15話 過去の檻
桟橋を離れ、夕闇が本格的に降りてきた湖岸の道を三人は歩いていた。
『酒樽をひとつ持ってきたら、話を聞いてやる』
メルキオにそう言われた通り、新酒の酒樽を手に入れるため、水月亭へ向かっている。
「話を聞くだけで酒樽一個かあ……」
ミロシュは不服そうに下唇を突き出して、ぶつぶつと文句を零した。
「お酒って、そんなにおいしいんだね」
「いや、そういう話じゃなくて」
ミロシュとプロセアのやり取りを、ゾイロスは楽しそうに笑う。
「まあ、もっと厄介な要求を覚悟してたからね、酒樽で済むならまだ安いものだよ」
「……そうなんだ」
プロセアは相槌を打ちながらも、どこか腑に落ちないような顔をしていた。
「こういう世界じゃ、借りを作るのが一番面倒だからね」
「借り?」
「恩でも義理でもいい。ひとつ作れば、いつ返せと言われるかわからない」
「あー……」
ミロシュはばつが悪そうに頬を掻いた。
「鐘無しなんてそういうのばっかだよ。飯奢ったから手伝えとか、昔助けてやっただろとか。そういうのが延々続く」
「だから、鐘無しに何かを頼むときは、先に払うものを払った方がいい。後払いやタダほど高くつくものはないからね」
ゾイロスは肩を竦め、苦笑を浮かべた。
プロセアは二人の顔を見比べた。
何となく大事な話をしているのはわかった。けれど、自分にはまだ縁遠いことのように思えた。
「……酒場には、お魚あるかな」
話題は唐突に切り替わった。
ミロシュは一瞬きょとんとしながら、すぐにぱっと顔を輝かせた。
「なはは! 世知辛い話はさておき、魚だ魚!」
「白身魚が、いいな」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みを交わした。
『おさかな』
不意に頭の奥で声がした。
『おさかな、おさかな』
ルピナが嬉しそうに連呼する。
その声に呼応するように、右腕の奥がかすかに疼いた。
プロセアはふと顔を伏せ、袖口を押さえる。
「ん? どうした?」
「ううん、なんでもない」
そう言って、プロセアは歩みを速めた。
夕闇の向こうに、水月亭の灯りがぽつりと浮かんでいる。
三人は湖岸の道をその灯りへ向かって歩いた。近づくにつれ、人々の笑い声が聞こえ始める。
そこは、湖畔の里ミズハで最も大きな酒場だった。
扉を開けると、熱気と喧騒が一気に押し寄せる。
漁師、船乗り、荷役、鐘無し、行商人――さまざまな人々が肩を寄せ合い、酒を飲み、笑い合っていた。
木製の梁には乾燥魚が吊るされ、壁には大漁旗が飾られている。
「おお……」
ミロシュが大きな身体を大袈裟に逸らして、驚いてみせる。
「良い酒場じゃん」
プロセアの視線は、別の場所へ吸い寄せられていた。
天井の梁から、何十匹もの乾燥魚がずらりと吊るされている。燻された香りが店内に漂い、灯りを受けた鱗が鈍く艶めいていた。
「うわ。お魚が、いっぱい……」
思わず零れた声とともに、頰がふっと緩む。
その横顔を見たミロシュは、得意気な顔で大きく頷いてみせた。
「幸い、道中で臨時収入ももらったしね。今夜は魚祭りといこうじゃん」
「うん」
『うん』
二人は視線を交わし、固く頷き合った。
「本当の目的を忘れないようにね」
ゾイロスが釘を刺すように言う。
「「忘れてない」」
二人の返事は、示し合わせたように重なった。
ゾイロスは苦笑を漏らし、空いている席へ腰を下ろす。
プロセアとミロシュも、その向かいへ並んで座った。
酒場の中は賑やかになる一方だった。
漁師たちがその日の漁果を自慢し合い、船乗りたちが大声で何やら歌い、行商人たちが次の目的地について語り合っている。
その喧騒を縫うように、焼き魚や魚介の煮込み、香草をまぶした燻製など、湖の幸を載せた皿が次々と運ばれていった。
プロセアの視線は、忙しなくその料理を追いかけている。
