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2話 祝福の浸潤

挿絵(By みてみん)


 夜が、来なかった。

 夕陽が沈めば、いつもなら藍色の帳が町を覆うはずだった。

 けれど、この日の空は違った。地平線に消えたはずの光を追い越すように、天頂からどろりとした赤が滲み出した。


「……きれい」


 プロセアは窓辺に立ち、空を見上げていた。

 空には二つの月があった。《常月とこつき》のすぐ傍らで、《影月かげつき》が熟れすぎた果実のように、(くら)く、重たい赤を放っている。

 空一面が赤く染まり、雲も、建物も、山の影さえも、その色に呑み込まれていく。


 息を吸うたび、喉の奥にかすかな鉄の味が残る。肌に触れる空気が、まとわりつくようなぬめりを帯びる。まるで見えない水に満たされていくみたいに、身体が内側から重くなる。


「プロセア、窓を閉めなさい」


 父の声は低く、強張っていた。

 思わず振り返ると、窓の向こうを睨みつけている。

 母は祈るように胸の前で手を組み、空を見つめている。


 ――降り始めた。

 それは雨に似ていた。けれど、ただの雨ではない。

 影月が赤く染まる夜には、目には見えないはずの《銀漿ぎんしょう》が、雨や霧に混じって地上に降りることがある。


 触れるな。

 吸うな。

 祈ってやり過ごせ。


 それが、この丘に生きる者たちの古い約束だった。家々の戸が閉じられるたび、町がひとつずつ静かになる。


「……今夜は、ひどいな」


 窓の外を見遣りながら、父は呟いた。

 空から落ちる無数の鈍色(にびいろ)の滴が、屋根を叩き、石畳に触れた瞬間、かすかな火花のように弾ける。水よりも重いその飛沫は、弾けるたびに石を穿つような音を立てていた。


 その雨音を切り裂くように――遠く、丘の向こうから地響きが届いた。地を這うような振動が、空気を震わせる。

 やがてそれは、はっきりとした音に変わる。蹄の重みが、大地を踏み鳴らしていた。


「……この夜に、馬だと?」


 父の顔色が変わった。その指が、窓の掛け金にかかる。

 赤い月の夜に、外を駆ける者などいるはずがない。


「聖伐なり!」


 突然、怒号が夜を貫いた。

 蹄の奔流が押し寄せてくる。雨を蹴散らし、激しく地面を叩く音が丘の道を駆け上ってきた。


「母さん、プロセアを連れて裏へ」


 父は古びた剣を手に取った。昼間まで土を耕していたその手は、わずかに震えている。


「でも――」


 母が息を呑む。


「いいから行きなさい!」


 父は振り返らずに声を尖らせた。震える声音の奥には、はっきりとした覚悟があった。


 母がそっとプロセアの手を取る。

 プロセアは導かれるまま、家の裏口へ向かった。

 歩きながら、母が視線を落とす。その顔は青ざめていて、今にも泣き出しそうだった。

 それでも、プロセアと目が合うと無理に口元を緩める。


「……お母さん?」

「大丈夫、大丈夫だからね。きっと――」


 そのとき、隣家の戸板が蹴破られる音が響いた。

 耳を突き刺すような悲鳴が上がり、それを押しつぶすように野太い声が空気を切り裂いた。


「神に背きし不浄の徒へ、救済の鉄槌を! 聖伐なり!」

「聖伐なり!」


 叫びは一つではなかった。いくつもの声が重なり、夜の空気を震わせる。その唱和は、祈りにも似た恍惚と狂気の熱を帯びていた。


 母の腕がプロセアを抱き寄せる。

 プロセアは何が起きているのか理解できなかった。突然の異常事態に、身体の奥から込み上げてくる震えが止まらない。


 嵐の夜のように、しばらくすれば過ぎていくものだと思いたかった。朝になれば、またいつもの町に戻るのだと。けれど、胸の奥で、何かが静かに告げていた。

 

 ――この夜は、終わらない。


 外では、戸板が砕ける音と叫び声が途切れることなく響いていた。

 誰かが泣き叫び、誰かが怒鳴る。そのすべてを、同じ言葉が覆い尽くしていく。


「聖伐なり!」


 家の玄関の扉が蹴り破られた。

 白い外套を纏った兵士たちが、雪崩れ込んでくる。外套には双月の紋章が染め抜かれ、雨に濡れて血のように滲んでいた。

 濡れた首筋には、淡く発光する《聖印》が浮かび上がっている。鎖帷子と鉄兜が、赤い月の光を鈍く反射した。


「……《聖光律教団》か! この狂信者ども!」


 父は叫びと同時に剣を振り上げ、立ち向かった。

 その剣が振り下ろされるより前に、白銀の刃が閃いた。


 父の首から鮮血が噴き出した。

 身体がよろめく。何かを掴もうとするように手が宙を引っ掻く。喉の奥から血に空気が混じる音が漏れ、糸が切れた人形のように崩れ落ちていく。

 その父の頭を、兵士の鉄靴(てっか)が踏みつけた。ぐしゃり、と頭蓋が潰れる音が響いた。

 赤い飛沫が石床に弾け、雨水に押し流されてゆるゆると床を這っていく。


 母はとっさに、プロセアの頭を胸へ抱き寄せた。

 プロセアは父の最後を見ていない。しかし、聞こえた音だけで十分だった。もう取り返しのつかない何かが起きたのだと、わかってしまった。

 見たこともない暴力の光景が、勝手に頭の中で描かれる。その想像は留まることなく、意識に反して脳が続きを作り出していく。父が物のように壊されていく光景ばかりが、頭の中へ浮かび続ける。


「……お、お母さんっ!! お父さんはっ!?」


 母は何も答えなかった。

 ただ、プロセアの頭を胸に抱いたまま、そっと向きを変える。震える手で、彼女の目を覆った。


「……見ちゃだめ。あなただけは、お母さんが守るからね」


 母の身体は、ひどく震えていた。

 外では、誰かの悲鳴が絶えず続いている。

 赤い月の光が、まるで血のように窓から流れ込んでいた。

次回は、5/23(土)更新予定です。

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