16話 罰のゆくえ
夜の湖は、岸に打ち寄せるわずかな波音を残すばかりだった。
風が吹くたび、水面に映る常月が揺れる。傍らの影月は、今はひっそりと淡い赤を滲ませていた。
日中は賑やかだった水鳥の声も今は聞こえない。風が静かに湖面を撫で、まるで世界が穏やかな寝息を立てているようだった。
メルキオの家は、湖から少し離れた丘の上にあった。
庭先には荷車が二台、無造作に置かれている。軒下には薪や縄、補修途中らしい車輪が積まれ、裏手には厩と倉庫を兼ねた大きな離れが母屋へ寄り添うように建っていた。
長く使い込まれた木造の家だった。
運んできた荷物も、抱え込んできた秘密も、すべて壁や柱へ染み込んでいるように見えた。
ゾイロスは家を見上げて言った。
「いい家だね。荷を隠す場所が多い」
「褒めてんの、それ」
ミロシュは口元を緩め、白い牙を覗かせた。
「さて……」
ゾイロスは酒樽をごとりと地面へ置いて、木戸へ手を伸ばしかけたときだった。
「開いてるぞ」
中から声がした。
ゾイロスは肩を竦めてみせて、「失礼」と断り、木戸を押し開けた。
土間の奥では、メルキオが椅子へ深く腰掛けていた。
夕方に桟橋で会ったときとは違い、竹笠は外している。
今は煙草を咥えて、椅子の背へ身体を預けながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「待ってたぜ」
煙草をくゆらせながら、顔がこちらへ向いた。
その目は、三人ではなく酒樽へ向いている。
「おっさん、人の顔より酒なの?」
ミロシュが悪態を突く。
メルキオはそれには構わず口許に笑みを浮かべながら、三人の顔を順番に見遣る。
「ん?」
メルキオの視線がプロセアで止まる。
「どうした嬢ちゃん、さっき会ったときよりヒデエ顔してるな」
ミロシュがプロセアの前にぬっと立つ。
「うっさい。酒飲みが首突っ込むとこじゃないから」
「何だ? 可愛げのねえ犬だな、番犬向きではあるけどよ」
メルキオは長く煙を吐き出した。
「怒らせたら噛みつくぞー」
ミロシュが眉を吊り上げる。
ゾイロスが後ろからひとつ咳払いをする。
「失礼。犬の躾の話はあとにしてもらえないか」
「ちょっと、なんでアンタまで犬扱いなんだよ!」
ミロシュは獣耳をぴんと立て、むっとした顔でゾイロスを振り返る。
その耳を、プロセアは不思議そうにじっと見つめる。
「……その耳、犬じゃないの?」
「い、犬だけど! そういう話じゃない!」
メルキオはひとしきり笑うと、煙草を揉み消して立ち上がった。
「まあいい、酒は届いた」
そう言って、床に置かれた酒樽へ歩み寄り、ごつごつした指で樽を叩く。
「これを開けながら、話を聞いてやろう」
しばらくして、四人は木のテーブルを囲んでいた。
メルキオは酒樽を台の上へ横倒しに据えると、小刀で栓口の木栓をこじ開けた。
ぽこん、と乾いた音が部屋に響き、果実酒の甘い香りがふわりと広がった。
「いい音だ。旨い酒ってのはな、音まで旨い」
メルキオは木杯を果実酒で満たすと、香りを確かめるように鼻先へ近づけた。
満足そうに目を細めると、ゆっくりと木杯を傾ける。
舌の上で果実酒を転がし、喉を鳴らして飲み下した。
「これは旨い……」
ミロシュは尻尾を左右に揺らして、メルキオの木杯に顔を近づける。
「ねえおっさん、ウチにも一杯ちょーだいよ」
「やっぱり犬……いや、ちょっと待ってな」
メルキオは苦笑しながら別の木杯へ果実酒を注ぎ、ミロシュへ差し出す。
彼女は待ちきれない様子でそれを受け取ると、ゴクゴクと豪快に煽った。
「おいおい、果実酒の嗜み方を知らねえのか」
「うんまっ!」
プロセアは二人の様子を眺めていた。
酒の味はわからない。けれど、二人とも本当に美味しそうで、不思議と自分も味わったような気持ちになる。
「君はダメだよ」
ゾイロスがプロセアに向かって言う。
「……まだ何も言ってない」
「顔にそう書いてあるように見えるが」
プロセアは黙って俯いた。
一方、メルキオは上機嫌そうに木杯を揺らしている。
「よし、今の俺は気分がいいぞ。大抵のことなら教えてやれる」
「第七管区聖庁へ入りたいの」
プロセアは顔を上げるなり、間髪入れずに言った。
メルキオの動きが止まった。
「……思ったより面倒だった」
ミロシュは木杯を傾け、残りを飲み干す。
「大抵のことなら教えてくれんじゃないの? 口だけ?」