「見すぎ見すぎ」
ミロシュが茶化すように笑う。
「そ、そんなに見てないけど……」
否定したものの、その視線はまた料理へ吸い寄せられていた。
それを見て、ミロシュは堪えきれず吹き出す。
ほどなくして、恰幅の良い店主が卓へやって来た。
「注文は?」
店主は慣れた手つきで肩の布巾を掛け直し、三人を見回した。
ゾイロスは献立に目もくれず、迷いなく口を開く。
「酒樽をひとつ頼みたい。新酒が入ったと聞いてね」
その言葉に、店主の表情がぴたりと止まった。
「……まさか、メルキオの差し金か?」
「いつものことなのかい?」
店主はうんざりしたように鼻を鳴らす。
「そうだよ。あいつ、うちが新酒を仕入れるたびに、どっかの余所者を言いくるめて運ばせるんだ。今朝も樽の前で、腹を減らした野良犬みてえに眺めてやがった」
「なるほど。では、今回は私たちがその余所者というわけだ」
ゾイロスは苦笑を漏らす。
「そういうことだな」
「代金を支払えば問題ないかな?」
「金を払ってくれるなら、うちは文句はねえよ」
店主は帳面を開き、炭筆を手に取った。
「で、他には?」
ミロシュが待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「炙りマス! 湖エビのから揚げ! 燻製ニジマス! 水竜魚の香草焼き! 魚介のシチュー! あと黒パンをてんこ盛りね!」
「おう、景気がいいな」
店主は慣れた手つきで帳面へ書き付けていく。
一方、プロセアは運ばれていく料理へ視線を巡らせ、少しだけ考え込んだ。
「白身魚のフライと、魚出汁のスープと、あと……ミルク」
店主の手がピタリと止まる。
「ミルク?」
「ある?」
「あるけどよ。酒場なんだがな、ここ」
店主は苦笑しながら帳面を閉じる。
「待ってな」
そう言って厨房へ消えていく。
近くの卓では、漁師たちが杯を傾けながら談笑している。
「そういや、今日は採取隊の連中がまだ来ねぇな」
「白泪石の採掘だろ。奥まで潜ってるんじゃねえか?」
「それにしたって遅えよ。いつもなら、もう酒飲んで騒いでる頃だ」
そんな他愛もない話し声が、酒場の喧騒へ溶けていく。
しばらくして、料理が次々と運ばれてきた。
テーブルいっぱいに立ち上る湯気と、炭火の香ばしさが食欲を誘う。
プロセアとミロシュは目を輝かせた。
次の瞬間には、二人ともすっかり料理に夢中だった。
「……おいしい」
プロセアは揚げたての白身魚をひと口噛む。
衣はさくりと軽く、ふわりと湯気をまとった白身がほろりとほどけた。
湖魚らしい淡白な旨味に、香草の香りが鼻へ抜ける。
木のカップを両手で包み、温かなミルクを一口。ほっと息をついて、また白身魚へ手を伸ばした。
「うっま! なにこれ! うっま!」
ミロシュは次から次へと料理へ手を伸ばし、あっという間に皿を空にしていく。
「……ふむ」
一方、ゾイロスはそんな二人を横目に、いつもと変わらぬ調子でゆっくりとナイフとフォークを動かしている。
「はいはい、通るよー! 邪魔しないでね!」
大きな盆に山盛りの料理を載せた若い女給が、卓の間を器用にすり抜けていく。
「おーい、リナ! こっちもエールを追加だ!」
「今行くから待ってて! 身体は一つしかないの!」
「二つあれば良かったのにな!」
「だったらもう片方は休ませる!」
酒場にどっと笑い声が広がった。
リナは笑いながら手を振り返し、また忙しなく卓の間を駆けていった。
「おいリナぁ、一杯くらい付き合えって!」
赤ら顔の旅人風の男が、千鳥足でリナの前へ回り込む。
周囲の酔客たちも、「おいおい、仕事の邪魔すんな!」「一杯ぐらい奢ってやれよ!」などと、笑いながら囃し立てていた。
「仕事中なの。はい、どいたどいた」
リナは慣れた様子で身をかわそうとした。
男が笑いながら肩へ手を伸ばす。その拍子に、リナの足元が濡れた床で滑った。
