10話 鐘無し
聖光の施しへ群がる人だかりを抜けると、町の喧騒が一気に押し寄せてきた。
獣肉を炙る煙と香りが流れ、次には香辛料や酒の匂いが鼻を刺す。人混みの熱気が肌へまとわりつき、荷運び人たちが怒鳴りながら狭い通りを行き交っていた。
昼に差しかかり、渡り路の街グランの市場は、今日一番の賑わいを見せている。
教団の旗は其処此処に掲げられていたが、誰も熱心に祈ってはいなかった。生きることで、皆忙しいのだ。
「……少し安心したかい?」
ゾイロスが横目で訊く。
プロセアは少し考えたあと、小さく首を振った。
「わからない」
それが本音だった。
人々は笑い、食べ、酒を飲み、生きている。穏やかな日常そのものだった。しかし、その全てへ教団が静かに入り込んでいた。まるで、煙の匂いみたいに、気付かないうちに人々の暮らしへ染み付いている。
ゾイロスは、人混みの先へ視線を向けたまま言う。
「ところで、第七管区聖庁はこの町からさらに北にあるよ。山を越えた先。巡礼路からも外れた場所にある。あそこまで行くと、もう普通の旅人はあまり近づかないね」
荷車が軋みながら横を通り過ぎる。
「……本当に行くつもりかい?」
プロセアは少し黙った。
行き交う人波の向こうで、教団の鐘塔が静かに空へ伸びていた。
「顔に、蠍の刺青をした男がいるかもしれない。なら、行かないといけない」
ゾイロスは、困ったように薄く笑った。
「まあ、そう言うと思ったよ。ただし、正面から入るのは無理だね。聖庁へ入るには聖印による照合があるわけだが――」
ゾイロスは、そこで言葉を切った。
プロセアはゾイロスを見上げる。
何か心当たりがあるとき、ゾイロスはこうやって言葉を濁す。その妙な間を、プロセアは昔から知っていた。
「……先生、何か知ってるの」
ゾイロスは、小さく息を吐いた。
「うん、まあ。こういう時に都合の良い場所なら知ってる」
ゾイロスはそう言って、人混みの脇へ伸びる細い裏路地へ足を向けた。まるで最初から、そこへ向かうつもりだったみたいに。
通りを一本外れただけで、町の空気は別物になった。
風化した石壁が目立ち、縄と洗濯物が頭上を乱雑に横切っている。建物同士は肩を寄せ合うように歪み、昼だというのに路地の奥は薄暗かった。
酒瓶の転がる足元を、痩せた野良犬がすり抜けていく。半開きの扉の奥では、化粧の濃い女がうつろな表情で煙草をふかし、その向かいでは粗野な男達が札遊びに興じている。
表通りにあった祈りの空気は、ここにはない。代わりにあるのは、金と酒と、見ないふりで成り立つ夜の匂いだった。
プロセアは周囲を見回す。
「……先生、こういう場所に詳しいんだね」
「長く生きてると、こういう場所にも縁ができるのさ」
やがて、裏路地の奥に古びた木造の酒場が姿を現した。
窓硝子は白く曇り、扉には無数の傷跡が刻まれている。看板には牙を剥き出した狼の紋章が描かれ、扉の横にはたくさんの紙札が打ち付けられている。
――護衛依頼。
――素材収集。
――失踪者捜索。
――変異獣討伐。
――遺跡探索。
プロセアは、紙札に並ぶ文字をゆっくり目で追う。
「ここは?」
「鐘無しどもの溜まり場さ」
鐘無し。教団の鐘に従わず、契約だけで生きる流浪人たちの俗称。国家にも、教団にも属さない者たちのことだ。
ゾイロスが扉を押し開ける。
途端に、酒と汗の匂いが入り混じった熱気が顔へぶつかった。
薄暗い酒場の中では、荒くれ者たちがひしめき合って、昼も早いうちから酒をあおっている。奥では、酔った傭兵風の男たちが、喧嘩なのか談笑なのかもわからない勢いで怒鳴り合っている。暖炉の火が赤く揺れ、その煙が天井近くに淀んでいた。
