1話 始まりの花冠
丘の町レヴィスは、いつも風が先に立つ。
朝、井戸端で笑う声も。
昼、石畳を駆ける足音も。
夕方、パン窯から立ちのぼる香りも。
それらは風に運ばれて、町の中をぐるりと巡っていく。丘の上に立てば、その流れが手に取るようにわかった。
プロセアは、その丘のいちばん上が好きだった。
そこからは、レヴィスの屋根が全部見える。赤茶の瓦が並び、白壁が陽光を照り返し、遠くの畑では麦がさざ波のように揺れている。
「プロセア、風守の丘へ行くのかい?」
パン屋のミラおばさんが軒先から声を上げる。
「うん! お花を摘んでこようと思うの」
風守の丘。町の頂にある、風の通り道だ。
湿地帯を越えてこの地に辿り着いた祖先が、最初に立った場所だと聞く。
そこは風向きがよくわかる。明日の天気も、嵐の前触れも、湿地帯の霧の流れも、町のどこよりも早く知ることができる。
だから“風を守る丘”と呼ばれたのか、それとも、あの丘に立つと風に守られている気がするからなのか――その由来を、プロセアは知らない。
ただ、そこに立つと胸の奥がすうっと軽くなる。それが好きだった。
「丘に行くなら、日が落ちる前に帰りなさいね」
「どうして?」
「今日は特別な夜だからね。どの家も、早めに戸締りをする日なの」
プロセアが首をかしげると、ミラおばさんの脇からジェシカがひょいと顔を出した。
「またザクロソウ摘むんでしょ?」
「うん! お花のかんむりもつくるよ!」
「じゃあさ、帰りに寄ってきなよ。髪、編んであげる。かんむりが似合うように」
「ほんと!?」
「ほんと。だから早く帰っておいでね」
プロセアは手を振り、跳ねるように駆けていく。風守の丘へ向かう足取りは、いつもより少し弾んでいた。
井戸のそばでは少年たちが泥遊びに興じ、鍛冶屋の若旦那は火を落とす支度をしている。
鶏小屋からは羽ばたきの音が聞こえ、路地裏の猫は呑気に欠伸をしている。
レヴィスは、小さい町だ。すべてが顔馴染みで、そのどれもが、明日も変わらずそこにあると信じている。
その丘のてっぺんで、風を背に受けながら――
「……五、六。これで、よし」
プロセアは膝元に広げた白布の上に、摘みたての花を並べた。
燃えるように紅い小花――ザクロソウ。膨らんだ蕾は果実のようで、開けば赤い花弁がこぼれ落ちる。蔓は強く、ひとたび結べば簡単には解けない。
「プロセア、かんむりを編んでるのか。精が出るね」
通りがかりのブラウン爺が笑う。
「ザクロソウ、綺麗なんだもん! この花がね、いちばん好き」
プロセアは慣れた手つきで器用に蔓を編み込み、小さな花のかんむりを作り上げている。
「その花はなあ、うちの婆さんも好きでな」
「そうなんだ! 一緒でうれしいな」
「はははっ。それはな、離れたくない人にあげる花なんだってよ」
「離れたくない人?」
「うん。遠くに行っちまわないように、ぎゅっとな」
ブラウン爺は自分の両手を、ぎゅっと握ってみせた。プロセアも真似をする。
「じゃあ、ブラウン爺ももらったの?」
「うん。昔、婆さんにな。頭にちょこんとのせてくれてなあ」
「似合ってた?」
「そりゃあ、村一番の男前だったからな」
「うそだー!」
二人で笑い合う。笑い声が風にほどけていく。
「ほれ、日が傾く前に帰りな。うちの人が心配するぞ」
ブラウン爺は手をひらひら振って、畑のほうへ歩いていった。
「はーい!」
プロセアも手を振り返す。
爺の背中は、小さくなるまでゆっくり揺れていた。
風が少し強くなり、白布の端がぱたぱたと鳴る。
プロセアは編みかけの蔓を引き寄せ、続きを結ぶ。摘みたてのザクロソウを丁寧に重ね、花冠を二つ、編み上げた。一つは自分。もう一つは、いつも隣に並べるため。そうしていないと、どこか落ち着かなかった。
プロセアは花のかんむりをそっと白布で包み、胸に抱える。丘の上をひとまわりする風が、頬をやさしく撫でていった。
丘を降りると、パン屋の窓から灯りがこぼれていた。
「ほら、座って」
ジェシカが店の裏口の段に腰を下ろさせる。
指先が、プロセアの黒髪をすくう。陽に焼けた指の間を、やわらかな髪がさらりと滑り落ちる。器用に三つに分け、編み込んでいく。
「プロセア、丘の香りがするね」
「いい香り?」
「うん。とっても」
結び終えた髪を、ジェシカがやさしく撫でる。編み込まれた黒髪は、夕陽を受けてほのかに艶を帯びていた。
「ほら。これでかんむりが落ちないわ」
プロセアは頭を振ってみせた。
編み込まれた黒髪が揺れ、ザクロソウの香りがふわりと立ちのぼる。
ジェシカを見上げて、プロセアは嬉しそうに笑う。それを見て、ジェシカはそっと目を細めた。
「また明日ね、プロセア」
「うん! また明日ね、ジェシカ姉ちゃん!」
プロセアは大きく頷き、くるりと踵を返す。
風が、編み込まれた黒髪をなびかせた。
振り返ると、ジェシカがまだ軒先で手を振っていた。
風に背を押されるように、家へと駆け戻る。
「ただいま!」
「おかえり」
母は鍋をかき混ぜながら振り返る。
鍋の中では豆と根菜がことこと煮えている。湯気が揺れて、夕陽に溶ける。
父は卓のそばで農具を拭いていた。ごつごつした指先が、布を丁寧に動かしている。
「おお、ザクロソウのかんむりか。似合ってるじゃないか」
プロセアは胸を張る。
「えへへ。ジェシカ姉ちゃんにね、髪も編んでもらったんだよ」
父は小さく笑った。
食卓の上には、黒パンと煮込みと、少しだけ残ったチーズが並んでいく。決して豪華ではないけれど、あたたかい。
プロセアは、もう一つの花のかんむりをそっと卓の端に置いた。
「また二つ?」
母が尋ねる。
「うん」
「どうして二つなの?」
プロセアは首をかしげる。
「……わかんない。でも、二つのほうがいいの」
その言葉に、母が食卓を整える手をわずかに止めた。
父が農具を拭く布の動きも、不自然に途切れる。
二人は一瞬視線を交わし、それからすぐに何事もなかったかのように作業に戻った。
「……そうね。二つあるほうが、寂しくないものね」
母のその声は、どこか遠い場所へ向けて放たれたように響いた。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけている。三人の影が床に長く伸びる。その影は、重なり、揺れて――一瞬、四つあるように見えた。
プロセアは瞬きをする。
影は、三つに戻っていた。
窓の向こう、丘の上。
暮れかけた空の中で、もう一つの月だけが昏く赤かった。




