EP 3
異世界に来て初日の夕飯に、俺はバターチキンカレーを作った
ポポロ村は、思っていたより遥かに大きかった。
人口はおよそ千。畑には見たこともない作物が青々と茂り、家畜小屋からは羊のような豚のような鳴き声が聞こえてくる。三国の緩衝地帯だとキャルルは言ったが、殺伐とした空気はどこにもない。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「……なあ。この村、飯の匂いがしないな」
夕暮れ時だというのに、煮炊きの香りがほとんど漂ってこない。あるのは、煮込みおでんらしき出汁の匂いと、芋酒の匂いだけ。それも宿屋の周辺に限られている。
「そりゃそうよ。この時間はみんな畑から戻ってきたばかりだもの。うちの村の夕飯は、大根と芋を茹でて塩を振ったやつ」
キャルルがけろりと答えた。
「……毎日か?」
「毎日ね」
優太は無言で天を仰いだ。
* * *
「はい、到着。ここが村長宅よ」
案内されたのは、村の中央にある五部屋ほどの木造家屋だった。想像していた「村長の館」よりずっと生活感がある。玄関には泥だらけの安全靴が並び、廊下には人参柄の刺繍が入ったハンカチが干してあった。
リビングの扉を開けた瞬間、優太は足を止めた。
床に、女が二人転がっていた。
一人はヨレヨレの芋ジャージ。健康サンダル。優太がここまで引きずってきた自称・女神のルチアナである。いつの間に先回りしたのか、床に大の字になって畳を叩いていた。
「腹減ったぁぁぁ! お酒ぇぇぇ!」
そしてもう一人。
同じくヨレヨレの芋ジャージ。同じく健康サンダル。青みがかった長い髪に、頭の両脇には魚のヒレのような器官。膝を抱えて壁際に座り、干からびた食パンの耳を、一ミリずつ大事そうにかじっている。
「……お揃いか?」
「違うわよ! 私のはルナミスデパートの新作!」
パンの耳の少女がぱっと顔を上げ、次いで優太を見て、瞳をキラキラと輝かせた。
「あっ、新入りさんね! 私はリーザ! ここに住んでるの!」
「住んでる? お前、村長の身内か?」
「ううん、居候! キャルルのシェアハウス時代の友達なの!」
「友達じゃなくて寄生よ」
キャルルが冷たく訂正した。兎の耳がぺたんと倒れている。
その奥、窓辺の椅子には、長い耳の女性が一人、優雅に紅茶らしきものを傾けていた。エルフだ。存在感が明らかに違うのに、こちらを見てふわりと微笑むだけで何も言わない。
「あちらはルナ。世界樹の森から来て、なぜかそのまま住み着いてるわ」
「なぜかって何よ、キャルル。この村のご飯が美味しいからに決まってるじゃない」
「茹でた大根が?」
「ええ。とっても」
優太は理解した。この家の食卓は、崩壊している。
* * *
「キャルル。厨房を貸してくれ」
「え?」
「食材も少し分けてくれると助かる。今夜の飯は俺が作る」
キャルルの耳がぴんと跳ね上がった。
「あなた、怪我人を運んできたばかりで疲れてるでしょ。休みなさいよ」
「宿代と飯代の代わりだ。それに――」
優太は厨房のほうを親指で示した。
「茹でた大根に塩だけで千人を働かせてるって聞いて、医者志望として黙ってられるか」
* * *
厨房に立ち、優太は誰にも見えない位置にホログラムパネルを展開した。
――【現在の残高:5,000 GP】
街道で稼いだ命の値段だ。無駄には使えない。
検索窓に「クミン」と念じる。ずらりと並ぶスパイスの商品リスト。値段は驚くほど安かった。
「クミン、コリアンダー、ターメリック、ガラムマサラ、カルダモン。トマト缶、バター、生クリーム、鷹の爪」
ポンッ、ポンッと軽い音を立てて、見慣れた地球の食材が調理台に積み上がっていく。締めて八百GP。四千二百残った。
