11話 ミルクと掟と獣耳と
「ほら、まずは飲め」
ヴァフラムは小樽を引き寄せると、慣れた手つきで栓を抜いた。途端に、発酵した麦の香気がふわりと広がる。
木製の酒杯へ琥珀色のエールを並々と注ぎ、泡が縁から溢れるのも構わず、そのままドン、とプロセアたちの前へ置いた。
プロセアは目を瞬かせた。
琥珀色の液体が、泡を揺らしながらゆっくり波打っている。灯火を映した表面が妙に綺麗で、彼女はしばらく黙ったままそれを見つめていた。
「彼女はまだ飲めないよ」
「……はあ?」
ヴァフラムが片眉を吊り上げる。
「何だあ? 急に保護者然としやがって」
「事実を言っただけだ。酔って潰れられても困る」
二人のやり取りを聞きながら、プロセアは酒杯から視線を離さない。
「先生、これ光ってて綺麗だね」
「エールというお酒だよ」
ゾイロスは肩を竦める。
「けど、君にはまだ早い」
ヴァフラムは一瞬ぽかんとした後、堪えきれずに吹き出した。
「なんだそりゃ! 嬢ちゃん、本当に世間知らずなんだな」
彼は顎を撫でながら、ニヤリと笑う。
「じゃあ、ミルクでも飲むか?」
プロセアはわずかに目を上げた。
「……ミルク」
少し考えてから、小さくコクリと頷く。
ヴァフラムは彼女の反応を見て、豪快に笑い声を上げた。
「ははっ、気に入った! おいマスター!」
灰色の長髪を揺らしながら、彼は奥へ向かって怒鳴った。
「ミルクだ! あと肉! 何でもいい、腹に溜まるもん持ってこい!」
周囲の酔客たちが何事かと視線を向ける。
しかしヴァフラムは気にも留めず、酒杯を掴んでゾイロスの前へ押しつけた。
「先生様は飲めるだろう?」
琥珀色の泡が、縁から零れる。
ゾイロスは濡れた酒杯を見下ろし、小さく溜息を吐いた。
「……相変わらず強引だね、君は」
「鐘無しの酒は断るな。そういうもんだ」
「そんな決まりごとは初めて聞いた」
「細けえことは気にするなよ」
ヴァフラムはニカッと歯を剥いて笑う。
その横で、プロセアはまだエールの泡をじっと眺めていた。
「……ほんとに飲み物?」
ゾイロスは呆れ半分に笑う。
「だから、君にはまだ早いよ」
やがて、奥から大柄な店主が大きな盆を抱えてやってきた。
湯気の立つ骨付き肉に、こんがり焼いた黒パン、豆とトマトをじっくり煮込んだ赤い煮込み。獣肉の脂と香草が混ざり合い、空腹を直接引きずり出すような濃い香りが漂う。そして、大きな陶杯に注がれた温かいミルク。
「ほら、嬢ちゃんの分だ」
ヴァフラムはミルクを勧める。
プロセアは陶杯を両手で持ち上げる。
白い液面から、ほんのり甘い香りが立っていた。
そっと口をつける。ほっとするような温かさと優しい甘みが、舌の上へゆっくり広がった。
彼女は少しだけ目を丸くする。それから、もう一口飲んだ。陶杯を両手で包み込んだまま、小さく息を吐く。
向かいでは、ゾイロスがエールを一口飲み、静かに息を吐いている。
プロセアは改めて酒場を見回した。
皆、年齢も服装も生業も違う。しかし、どこか似た匂いがある。表通りでは生きていない者たちの空気だった。
酒場の隅には、椅子が小さく見えるほど大柄な獣人風の女が黙々と肉を頬張っていた。灰褐色の耳が時折ぴくりと動き、長い尾が床をゆっくり叩いている。ただ座っているだけなのに、なぜか目を引く。
「鐘無し……」
プロセアが小さく呟く。
街道の内外を渡り歩く者たち。教団にも国家にも属さず、金と契約を頼りに旅をする連中――以前、ゾイロスがそう話していた。
「鐘無しに興味あるのか?」
ヴァフラムは骨付き肉にかぶり付きながら言った。