新しく入ってきた二人組など、誰も気に留めなかった。
ゾイロスは酒臭い熱気をすり抜けながら酒場の奥へ歩いていき、カウンター脇へ視線を向けた。
「久しぶりだね、灰狼」
視線の先に座っていた老人が、こちらへゆっくりと顔を向けた。
灰色の長髪に、頰を深く裂く古傷。獣のような鋭い目が、こちらを射抜いていた。酒場の喧騒の中で、その老人の周囲だけ妙に空気が重い。
「おぉ、まだ生きてたか、銀漿学者。てっきり墓の下で本を読んでるもんだと」
老人の周囲で小さく笑い声が起こる。
「この世界への好奇心が、まだ尽きなくてね」
「その好奇心で、一体何人が死にかけた?」
「心外だね。私はいつも事前説明を欠かしていないよ」
「説明すりゃあ、化け物だらけの遺跡に放り込んでいいって話じゃねぇんだよ」
老人の視線が、ふとプロセアへ向いた。
「……ん? 珍しいな。今度は随分と小綺麗なのを拾ってきた」
プロセアは無言のまま、その視線を受け止める。
老人の片目が、わずかに細くなった。
「……死臭がするな」
その視線は、プロセアの右半身の奥に巣食うものまで見透かしているようだった。
「……ま、ウチでは対価さえ払えるなら、中身が化け物だろうと聖女様だろうと関係ねえ」
老人は酒杯を揺らし、ニヤリと笑った。
「ヴァフラムだ。灰狼って呼ぶ奴の方が多いがな」
「プロセアよ。先生の助手をやってる」
ヴァフラムは酒杯を傾けながら、「助手ねえ」と、もう一度プロセアを眺めた。
「で? 今度はどんな厄介事だ?」
「話が早くて助かるよ。聖印なしで、第七管区聖庁へ入るにはどうすればいい?」
ヴァフラムが酒杯を置いた。その鈍い音が、酒場の喧騒の奥へ沈んだ。
「……おい、正気か?」
「だから君のところへ来た。正規の手続きを別の形へすげ替えるのは、君たち鐘無しの領分だろう?」
ヴァフラムは額に手を当て、「まったく」と小さく鼻を鳴らした。
「……わかった。ただし、契約が先だ」
その両目が鋭く光る。
「お前らが何を頼んでこようと構わんが、ウチの連中を巻き込むなら、契約に従ってもらわねばならん」
ヴァフラムは殊更、声に力を込めて言った。
「鐘無しは教団の犬にはならん。だが、死にたがる馬鹿の後始末も御免だからな」
プロセアは静かに息を吐く。そして、ヴァフラムを真っ直ぐ見返して答える。
「……契約? 何が必要なの」
三人の間に、少しの沈黙が流れる。
「酒を飲め」
酒場の奥で、暖炉の火が大きく爆ぜた。
「そんな辛気臭い顔はやめて、生きてる顔をしてみせな」
ヴァフラムは、ニカッと歯を剥き出して笑った。
外では、教団の鐘が低く、遠く響いていた。
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【今回のトピック】
鐘無し、いわゆる冒険者ギルドのような組織が登場しました。魔物退治や護衛依頼など、国家や宗教では手が回らない問題を請け負う集団ってファンタジー世界ではお馴染みですよね。
彼らは決して正義の味方ではありませんが、法の届かない場所で仕事を請け負い、時には危険な依頼にも手を染めます。それでも独自の掟を持ち、仲間や依頼人との信義を守ることで生きています。
鐘無しは、秩序と無法の狭間にある存在として描いています。
混沌とした世界では、彼らのような存在が最後の秩序になるのかもしれませんね。
【次回更新】
次回は、6/21 18:00更新予定です。
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