり返る。冷たい指で喉を掴まれたように息が詰まる。目を逸らしたかった。けれど、逸らせなかった。
ミラおばさんの悲鳴が響く。
それすらも心の底から愉しんでいるように、バルデスと呼ばれた騎士は一際高く口笛を吹いた。
気がつくと、プロセアは走り出していた。
家の壁に立てかけてあった鍬を、両手で掴む。小さな身体で、それを振り上げる。
「お姉ちゃんからどけろおぉぉっ!!」
叫びながら、バルデスへと突っ込んだ。
バルデスがこちらを振り返った。白銀の兜の奥から覗いた片目は潰れていた。右目を縦に裂く深い剣創。その周囲には、黒く焼き付いたような蠍の刺青が刻まれている。
バルデスが剣を振り下ろす。
白銀の刃がプロセアの右肩へ食い込んだ。激しい衝撃が全身を貫く。刃はそのまま肩から胸へ縦に滑り、プロセアの身体は石畳へ激しく叩きつけられた。
何が起きたのか、わからなかった。
バルデスは、潰れた右目を歪めるように笑いながら、こちらを一瞬見下ろした。
「子ども? ……んー、ちょっと早すぎるかなあ」
肩をすくめる。
「それに、その身体じゃ楽しみようがないねえ」
バルデスは興味を失ったように視線を逸らすと、再びジェシカの身体へ覆いかぶさった。
プロセアは動こうとした。けれど、身体が動かなかった。右側が、何も感じない。
いや――感じないのではない。
そこには、何もなかった。残った身体の断面から、見たことのない赤黒いものが溢れていた。
それが何なのか、すぐにはわからなかった。少し遅れて、自分の身体が壊れたのだと気づいた。焼けつくような痛みが、あとから押し寄せた。
それでも、目は閉じられなかった。
布が裂ける音。
獣のような男の荒い息。
泣きじゃくる、ジェシカの掠れた声。
半身を失ったプロセアの目の前で、その光景は続いていた。身体は動かず、視線がそこに縫い付けられている。
ジェシカの顔が、ふとこちらを向いた。目が合った。彼女が必死に口を動かしているのが見えた。いつも笑顔で見せてくれるはずの、唇の動きを何度も繰り返していた。
――プロセア、プロセア、と。
バルデスが煩わしそうに腕を振り、ジェシカの胸に剣が突き立てられた。
次第に彼女の瞳は色を失っていき、覆い被さる男の動きに合わせて虚ろに揺れていた。
もう、誰の声も聞こえなかった。
風の感触が、剥き出しになった断面を撫でて、それきり世界は閉じた。
次回は、5/29(金)更新予定です。
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