EP 6
男二人でランクルに乗って、温泉に行った
朝六時。診療所の前に、それは停まっていた。
武骨な四角い車体。無塗装に近いマットな白。荷台にはコンテナとキャンプ道具。
「……ランクル70か」
「乗れ」
「異世界に持ち込んだのか、これ」
「持ち込んだ」
「どうやって」
「知らん」
優太は少し考えて、追及を諦めた。この男に「どうやって」を聞いても答えが返ってきた例がない。
* * *
「――待った。俺、バイクで行きたいんだが」
「持ってるのか」
「地球に置いてきた。アフリカツインだ」
「買え」
「そう思って昨日調べた」
優太はホログラムパネルを開き、無言でそれを龍魔呂に見せた。
【CRF1100L アフリカツイン 1,760,000 GP】
「……」
「オークの群れ一つ潰して十万だ。十七回オークの軍勢を殲滅しないと買えない」
「貯めろ」
「あんた今、簡単に言ったな」
「貯めろ」
優太は助手席のドアを開けた。
* * *
村を出て、東の街道へ。
車内には、静かなオーケストラが流れていた。弦がゆっくりと同じ音型を刻み、その上を旋律が重なっていく。
「……ベートーヴェンの七番か。二楽章」
「分かるのか」
「妹がピアノやってた。実家で嫌ってほど聴かされた」
「そうか」
窓の外を、朝靄のかかった草原が流れていく。
ロックバイソンの群れが、遠くでのんびりと草を食んでいた。その向こうに、雪を残したポポロ山が見える。
優太は、シートに深く沈み込んだ。
「……なあ」
「なんだ」
「俺、この世界に来て二週間ちょっとなんだが、外に出るの、これが初めてだ」
「知ってる」
「なんで知ってる」
「村の連中が言ってた。先生は畑と診療所しか知らんとな」
「……そうか」
優太は笑った。少し情けない笑い方だった。
* * *
昼前、河原で車を停めた。
龍魔呂は荷台からバーナーと小さな鍋を出し、手際よく火にかけた。
「なんだそれ」
「昨夜の残りの出汁だ。飯を入れる」
「雑炊か」
「食え」
河原で食う雑炊は、店で食うより旨かった。理由は分からない。
優太は椀を抱えたまま、川面を眺めた。
「……ニャングルに弁当を頼まなくてよかったのか」
「頼んだ」
「え」
「二人分、銀貨四枚だと言われた」
「高っ」
「断った」
「正解だ」
* * *
ポポロ山の中腹、道なき道をランクルが登っていく。
やがて硫黄の匂いが漂い始め、岩場の陰に、湯気の立つ水たまりが現れた。
いや、水たまりではない。
直径十メートルほどの、透き通った乳白色の湯だまり。周囲を岩が囲み、上には空しかない。
「……天然の露天風呂じゃねぇか」
「三ヶ月前に見つけた」
「誰にも言ってないのか」
「言う相手がいなかった」
優太は、その一言に何も返せなかった。
* * *
「――くぁぁぁぁ」
湯に肩まで浸かった瞬間、優太の口から情けない声が漏れた。
「五日ぶんの疲れが出てくる音がする」
「出しとけ」
二人は無言で湯に浸かった。
風が岩を渡り、鳥が鳴き、湯の表面が小さく波打つ。それ以外に音がない。
――五分ほど、そうしていた。
そして優太が、唐突に言った。
「なあ龍魔呂。銃創って、入口と出口で全然形が違うの知ってるか」
「……は?」
「入口は小さいんだよ。綺麗な穴。でも出口はぐちゃぐちゃになる。中で弾が回転したり変形したりするからな。だから撃たれた奴を見たら、まず背中を見る。これ、TCCCの基本なんだが」
「おい」
「腹を撃たれた場合はまた別で、腸管の損傷が――」
「なんで温泉で講義を始める」
「え?」
優太はきょとんとした。
「……あ。いや、その、静かだったから」
「静かなら黙ってろ」
「すまん」
三十秒後。
「あとな、この山の陽薬草、たぶん群生してる。硫黄泉の周りは土壌が酸性に傾くから、他の植物が生えにくくて競合が減るんだ。後で採って帰る。というか湯から出たら採る。今すぐ採りたい」
