EP 2
治癒魔法では、その傷は塞がらない
木立を抜けた瞬間、優太の目が状況を三秒で読み取った。
横倒しになった荷馬車。散らばった野菜。血だまり。倒れているのは五人――いや、動いているのが三人、動いていないのが二人。
そして、荷馬車の陰から飛び出してきた最後のゴブリン。
「――どけ!」
優太はリュックを地面に叩きつけると同時に、腰の後ろから折り畳みナイフを抜いた。刃を起こす動作すら省略し、握り込んだ柄頭のまま、相手の踏み込みに合わせて半歩内側へ入る。
カウンター。顎の付け根に、体重の乗った肘。
ゴブリンが白目を剥いて崩れた瞬間、優太はもうそちらを見ていなかった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん死なないでっ! やだよぉ!」
泣き叫ぶ少女。その腕の中で、若い女が仰向けに横たわっている。
優太は膝から滑り込むように駆け寄った。
腹部左側。ゴブリンの鉈が抉ったのだろう、掌ほどの裂創から、鮮やかすぎる血が脈打つように溢れている。顔は蝋のように白く、唇が紫がかっていた。
――出血性ショック、第三度。猶予は五分もない。
「ミリィッ!!」
風が、鳴った。
街道の彼方から、土煙が一直線に伸びてくる。人間の脚が出していい速度ではなかった。百メートルを五秒台で駆ける影が、横倒しの荷馬車を跳び越え、音もなく着地する。
銀灰色の髪。腰に提げたダブルトンファー。頑丈そうな安全靴。
そして頭の上には、ピンと立った長い兎の耳。
「どいて!」
少女は優太を押しのけ、迷いなく傷口に両掌をかざした。
「――月よ、この者に慈悲を」
淡い銀色の光が、傷口を包む。裂けた皮膚の縁が、ぐっ、と互いに寄っていく。
寄って――止まった。
光が霧散する。傷は、開いたままだった。
「……なんで」
少女はもう一度、掌を重ねた。光。そして拡散。三度目。四度目。
そのたびに彼女の顔から血の気が引いていく。額に汗が浮き、頬がこけたように見え、やがて口元を押さえた指の隙間から、ぽたりと赤いものが落ちた。
血だ。
優太は彼女の手首を掴んで、傷口から引き剥がした。
「離してっ! この子は村の子なのよ!」
「やめろ。あんた、自分の身体を食い潰してる」
兎の耳が、びくりと震えた。
「……なんで、それを」
「見りゃ分かる。頬が落ちて、唇が乾いて、指先が震えてる。あんたが失ってるのは魔力じゃない。もっと即物的なものだ」
少女は数秒黙り、それから吐き捨てるように言った。
「……回復ってそういうものよ。肉を生やすには、生やす分の『元手』がいる。普通は治される側の身体から出るの。でもこの子はもう空っぽだから、私が肩代わりしてる。それだけ」
優太の思考が、その一言でぴたりと噛み合った。
――そうか。そういう世界か。
だが今は追わない。優先順位を間違えるのが一番人を殺す。
「一つだけ答えてくれ。あんたの力は、肉を『生やす』のか、それとも『元に戻す』のか」
「生やすに決まってるでしょ。傷の縁から、新しい肉を」
「なら当然だ」
優太は即座に断じた。
「あんたの力は悪くない。塞がらないのは、傷の中に『塞がっちゃいけないもの』が残ってるからだ」
少女は数秒、じっと優太の胸元を見つめていた。
いや――聞いていた。月兎族の聴覚が、この見知らぬ男の心臓の音を拾っている。嘘をつく人間の鼓動は、必ず乱れる。
乱れは、なかった。
「……分かったわ。あなたに預ける」
その判断の早さが、優太には有難かった。
リュックのジッパーを一気に引き開ける。中から引き出したのは、赤い十字の入った黒いポーチ――日本から背負ってきた、外傷特化の携帯医療セット。
滅菌手袋を歯で咥えて破り、装着。生理食塩水のボトルで傷口を一気に洗い流す。血が流れ、白い何かが覗いた。
骨じゃない。
ピンセットを差し込み、指先の感覚だけでそれを摘み上げる。
ずるり、と引き抜かれたのは、五センチほどの木片。荷馬車の破片だ。鉈が突き刺したのではなく、押し込んだのだろう。
