12話 真理は湯煙の向こうに
鐘無したちの酒場を出た頃には、日が傾いていた。
夕暮れの街路を、プロセアとゾイロスは並んで歩く。
昼間ほどではないが、渡り路の街グランにはまだ人の流れがあった。商人が店仕舞いを始め、食堂からは香ばしい匂いが漂ってくる。
宿へ向かう道すがら、プロセアはふと口を開いた。
「先生って、何なの?」
ゾイロスが片眉を上げる。
「それは、どういう質問だい?」
「先生はさ、自分のことを旅の学者って言うでしょ。でも、学者じゃない人しか知らないようなことも、いろいろ知ってる」
「それは、学者にも色々いるからだろうね。私は、学者というものには三種類いると思ってる」
すれ違った荷馬車の車輪が石畳を軋ませる。
「三種類……」
「そう。一つ目は、本を読む学者。先人の言葉を積み上げていく学者だ。二つ目は、世界を読む学者。街や自然、人間の中から問いや真理を拾い集める学者だ」
ゾイロスは少しだけ首を傾げた。
「もっとも、それだけではわからないこともある」
「例えば?」
「人間を解剖せずに、人体を理解できると思うかい?」
プロセアが眉をひそめる。
通りの脇では、父娘がはしゃいでいた。父が娘を肩車し、少女は高い場所が楽しいのか、きゃらきゃらと笑っていた。
ゾイロスは、その笑い声の中で淡々と続けた。
「三つ目は、自分で世界を壊して確かめる学者だ」
「……先生は、どれなの?」
ゾイロスは少しだけ考える素振りをして見せる。
「全部に片足くらいは突っ込んでるつもりだけどね」
二人は建物の陰を抜けた。
傾いた夕陽が明るく差し込み、プロセアとゾイロスの横顔を照らす。
「ただ、自分で歩いて拾った知識の方が、私は好きだ。世界というものは、本の中だけで理解できるほど単純じゃないからね。もっとも――」
ゾイロスは少し眩しそうに目を細める。
「机上から世界を覗いてしまうような人間を、知らないわけでもないけど」
「……ふぅん。先生にも先生なりの事情がありそうだね」
「あまりわかってないという顔だね」
「うん」
素直な返事に、ゾイロスは小さく笑った。
その後も他愛ない話をしながら、二人は夕暮れの街を歩いた。
宿を取り、夕食を済ませ、明日の支度を整える。
湖畔のメルキオを訪ねるため、明朝にはグランを発つ予定だった。
あとは眠るだけだった。しかし――
「……」
プロセアは宿の窓から外を見た。どうしても気になる場所があった。このまま眠るには気持ちが落ち着かず、彼女は一人、宿を出た。
渡り路の街グランは、夜になっても活気が溢れていた。
表通り沿いの市場こそ閉まっているものの、食堂や酒場からは煌々とした灯りと賑わいが漏れ、住民や旅人たちが絶えず行き交っている。
その喧騒の中に、静かな空白をつくるように石造りの建物があった。
湯屋だった。屋根の隙間から白い湯気が立ちのぼり、夜風に乗ってほのかな湯の匂いが流れてくる。暖簾をくぐる人影は途切れない。
大きな湯屋らしい――プロセアは無意識に唾を飲み込んだ。旅の途中で湯に浸かれる機会は、そう多くない。
プロセアは右肩へ手を置いた。
服の下には、赤黒く変色した皮膚が広がっている。古い火傷の痕のように引き攣った右半身は、人目に晒したいものではなかった。
暖簾の前まで来ては足を止める。
中を窺うように見上げてから、何事もなかったように通り過ぎる。
けれど、数歩も行かないうちに振り返り、再び建物の前まで戻ってきた。
そんなことを何度か繰り返していると、
「何をしているんだい?」
後ろから声がした。
振り返ると、ゾイロスが立っていた。
「えっと……考え事」
「湯屋へ入るか悩んでいるようにしか見えなかったが」
図星だった。プロセアは黙る。
ゾイロスは肩を竦めた。
「この街を出れば、しばらくそんな余裕もないだろう」
そう言って暖簾へ視線を向ける。
「入ってきたらどうだい」
「……でも」
「私は裏通りの夜市を見に行くよ。古書や禁書が眠っているかもしれないからね」
そして、小さく笑った。
「ほら、行っておいで」
しばらく暖簾を見つめた末に、プロセアは観念したように息を吐く。
「……うん」
そう答えると、意を決して湯屋の中へ足を踏み入れた。
湯屋の中は思った以上に広かった。
受付の奥には休憩用の長椅子が並び、その先には男女別の暖簾が掛かっている。漂う湯気と石鹸の香りに、プロセアは少しだけ頬を緩めた。
女湯の暖簾をくぐる。