「自由契約者組合――まあ、堅苦しく言えばそういう名前だ」
「教団に従わない人たち、だよね」
「そういう奴もいる。だが、選んで鐘無しになった奴ばかりじゃねえ。教団に属したくても属せねえ連中も多いんだ」
酒場の喧騒の向こうで、誰かが笑い、酒杯や皿のぶつかる音が響く。
「興味深いだろう?」
ゾイロスはエールにはもう飽きたのか、皿の料理に手をつけながら口を挟む。
「人間という生き物は、神にも国にも属さない場所で最もよく動く」
プロセアは賭け事に興じて騒ぐ卓を眺めながら、黙って聞いていた。
「彼ら鐘無しは、人間社会の最も純粋な形の一つだと私は考えている」
ヴァフラムは鼻で笑った。
「いかにも学者らしい講釈だな」
そう言って、さらに肉を頬張る。
「祈りの刻も、戒律も、聖印も、俺たちには関係ねえ。必要なら裏道を作るし、国境だって潜る」
「だから鐘無しは重宝されるんだ。教団も国家も、表では処理できない仕事が山ほどある」
ゾイロスは両手を軽く広げた。
「必要悪というやつだね。だから彼らも、君たちを簡単には切り捨てられない」
「ま、そんなとこだな。自由はいいぜ。明日には首括ってる奴もいるがな」
ヴァフラムは何でもないことのように言うと、エールをぐっと流し込む。酒杯が空になる頃には、もう反対の手で骨付き肉を摘んでいた。
「入り口の扉の横に、護衛依頼とか貼ってあったけど、あれが依頼の内容なの?」
プロセアは両手で包んだ陶杯を傾ける。鼻の下には、はっきりとミルクの白い跡がついている。
「ああ。他にも、密輸、賞金首狩り、遺跡漁り、魔物討伐。街道で起きる面倒事は大体引き受ける――ただし、ウチは腐っても組合だ。ちゃんと掟もある」
「掟?」
プロセアが首を傾げる。
「三つだけだ」
ヴァフラムは口についた脂を指で拭う。
「一つ。契約は書面に残す」
そう言って、人差し指を立てた。
「依頼内容、報酬、期限を全部記録する。口約束は禁止だ」
「ここの連中は、その辺りだけは妙に几帳面だからね」
ゾイロスは小さく笑う。
「当たり前だろ。こっちの世界じゃあ言った言わねえで人が死ぬ」
ヴァフラムは二本目の指を立てた。
「二つ。仲間の遺品は回収する」
その声は、わずかに低くなった。
「どんな死に方でも、生きた証だけは持ち帰る。骨でも、指輪でも、名札でもいい」
ヴァフラムの掌がカウンターを打つ。乾いた音が響いた。
「死んだことを、無かったことにさせねえためだ」
プロセアの指先が、陶杯を強く握る。
彼女は何も言わなかった。ただ、どこか一点を見つめている。
ヴァフラムは三本目の指を立てた。
「三つ。裏切りは全員で処分する」
周囲の空気が、わずかに冷えた気がした。
「契約破りは組合全体への敵対と見なす。逃げ場はねえ」
「随分物騒だ」
ゾイロスがわざとらしく眉根を寄せる。
ヴァフラムの目から一瞬笑いが消える。
「裏切りのせいで、真っ先に死ぬのは俺たちだからな」
しばらく誰も口を開かなかった。
酒場の喧騒が変わらず流れている。
ヴァフラムは骨だけになった肉を皿へ放り投げた。
「ま、説教はこんなもんだ」
それからゾイロスへ視線を向ける。
「で、先生様。聖庁へ入りてえんだったな」
ゾイロスは否定しない。
ヴァフラムは椅子へ深く座り直し、腕を組んだ。
「悪いが、さすがに聖印の偽装は無理だ。通行証程度ならどうにでもなるが、な」
「まあ、そうだろうね。何も真っ正直に正門から入ろうなんて思ってないよ」
ヴァフラムは呆れたように笑う。
「お前はホント食えねえな」
そう言って顎を撫でる。
「……そうだな。一人だけ詳しい奴を知ってる」