「木片が、動脈のすぐ横に刺さってた。あんたの力は、これごと肉で包み込もうとしてたんだ。異物を抱いたまま塞がれば、内側から腐る。この子の身体が、それを拒否してた」
「……そんなこと、誰も教えてくれなかった」
抜去と同時に血圧が跳ね、傷口から出血が噴き上がる。
「クイッククロット――投入!」
止血剤を練り込んだガーゼを、傷腔へ容赦なく押し込んでいく。優しさは殺す。パッキングは深く、隙間なく。掌の付け根で三分間、全体重をかけて圧迫。
「そこの君。妹さんだな」
「は、はいっ」
「お姉さんの足を、俺のリュックの上に乗せて高くしてくれ。それから毛布をかけろ。身体を冷やすな。それが今、君にできる一番大事な仕事だ」
泣きじゃくっていた少女の目に、光が戻った。震える手で、必死に姉の足を持ち上げる。
三分。優太は圧迫を解いた。
出血が、止まっている。
「――兎の姉ちゃん」
優太は初めて顔を上げ、彼女を見た。
「下拵えは終わった。ここからはあんたの領分だ。頼む」
少女の瞳が、大きく見開かれた。
「……私の、領分」
「異物は抜いた。出血は止めた。あとは肉を生やすだけだ。俺には逆立ちしてもできない」
彼女は口元の血を手の甲で乱暴に拭うと、もう一度、掌を差し出した。
「月よ――この者に、慈悲を」
銀の光は、今度は弾かれなかった。
傷の縁が寄り、繋がり、桃色の新しい皮膚が張っていく。娘の唇に、わずかに血の気が戻った。
浅い呼吸が、深く、規則正しいものへと変わっていく。
「……っ、う……」
「動くな。まだ寝てろ」
『ピロリン♪』
『ピロリロリロリロリロォォォンッ!!』
【善行判定:確実な死が予測される生命を、救済しました】
【獲得:+5,000 GP】
視界の隅で、さっき0になったばかりの残高が跳ね上がる。
――が、優太がそれを噛み締める暇はなかった。
ぐぅぅぅぅぅぅ~~~~……。
ぎゅるるるるるるる~~~……。
助かったばかりの娘と、助けた兎耳の少女の腹が、絶望的なほど盛大に、ほぼ同時に鳴り響いたのだ。
「……」
「……い、今のは違うの。魔物の唸り声よ」
「二人分で四小節鳴らしといて無理があるだろ」
優太は無言でリュックの内ポケットを探り、銀紙に包まれた板を取り出した。日本から背負ってきた非常用の高カカオチョコレートだ。ばきり、と半分に割る。
「食え。両方だ」
「え……」
「肉を生やしたなら、生やした分だけ材料が要る。あんたらは今、その材料を使い切ってる。糖はいちばん早く効く」
少女はおずおずとそれを口に含み――そして固まった。
兎の耳が、じわじわと、天に向かって直立していく。
「……甘っ! なにこれ、なにこれ!? 苦いのに甘い! 頭の芯がじんじんするわ!」
「お、おいしぃ……っ」
娘のほうは、涙をこぼしながら小さな欠片をかじっていた。
優太は二人を見下ろしながら、頭の中で高速で計算を始めていた。
――肉を生やすには元手がいる。回復魔法はカロリーを食う。
なら、飢えている人間に回復魔法をかけたらどうなる。
なら、食料の乏しい村で、この力はどれだけ使える。
なら、この世界の医療が抱えている本当の問題は――。
「……おい。あんた、村の医者か何かか」
優太が顔を上げると、駆けつけた自警団の男たちが、ぬかるんだ地面に膝をついていた。
「あ、あんた……何者だ……」
「村長様の回復を、通しちまった……」
村長。
優太が眉をひそめた瞬間、服の裾をくいっと引かれた。
振り返ると、兎耳の少女が真下から見上げていた。青褪めた顔のまま、口の端にチョコレートをつけたまま、しかし瞳だけがぎらついている。
「ポポロ村村長、キャルル・ムーンハートよ」
彼女ははっきりと言った。
「あなた、名前は」
「……中村優太」
「ユウタ。あなた、うちの村に来なさい」
断らせる気がまったくない声だった。
「今のを、私に教えて。全部」
読んでいただきありがとうございます。
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