脱衣場には数人の客がいたが、ちょうど帰るところらしい。衣擦れの音と世間話が遠ざかり、やがて室内は静かになった。
プロセアはほっと息を吐く。
――周囲を見回す。誰もいない。
――もう一度確認する。やはり誰もいない。
壁際の荷物棚へ向かうと、なるべく人目につかない場所を選んで荷物を置いた。そして、こそこそと服を脱いだ。誰もいないことをもう一度確かめてから、足早に湯場へ向かった。
湯気の向こうに広い湯船が見える。熱気が肌を撫でた。
「……ん?」
聞き覚えのある声がした。
湯船の縁に肘を預けていた獣耳の女が、こちらへ顔を向ける――ミロシュだった。
プロセアは息を呑む。咄嗟に右半身を隠すように縮こまり、そのまま固まった。
「何、固まってんの?」
「べ、別に……」
わずかに沈黙が流れる。
怪訝そうに眉をひそめて、ミロシュが口を開く。
「身体の傷を気にしてんの?」
「……」
「生きてんだから当たり前じゃん?」
あまりにも自然に言うので、プロセアは思わず顔を上げた。
「傷の一つも付かない生き方なんてないっしょ」
ミロシュはそう言って、ざぶんと湯船から上がり、自分の脇腹をプロセアに向かって晒した。そこには、古い傷跡が何本も走っている。
「こいつは熊」
今度は肩を指差す。
「こっちは魔狼」
さらに、灰褐色の獣耳の先端を摘まむ。
「これは馬鹿な鐘無し」
プロセアは首を傾げた。
「……馬鹿な鐘無し?」
「賭け事でイカサマしたらバレた」
ミロシュは平然と言った。
その真顔がおかしくて、プロセアは思わず吹き出しそうになる。
ミロシュは獣耳をぴくりと動かし、プロセアに向き直る。
「ほら、身体冷えんじゃん。さっさと入りな」
「……うん」
プロセアは桶で身体を流す。長旅の垢と埃が落ちていく。それから湯へ足を入れた。
熱い。冷えた身体へじんわりと染み込むようだった。胸まで浸かると、思わず息が漏れる。
「……はぁ」
「おっ、いい入りっぷりじゃん」
ミロシュが楽しそうに笑った。
プロセアはそのままゆっくり沈む。顎まで湯へ浸かり、湯船の縁へ背を預けた。
張り詰めていた身体が少しずつほどけていく。旅の疲れも、知らず知らずのうちに入っていた力みも、湯の中へ溶け出していくようだった。
「なあ」
「?」
「なんかさぁ、風呂入ってるときが一番賢い気がしね?」
プロセアは、ぱちりと目を開けた。
「賢い?」
「うん。だってさぁ、風呂ん中だと余計なこと考えなくて済むじゃん」
「余計なこと……」
「金とか、仕事とか、ムカつく奴とかさ」
ミロシュは湯船の縁に頬杖をつく。
「なんか、そういうの全部どーでもよくなる」
プロセアは少し考えた。
たしかに今は、何も考えたくなかった。
「じゃあ、賢いっていうより」
「んー?」
「馬鹿になってるんじゃない?」
ミロシュは、ぷっと吹き出した。
「なっはっは。たしかに、そっちかもしんねー」
肩を揺らしながらそう言って、彼女はふっと目を細めた。
「……なら、ずっと馬鹿のままで居られたら楽なのにな」
その呟きは湯音に溶けて、よく聞き取れなかった。
「えっ?」
思わずプロセアが聞き返すと、彼女はざぶりと湯船から立ち上がった。濡れた髪をかき上げ、ぐっと背を伸ばす。
「じゃあ、ウチはお先に」
「あ、うん」
ミロシュは湯を払うように腕を振った。それから振り返る。
「明日からよろしくな」
「こちらこそ……」
ミロシュは片手をひらひらと振ると、脱衣場の方へ歩いていく。彼女の歩調に合わせて、長い尻尾が左右へ揺れた。
――ぱたん。
――ぱたん。
――ぱたん。
規則正しく揺れるそれを眺めているうちに、プロセアは不思議と肩の力が抜けた。
明日からは、また旅が始まる。
けれど、それは明日の話だ。
プロセアはもう一度顎まで湯へ沈む。
頭がぼうっとする感覚に委ねて、目を閉じた。今はまだ、この温かさを味わっていたかった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
【今回のトピック】
ミロシュは半獣人です。
なのに、AIは頑なに「人間の耳も必要だ」と主張してきます。何十回生成しても耳が4つになります。作者は敗北しました。
ミロシュの余分な耳は脳内で削除してお楽しみください。笑
【次回更新】
次回は、6/28 18:00更新予定です。
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