「おい、誰が無理だと言った。面倒だと言ったんだ」
プロセアの目が見開く。
さっきまで俯いていた少女の視線が、ぴたりとメルキオへ向けられた。
その変化に気づいたのか、メルキオは少しきまりが悪そうに笑う。
「そんな目で見るなよ。大した話じゃねえが、昔に何度か取引したことがある」
「……何を運んでたの?」
プロセアの眼差しが、静かに鋭さを帯びる。
「まあ、色々だ」
そう言ったきり、メルキオは視線を伏せた。
ほんの一瞬、その顔から笑みが消えたように見えた。
プロセアが何かを言おうとする。
「……今はもうやってねえ。それで十分だろ」
遮るように言い放つと、酒を一口あおった。
「で、聖庁の入り方だったな」
彼は頭の中の記憶を探るように視線を巡らした。
三人はそれぞれ静かに続きを待っていた。
外では夜風が木々を揺らし、遠くで獣の遠吠えがひとつ響いた。
「まず、聖庁には門が三つある。正門、巡礼門、荷受門だ。正門と巡礼門を通るには聖印かそれ相応の証明が要るが、荷受門は要らねえ」
「なーんだ、楽勝じゃん」
ミロシュが明るく言ったが、メルキオは鼻で笑った。
「そんな簡単な話じゃねえよ。正規の荷運びは、積荷も帳簿も厳しく検められる」
ゾイロスは当然だと言わんばかりに頷いた。
「それはそうだろうね。聖庁には毎日大量の物資が運び込まれる。食料、日用品、建材……あの規模を維持するとなれば、それなりの金が動く。荷受門こそ目が厳しいはずさ」
「え、じゃあダメじゃん」
ミロシュがわかりやすく肩を落とす。
メルキオは酒を一口含み、口の端を吊り上げた。
「だから、正規じゃなくて裏を使うんだよ。教団だって所詮は人間の集まりだ。それだけの人間がいりゃ、当然それだけの欲もある」
彼は拳を握り、自分の胸元を叩いた。
「そこで、俺の出番だ。何度か裏取引した誼でな、荷受門の門番どもも、俺の顔を見りゃ話が早い。多少握らせりゃ、荷の一つや二つ増えても帳簿は綺麗なままだ」
ゾイロスが興味深げに目を細めた。
「なるほど。メルキオ氏の顔と実績がそのまま通行証になる、と」
「そういうことだ。お前らを荷物として紛れ込ませるのも、俺が付いてりゃ難しくねえ。ただし――」
メルキオは杯を置き、初めて真剣な目で三人を見た。
「中に入ったら、あとはお前らの腕次第だ。そこまでして聖庁に入りてえ理由はいちいち詮索しねえが、俺はそこまで面倒見ねえぞ。約束は運び屋として荷を届けるまでだ」
プロセアは黙って彼の言葉を聞いていた。
右腕の奥が小さく熱を持つ。ルピナの声は聴こえないが、その存在を知らせるように疼いていた。
メルキオは再び酒をあおり、ぬるい息を吐いた。
「それで? やるか、やらねえか」
「運んでくれさえすれば、十分よ」
プロセアは真っ直ぐにメルキオを見つめた。
メルキオは一瞬言葉に詰まり、頭を掻いた。
「はっ。若えのに大した覚悟だぜ。おれもこんな稼業をやって長いが、聖庁に侵入してえって言ったやつは聞いたこともねえよ」
「侵入か……面白そうじゃん」
ミロシュの目は、やけに楽しそうに輝いていた。
その向かいで、ゾイロスが脱力するように溜息を吐く。
「やれやれ。ともあれ、話はまとまったようだね」
メルキオは三人を見回しながら言う。
「とは言え、一度怪しまれりゃ終わりだ。失敗すりゃ俺もお前らも揃って首が飛ぶ」
そう言って腰を上げた。
「根回しにも準備がいる。二、三日時間をくれ。準備ができたら知らせる」
プロセアは頷いた。
聖庁への道は見えた。もう遠くなかった。
あの夜を忘れたことは一度もない。
全部、ここまで連れてきた。
引き返す理由は、どこにもなかった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
【今回のトピック】
ミロシュは犬扱いされていますが、設定上は狼と人間の半獣人です。
プロセアは半ば人ではなく、ゾイロスは……半狂人です(笑)。
この物語は「境界」に立つ存在が多いです。
人と異形、生と死、祈りと復讐、善と悪、法と非法。そういう曖昧な境界で揺れながら、それぞれが何を選ぶのか、そんなことを意識していきたいと思います。
【次回更新】
次回は、7/19 18:00更新予定です。
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