14話 湖畔のメルキオ
翌日、陽はすでに西へ傾き始めていた。
街道は緩やかな下り坂になり、湿り気を帯びた風が頰を撫で、草の匂いが濃くなっていく。
道の先に、青が見えた。
最初は空だと思った。
――湖だった。
夕陽を受けた湖面が黄金色に輝き、水平線のように広がっている。
風が吹くたび、水面は無数の鱗のように光を散らしている。
ミロシュが前方で大きく手を振った。
「おっ、見えたー!」
獣耳が、ピンと立つ。
「今日は野宿回避できそうで助かるー」
プロセアは立ち止まり、静かに湖を眺めた。
レヴィスにも湖はあった。
けれど、こんなに大きな湖は初めてだった。
水鳥が低く飛び、漁船の帆が小さく揺れている。
湖岸には荷を運ぶ人々の姿が見え、遠くからは人の呼び声も聞こえてきた。
「……すごい。湖が生きてるみたい」
プロセアは目を細めた。
「湖畔の里、ミズハだ。さて、日があるうちにメルキオ氏を探すとしようか」
ゾイロスはそう告げると、里へ向かって歩き出した。
湖畔の里は、想像以上に賑やかだった。
漁師たちが網を干し、行商人が荷を広げ、鐘無しらしい荒くれ者たちが路上で酒を酌み交わしている。
湖から戻ったばかりの船乗りたちが桟橋で怒鳴り合い、荷運び人たちが木箱を担いで行き交っている。街道の宿場町とはまた違う、雑多で生々しい活気が満ちていた。
湖と魚の匂いが鼻をかすめる。夕暮れに向かう里は、あちこちの家から夕餉の支度をする煙が立ち上っていた。
三人は里の中心へと足を進めた。
メルキオの行方を尋ねると、里人たちの反応はほぼ同じだった。
「ああ、あの運び屋か」
「胡散臭い男だぜ」
「金にしか興味ねえよ」
「昼間から酒飲んでるか、釣りしてるか、寝てるかだな」
しかし、最後には必ずこう付け加える。
「……まぁ、仕事の腕は確かだ」
彼と親交のあるらしい里人は、湖岸の方を指差した。
「この時間なら桟橋で釣りしてると思うぜ」
礼を言ってその場を離れる。
湖岸沿いの道を歩く。
夕陽はさらに傾き、橙色の光が水面へ長く伸びていた。
「なんかさ……酒好き、釣り好き、昼寝好きって」
ミロシュは指を折りながら、呆れたように言った。
「ここまで聞くと、もう働いてなくない?」
「働いてはいるらしいよ」
ゾイロスがくすりと笑う。
「日頃の悪評に対して、仕事の評判が良いなら興味深いね」
「?」
「人は嫌いな相手の失敗は喜んで話すものだ。にもかかわらず、仕事の悪評が出てこない」
「嫌われてるけど、仕事はできるって? 上に立ったら下が潰れるやつじゃん」
プロセアは二人の会話を聞きながら、静かに湖の方へ視線を向けていた。
「……ここは、どんなお魚が釣れるんだろう?」
「全然違う話してるし」
ミロシュが即座に突っ込んだ。
ゾイロスが思い出すように顎を撫でる。
「マスやニジマスの仲間が有名だったかな。湖が大きいから、結構いいのが釣れるらしいよ」
「へえ……」
プロセアの目が、ほんの少しだけ輝いた。
ミロシュがため息混じりに肩を落とす。
「アンタらってさ、最初見た目も価値観も違いすぎて大丈夫かなって思ったけど……ああ、一緒に旅してたんだなって、今わかったよ」
やがて、湖へ突き出した古い木製の桟橋が見えてくる。
その先端で、夕陽を背に一人の人影がぼんやりと浮かんでいた。微動だにせず、湖の景色の一部になったかのように、静かに腰を下ろしている。
「あれのようだね」
ゾイロスが目を細めた。
ミロシュは胡乱げな目を向けて、鼻を鳴らす。
「あれ、釣りしてんの? 死んでんの?」
「釣り糸は揺れているようだよ」
「ふーん」
と、ミロシュは尻尾をゆっくり揺らした。
「ま、胡散臭い奴だったらぶっ飛ばすよ」
プロセアが首を傾げる。
「話を聞きに来たんじゃないの?」