「湯に浸かれ」
「浸かってる」
「口を閉じてだ」
* * *
だが、静かになった時間はそう長く続かなかった。
優太の視線が、湯気の向こうの男の身体に釘付けになっていたからだ。
「……なあ」
「今度はなんだ」
「あんたの身体、なんだそれ」
龍魔呂の上半身には、傷があった。
一つや二つではない。
優太は、それを医者の目で読んだ。読まずにはいられなかった。
――左肩、刺創の瘢痕。角度から見て、上方から振り下ろされた刃。
――右脇腹、鈍器による陥没骨折の治癒痕。肋骨が三本、変形して繋がっている。
――背中。腰から肩甲骨にかけて、長い切創が斜めに走っている。縫っていない。放置して自然に塞がった痕だ。
――そして、右の前腕。細かい傷が無数に。
「……あんた、これ全部」
「古い傷だ」
「そうじゃない」
優太は湯の中で身を起こした。
「全部、前じゃなくて庇う角度で受けてる」
龍魔呂の眉が、わずかに動いた。
「肩の刺し傷は、誰かの上に覆いかぶさった時の角度だ。脇腹は避けられたのに避けなかった。背中の切り傷に至っては、逃げてる相手を追ってきた奴に、背中を向けたまま受けてる」
優太は、真っ直ぐにその男を見た。
「あんた、自分を守る戦い方を一回もしてない」
* * *
しばらく、湯の音だけがしていた。
やがて、龍魔呂が湯を掬い、顔にかけた。
「……医者ってのは、面倒くさいな」
「よく言われる」
「言われてんのかよ」
「あんたの真似だ」
龍魔呂は小さく息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
そして、岩に背を預けて空を見た。
「――弟がいた」
優太は、動かなかった。
「ユウっていう」
「……ああ」
「守れなかった」
それだけだった。
優太は、聞かなかった。いつ、どこで、どうして。医者として何百回も人の一番痛い場所に触れてきたから、触れていい場所と、まだ触れてはいけない場所の区別だけはついた。
「……そうか」
「ああ」
二人はまた黙って、湯に浸かった。
* * *
湯から上がり、岩に腰掛けて、タバコに火を点けた。
ぼっ、と軍用マッチの音。カチ、と真鍮の音。
二つの煙が、山の空気に混ざっていく。
「……なあ龍魔呂」
「なんだ」
「マルボロ、あと何本だ」
「三本」
「切れたらどうすんだ」
「作る」
「作る?」
「畑を借りる」
龍魔呂は煙を吐きながら、遠くの山を見た。
「ポポロの葉は悪くない。だが軽すぎる。地球のバージニア種を混ぜて、この村の太陽芋の糖蜜でケーシングすれば、もっと重くて甘い煙になる」
「……あんた、料理人じゃなくて農家だったのか?」
「両方だ」
「守備範囲が広すぎる」
優太は煙を吐き、それから、ふと思ったことを口にした。
「――なあ。俺、今日ここに来るまで、この世界を『職場』だと思ってた」
「ほう」
「診て、切って、縫って、また診て。それだけの場所だと思ってた」
優太は、眼下に広がる草原を見た。
湯気の向こう、遠くにポポロ村の畑が、緑の四角形になって並んでいる。
「けど、ここ、いい景色だな」
「ああ」
「また来るぞ」
「好きにしろ」
「あんたも来い」
「……ああ」
* * *
帰りのランクルの中で、優太は助手席に沈み込んで、久しぶりに深く眠った。
起こされたのは、村まであと三十分という地点だった。
「――優太」
「ん……着いたか」
「起きろ」
声の質が、変わっていた。
優太は跳ね起きた。
フロントガラスの向こう。
夕暮れの空に、細く、まっすぐな煙の柱が立ち上っている。
黒い煙が、三度途切れ、また三度上がった。
「……あれ、狼煙か」
「ネギオが上げてる」
龍魔呂の手が、ギアを叩き込んだ。
エンジンの唸りが、跳ね上がる。
「三度途切れるのは、火事でも魔物でもない」
「じゃあ何だ」
男は、前だけを見ていた。
「行方不明だ」