「悪くない投資だ」
村のパントリーから、鶏に似た『トライバード』の肉、旨味の塊のような『肉椎茸』、パンにも米にもなる万能主食『サンライス』を引っ張り出す。
包丁を握る。外科志望の指が、肉を等分に落としていく。ヨーグルトとスパイスでマリネ。玉ねんねぎを飴色になるまで炒め、生姜とニンニクを加え、トマト缶を入れて煮詰める。バターを落とす。
ジュワァァァッ――。
その瞬間、厨房の空気が変質した。
* * *
「な……何この匂い!?」
リビングでキャルルの耳が限界まで直立した。
「甘い……のに、鼻の奥がツンとして……なのにお腹が鳴るわ……!」
ルナが優雅な仕草のまま、椅子ごと厨房ににじり寄る。
そして。
「うっ……うぐっ……」
リーザが、パンの耳を握りしめたまま、涙をぼろぼろとこぼしていた。
「なんで泣いてんだお前」
「わ、わかんない……でも、この匂い嗅いだら、なんか、涙が……」
* * *
「――特製、肉椎茸とトライバードのバターチキンカレーだ」
深皿に注がれた黄金色のルーと、ふっくら炊き上がったサンライス。テーブルに並べた瞬間、四人が一斉に息を呑んだ。
「い、いただきます……はむっ」
キャルルがスプーンを口に運んだ。
兎の耳が、ビクゥゥゥンッ、と天井に向かって跳ねた。
「おいしぃぃぃぃぃ!! 何これ!? 辛いのに甘い! お肉が信じられないくらい柔らかい! 肉椎茸の出汁が全部溶けてるわ!」
「まあ。大地の恵みが、知らない魔法で作品になっているわ」
ルナが上品に微笑みながら、凄まじい速度でスプーンを動かしている。
「はぐっ、んぐっ、あぁぁ……あったかい……お肉が……お肉がぁぁぁ……!」
リーザに至っては、皿に顔を突っ込む勢いで泣きながら掻き込んでいた。
「ちょっと待ちなさいよ! 私の分は!? ねえ私の分!」
ルチアナが芋ジャージの袖をまくって参戦し、テーブルは一瞬で戦場と化した。
『ピロリン♪』
【善行判定:極限の飢餓状態にある生命を、手料理によって救済しました】
【獲得:+500 GP】
「……は?」
優太は目を疑った。
皿洗いが1GP。溝掃除が50GP。飯を食わせただけで五百は、明らかに桁がおかしい。
優太はゆっくりと、空の皿を差し出してくる魚人の少女を見た。
「あ、あのっ……優太さん。もう一杯だけ、いただけないでしょうか……!」
優太は無言でおかわりをよそった。
『ピロリン♪ +100 GP』
「……マジか」
この村には、食わせるだけで人命救助級のポイントを産出する、歩く飢餓状態が存在する。
(勝った。こいつを餌付けし続ければ、ポイントは無限だ)
優太が邪悪な笑みを浮かべかけた、その時。
「ねえ、ユウタ」
カレーで口の端を汚したキャルルが、皿を置いて真顔になった。
「明日の朝、村の診療所を見てほしいの」
「診療所? あるのか」
「あるわ。……あるだけよ」
兎の耳が、ゆっくりと垂れ下がった。
* * *
翌朝。案内された建物の前で、優太は足を止めた。
扉の外に、二十人以上が並んでいた。松葉杖の老人。膿んだ腕を布で巻いた男。母親に抱かれ、ぐったりと目を閉じた子供。
そして中には、薬棚も、器具も、消毒液も、何一つなかった。
あるのは寝台が四つと――昨日、口から血を流しながら回復を繰り返していた、あの村長の椅子だけ。
「……おい。まさかとは思うが」
優太の声が、低くなった。
「この村の医療、全部あんた一人で背負ってるのか?」
読んでいただきありがとうございます。
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