「ぶっ飛ばしてから聞いたら良いじゃん」
「それ、嫌がられない?」
「街道では良くある話だから、たぶんね」
ミロシュはこともなげに言い切り、拳を軽く握ってみせた。
三人が桟橋に近づくと、メルキオらしき人物の姿がはっきりしてきた。
深く被った竹笠の下から覗く日に焼けた肌、くたびれたシャツ、だらしなく投げ出された長い足。年の頃は四十半ばほどか。傍らには空になった酒瓶が一本、転がっていた。
「一人、銀貨十枚」
男は振り返らず、ただ湖面を見つめたまま、ぼそりと告げた。
「話を聞いてやるからには、それぐらい貰わんとな」
三人は足を止めた。
一瞬の沈黙の後、ミロシュが指を鳴らす。
「よし、ぶっ飛ばそう」
男は振り返りもせず、釣り糸を揺らしながら答える。
「暴力は銀貨五枚増しだ」
ミロシュは本気で殴りたそうに肩を回す。
ゾイロスが小さく咳払いし、場を取り直すように口を開いた。
「失礼。余計な出費は抑えたいので、私から話をさせてくれ」
男は返事をしない。水面を見つめたまま、浮きの動きを追っている。
「あなたが、メルキオ氏かな?」
メルキオはゆっくりと首だけを動かして振り返り、竹笠の隙間から三人を一瞥した。その目は、予想以上に鋭かった。
「誰かの使いか?」
「灰狼、ヴァフラムから紹介を受けてね」
ゾイロスは懐から封書を取り出し、差し出した。
メルキオは面倒臭そうにそれを受け取り、中へ目を走らせる。そして、小さく鼻息を漏らし、封書を畳んでゾイロスへ返す。
「相変わらず字が汚ねえな」
そう呟くと、竹笠をゆっくりと持ち上げた。
白髪混じりの髪と無精髭。目尻には、外で風雨に晒されてきた人間特有の深い皺が刻まれていた。
「メルキオだ」
男はそう名乗ると、桟橋の下に転がっていた空の酒瓶を足先で軽く転がした。
「灰狼の紹介なら、話ぐらいは聞いてやる」
ミロシュが腕を組んで口を尖らせた。
「へえ。さっきの銀貨十枚は?」
「取り下げだ」
「意外と話が早いじゃん」
「その代わり」
メルキオは人差し指を一本立てた。
「酒樽ひとつ」
「は?」
「新しい酒が入ったらしい。水月亭、って酒場だ。親父が朝から自慢してやがった」
メルキオは里の方を顎でしゃくった。
「その酒樽をひとつ持ってきたら、話を聞いてやる」
ミロシュは呆れたように天を仰いだ。
「おい、次は酒かよ……」
プロセアがミロシュを見上げて、小さく呟いた。
「……ぶっ飛ばさなくて、良いの?」
「ちょっと考えてる」
「暴力は酒樽一個追加だ」
メルキオは釣竿を持ち直しながら言った。
湖面を渡る風が、四人の間を静かに吹き抜ける。
西の空は茜色に染まり、沈みかけた夕陽が湖へ長い光の道を落としていた。波が揺れるたび、その光も砕けて散る。
遠くで、水鳥が一声鳴いた。
湖畔の夜が、静かに近づいていた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
【今回のトピック】
ファンタジーでも非ファンタジーでも、不思議と怪しい魅力を放つ「運び屋」という職業。
謎の人脈と独自の流通網を持ち、裏社会を知り尽くした存在として描かれることがありますよね。
一方でファンタジー世界では、街道は危険で流通インフラも十分ではありません。
裏の仕事のほか、手紙や荷物、人まで運ぶ「何でも屋」として真っ当な依頼も請け負って生計を立てていたんじゃないかな、と想像しながら書いています。
表も裏も知っているからこそ見えてくる世界があるのかもしれません。メルキオは、そんな奥行きを持った人物として描けたらいいなと思っています。
【次回更新】
次回は、7/12 18:00更新予定です。
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