「あっ」
もつれ合うように体勢を崩し、リナは男と一緒に床へ倒れ込んだ。
気付けば、男が覆い被さる格好になっている。
「あははは! なにやってんだよ!」
「おいおい、役得だな!」
周囲の酔客たちも面白がるように笑った。
「ちょっと! この酔っ払い!」
リナが男の頭をぺしりと叩く。
「いてっ! いや今のは事故だって!」
酒場には笑い声が満ちていた。
誰も深刻には受け取っていない。
酔っ払いが転んだ。ただ、それだけの出来事だった。
――しかし、プロセアだけは動けなかった。
男の身体が、女に覆い被さっている。
その光景を見た瞬間、胸の奥深くに澱んでいたものが、堰を切ったように溢れ出す。
それは腐臭を放ちながら、喉元まで迫り上がり、プロセアの息を詰まらせた。
なぜ、笑っていられる。
なぜ、誰も止めようとしない。
こんなにも悍ましく、醜く、許し難いというのに。
――ひゅう。
誰かの笑い声に紛れて、あの、ひどく軽薄な口笛が耳の奥で反響した。
酒場の喧騒が、すうっと遠ざかっていく。
視界の端がゆっくりと滲み、目の前の景色が、少しずつ別の色へ塗り替わっていく。
燃え盛る家々、
誰か、助けて、
夜を焦がす炎が、
あははははははは、高笑い、
赤く濡れた石畳が、発狂し、
――聖伐、不浄を浄化せよ。
悲鳴が耳を引き裂き、鉄臭い血の匂いが鼻の奥に焼けつき、倒れた少女に覆い被さる影が怪物の顎のように蠢いている。
伸ばした手は、届かない。
また、間に合わない。
『わあ、きれいなおとがする』
プロセアの右腕が激しく疼き出す。
熱い。焼けるように、熱い。
頭の奥が割れるように軋み、右手が震える。
呼吸の仕方がわからない。
――助けなきゃ。
気付けば、剣は鞘を離れていた。
「……ん?」
ミロシュが顔を上げる。
その頃にはもう、プロセアは椅子を蹴って飛び出していた。
剣が、勢いよく振り上げられる。
「待っ――!」
ミロシュの叫びが酒場に響く。
次の瞬間、横合いから大きな身体がプロセアへ飛びついた。
振り下ろされた剣が大きく軌道を逸れる。切っ先が男の額を掠めた。
「ぐあっ!?」
鮮血が弧を描いて飛び散る。
酒場の空気が凍りつく。誰も状況を理解できないまま、一瞬の静寂が流れた。
「きゃぁあああああっ!!」
「な、なんだぁっ!?」
悲鳴が遅れて酒場を埋め尽くす。
さっきまでの喧騒は、一瞬にして恐慌へ変わった。
「待て! プロセア!」
ミロシュが背後からしがみつく。
プロセアはなおも前へ出ようと身体を捩り、必死にその腕を振りほどこうともがいた。
「離して」
「待てって!」
「離してよっ!!」
華奢な身体からは想像もつかない力に、ミロシュの足がじりじりと床を滑った。
「プロセア!!」
ミロシュの怒鳴り声が酒場中へ響き渡る。
「ちゃんと見ろよ!!」
その一言が、頭の奥で何かを叩いた。
プロセアの瞳から、ゆっくりと熱が引いていく。
目の前には、酔っ払いの男が額から血を流し、尻餅をついている。
その傍らで、床に倒れたリナが真っ青な顔で震えながら、プロセアを見つめている。
酒場中の視線が、自分へ突き刺さる。
それらの眼差しは、怯えや、困惑や、怒りの色に満ちていた。
助けるべき相手など、最初からどこにもいなかった。
「あ――」
手から力が抜ける。
剣が床へ落ちて、乾いた金属音が響く。
その音を合図にしたように、胃の奥がひっくり返る。
口元を押さえ、プロセアはそのまま酒場を飛び出した。
夜風が頬を打つ。
酒場を飛び出したプロセアは、そのまま湖岸まで駆ける。
膝をついて、胃の底から込み上げてきたものを何度も吐き出した。
「っ……」
吐瀉物が地面の上に跳ねる。
肩が震え、息が整わない。
肺が空気を求めるたび、胸の奥が痛んだ。
湖面には月明かりが揺れていた。
ほんの少し前まで、美しいと思っていた景色だった。
今は何も映らない。