プロセアが、はっと顔を上げた。
「先の街道を西へ折れた先にでけえ湖がある。そこの湖畔にメルキオって男が居るんだが……荒っぽいやり方でも構わねぇなら、融通してくれるはずだ」
そう言って、ヴァフラムは店主へ顎をしゃくった。
店主は慣れた様子で、戸棚から羊皮紙とペンとインク壺を取り出す。
「俺の紹介状を書いてやる。名前を出しゃあ悪いようにはしねえはずだ」
「助かるよ。鐘無しが今まで生き残ってきた理由が、少し分かった気がする」
ゾイロスが言うと、ヴァフラムは鼻を鳴らす。
「契約と疑い深さのおかげだ」
「違うね。君たちは筋を通すことを忘れない」
ヴァフラムは何も答えなかった。
代わりに羊皮紙へ乱暴な筆致で名前を書き付ける。ペンを置くと、紙を畳みながら言った。
「ところで、護衛はいるか?」
「いらない」
プロセアは即答した。
ヴァフラムは、ぷっと吹き出した。
「気が強ぇな、嬢ちゃん」
しかし、すぐに顎を掻く。
「……とはいえ、ちょうどそっち方面へ行く奴がいる」
そして、酒場の奥へ向かって怒鳴った。
「おい、ミロシュ!」
酒場の隅で、一際大きな背中がぴくりと動いた。灰褐色の獣耳が、反応するように揺れる。
プロセアは、酒場へ入ったときからその姿が妙に気になっていた。ゆっくりと、その人物が振り返る。
半獣人の女だった。しかも、やたらと大きい。
琥珀色の瞳がこちらを射抜き、口元から覗く鋭い犬歯が不機嫌そうに光った。
ただ視線を向けられただけなのに、酒場の喧騒が一瞬遠のいた気がした。
「なんか呼んだ?」
ミロシュと呼ばれた女は、低く掠れた声で言った。片肘を卓についたまま、じろりとこちらを見る。
ヴァフラムはニヤニヤ笑っている。
「聖庁まで行く馬鹿がいる。ついでに面倒見てやれ」
ミロシュはしばらくプロセアを眺めていた。
それから椅子を軋ませながら立ち上がる。立ち上がると、その大きさがより際立った。
長い尾が床を掠める。重い足音を鳴らしながら近づいてくると、そのままプロセアの前で立ち止まった。
プロセアが見上げる形になる。
琥珀色の瞳が、品定めするように全身をなぞる。そして、ミロシュは鼻を鳴らした。
「弱そー」
プロセアの眉が、ぴくりと動いた。
「……そう思うなら、試してみる?」
周囲の者たちが、思わずこちらを見る。
ミロシュの琥珀色の瞳が細まった。睨み合いの中、灰褐色の尾がゆっくり揺れている。
その横で、ゾイロスが小さく肩を竦める。
「おや、これは仲良くなれそうだね」
近くの卓で賭け事に勝った男が大声で笑い、別の席では酒杯がぶつかり合う音が響く。
酒場のあちこちで、さまざまな賑わいが入り乱れていた。
その中で、プロセアとミロシュだけが無言のまま視線を交わしている。少なくとも、同じ旅を共にする者同士には見えなかった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
【今回のトピック】
ファンタジー世界の酒場といえばエール。
エールは、中世ヨーロッパで広く飲まれていたお酒の一種みたいです。当時は水の衛生状態があまり良くなかったので、発酵させた飲み物の方が安全だったとか。
ファンタジーを書いていると、とりあえずエールを出したくなる現象があります。旅人も傭兵も行商人も、ひと仕事終えたら、「とりあえず生」ならぬ「とりあえずエール」。
なおプロセアは未成年なのでミルクです。
【次回更新】
次回は、6/24 19:00更新予定です。
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