第一章 地球の勇者
異世界に落ちて三十分、俺は空き瓶でゴブリンを殺した
顎だ。
人間だろうが亜人だろうが、頭蓋の下端を下から突き上げてやれば、中身の脳は必ず揺れる。ヘルメットの有無も、筋肉の厚みも関係ない。物理法則は世界が変わっても裏切らない。
中村優太は、右手に握った一升瓶の底を、真下から振り抜いた。
ガガァンッ!!
鈍い破砕音。緑色の化け物の顎が内側に折れ、瞳孔が左右バラバラの方向へ流れた。鉈を握っていた指が、糸を切られたようにほどけていく。
脳震盪。完全に意識が飛んでいる。
「――終わりだ」
優太は倒れ伏したその後頭部、延髄のあたりへ、もう一度だけ一升瓶を振り下ろした。躊躇はしなかった。痙攣が止まるまで、冷静に、必要な回数だけ。
殺すのが好きなわけじゃない。ただ、半端に生かした敵に背中を向けるほうが、よほど残酷な結果を招く。ハワイで元SEALsの教官に、耳にタコができるほど叩き込まれたことだ。
――兵士は市民に地獄を見せない為に、自分が地獄に浸かって掃除する役目だ。嫌なら教会でママのミルクでも飲んでろ。分かるか、優太。ハッハッハッハ。
あの豪快な笑い声を思い出しながら、優太は瓶に付いた汚れを、落ち葉でざっと拭った。
「……意外と丈夫だな、この瓶」
大吟醸『鬼殺し』の一升瓶。ヒビ一つ入っていない。日本の硝子工業を少し尊敬した。
「ひぃぃぃぃっ……こ、殺した……ゴブリン、殺しちゃった……」
背後、太い倒木の陰から、震える声が上がった。
ヨレヨレの芋ジャージ。泥まみれの健康サンダル。ボサボサの髪。どこからどう見ても、連休三日目の大学生である。
こいつが、この世界を創った女神だという。
「お前な。武器がその空き瓶しかないって言ったのはお前だぞ、ルチアナ」
「だ、だって! 私、システム管理が専門なの! 戦闘力は一般人以下なの!」
「創造主が一般人以下でどうする」
優太は深くため息をついた。
――時系列を三十分ほど巻き戻す。
防衛医科大学の五年生・中村優太は、実習帰りの帰路、突然足元が抜けるような感覚に襲われた。気づけば、見知らぬ森の中である。目の前には、酒臭い息を吐く自称・女神。
曰く、異世界へ送る予定だった魂の転送先を、酔って手元が狂い、無関係な優太ごと巻き込んだ。曰く、詫びとしてスキルを一つ付けた。曰く、帰す方法は「たぶん、そのうち何とかなる」。
控えめに言って、事故である。しかも加害者が同行してくる事故だ。
「まあいい。それより――」
言いかけた優太の脳内に、ひどく間の抜けた電子音が鳴った。
『ピロリン♪』
【善行判定:人里へ向かっていた魔物を排除しました】
【獲得:+100 GP】
視界の右隅に、半透明のホログラムパネルが浮かび上がっている。
「……出た。これがお前の言ってた『スキル』か」
「そうそう! 【地球ショッピング】。優太が良いことをするとGPが貯まって、それで地球のお店にある品物を取り寄せられるの。私の自信作よ!」
ルチアナが得意げに胸を張る。さっきまで倒木の陰で震えていた女とは思えない切り替えの早さだった。
優太はパネルに指を触れた。ぬるりとした抵抗感の後、商品検索の画面が開く。
――【現在の残高:120 GP】
試しに「水」と念じてみる。ずらりと並ぶ商品リスト。コンビニで売っている見慣れたラベルの緑茶が、【130 GP】と表示されていた。
「高っ。買えないのか」
「一円一GPだからね。あ、でもゴブリン倒した分でギリ足りるんじゃない?」
優太は残高を確認し、購入をタップした。
ポンッ、と気の抜けた音とともに、何もない空間から冷えたペットボトルが落ちてきた。手のひらに伝わる、汗をかいたプラスチックの感触。間違いなく本物だ。
「……マジかよ」
キャップを捻る。数時間ぶりの水分が喉を落ちていく感覚に、優太はようやく、自分がまだ生きていることを実感した。
同時に、頭の中で計算が始まる。
地球の物資が、金額そのままの数字で呼び出せる。ということは――止血帯。輸液セット。抗生物質。滅菌器材。この世界に絶対に存在しない、命を繋ぐための道具。すべてが「善行」という通貨で買える。
「ルチアナ。ポイントの単価はどうなってる」
「えーっと、皿洗いが1P、溝掃除が50P、魔物退治が100Pからで……人助けは軽いので100P、重いのだと1000P、本気でヤバい状況から救ったら5000P以上」
「五千」
優太は口の端をわずかに上げた。
人を助けるほど、人を助ける力が増える。ふざけた設計だ。ふざけているが――こんなに性に合ったシステムもない。
「よし。まずは人里を探すぞ。方角の心当たりは」
「あるわけないでしょ、そんな便利機能。私はシステムの裏方であって、GPS機能は搭載してませ――」
ルチアナの軽口が、途中で止まった。
風向きが変わっていた。
森の奥から流れてきた空気に、優太は反射的に鼻を鳴らす。土と落ち葉の匂いに混じって、覚えのある鉄錆びた臭気。実習室でも、ハワイのあの日でも嗅いだ、絶対に間違えようのない匂い。
血だ。それも、かなりの量。
「……ッ、優太、今の――」
その時、木々の向こうから、少女の悲鳴が響き渡った。
優太はすでに走り出していた。
一升瓶を投げ捨て、リュックの肩紐を締め直しながら、視界の隅のパネルに残った数字を睨む。
――【現在の残高:0 GP】
「……足りねぇな」
それでも、足は止めなかった。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