瞼の裏に、あの日の光景が焼き付いていた。
「……ふっ、ぅぅ」
両手で目を覆う。
暗闇に逃げ込んでも、悪夢はなお生き続ける。
時が経つほどに、色濃く、醜く歪んでいく。
背後から足音が近づいてきた。
静かに隣へ寄り添う気配に、振り返らなくてもミロシュだとわかった。
彼女は何も言わず、隣に腰を下ろした。
湖を渡る風が、二人の間を吹き抜ける。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……ごめんなさい」
先に口を開いたのはプロセアだった。
声はひどく掠れている。
「何が?」
ミロシュは、じっと湖へ視線を向けたまま答えた。
「私のせいで……ごめんなさい」
「んー?」
ミロシュは言葉を濁した。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
湖を渡る風にそっと言葉を乗せるように、静かに口を開いた。
「……アンタさ」
「……」
「あのとき、一体何が見えた?」
プロセアは答えられなかった。
何が見えたのか。けれど、それを口にしようとすると喉が塞がる。
「何って……」
その先の言葉が、どうしても出てこない。
その沈黙を見届けるように、ミロシュは初めてプロセアへ視線を向けた。
「違うもん、見てたっしょ」
その言葉に、胸の奥で張り詰めていたものが崩れた。
固く閉ざしていた記憶が、暗い口を覗かせる。
その奥底へ、意識がゆっくりと沈んでいく。
「……ごめん……ごめんね……」
声と一緒に、涙が零れ落ちた。
「ジェシカ姉ちゃん……助けて、あげられなかった……」
押し殺していた言葉が、嗚咽になって溢れ出した。
プロセアは顔を覆ったまま、何度も「ごめん」と繰り返した。
ミロシュは何も言わず、小さく震える背中を撫でた。
――あの日、私だけが生き残った。
大好きな人が、故郷が、
奪われていく光景を、
見ていることしかできなかった。
だから私は、剣を振るう。
目の前の命を救うたび、
救えなかったあの日へ、
何度も手を伸ばそうとする。
届かないと知りながら、
それでも、手を伸ばさずにはいられない。
それが、私の終わらない罰で、償いだから――。
頬を撫でる夜風が、ゆっくりと意識を現実へ引き戻した。
しばらくして、酒場の扉が開く音がした。
振り返ると、ゾイロスが酒樽を抱えて立っていた。
「やあ、もう話はついたよ」
彼はいつも通り穏やかな声で言った。
「いくらか握らせたら、納得してくれた」
その後ろでは、酒場の戸口にリナが立っていた。
どこか不安そうにプロセアを見つめている。
少しだけ躊躇ったあと、意を決したように歩み寄り、小さく声を掛けた。
「……あの、助けてくれようとしたんだよね?」
プロセアは顔を上げられなかった。
ただ小さく頭を下げ、何も答えないまま立ち上がった。
誰も口を開かなかった。
静かな水音だけが、湖畔に響いていた。
プロセアの影は、止まった時を指し続ける針のように、湖畔の道へ長く伸びていた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
【今回のトピック】
最後のゾイロスの発言は、プロセアが苦しんでいる最中に「今それ言う?」ってくらい現実的な話をしています。
でも、人がどれだけ苦しんでいても、朝は来ますし、腹も減りますし、世界は驚くほど何事もなかったように回り続けます。
ゾイロスはその現実を、ミロシュはプロセアの痛みを見ています。
そんな風に、それぞれの価値観が重なったり、ぶつかり合ったりしながら、物語の層を厚くしていけたらなと思っています。
【次回更新】
次回は、7/15 18:00更新予定です。
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