EP 3
タダの医者は、村を殺す
「――で、帳簿は」
「ない」
「は?」
「つけてない」
猫耳の商人の煙管が、口からぽとりと落ちた。
* * *
「ないてどういうことですのん!?」
「金を取ってないからだ」
「取ってない!? 一銭も!?」
「一銭も」
「何人診ましたん」
「二週間で……三百人くらいか」
ニャングルは算盤を取り出し、猛烈な速度で珠を弾いた。
カチカチカチカチカチカチ。
そして、止まった。
「あかん。この村、あんた一人で潰れますわ」
* * *
「言うてる意味、分かりますか」
ニャングルは煙管を拾い上げ、火を入れ直した。
「ワテは商会の人間や。ポポロ村の財務も預かっとる。ええですか、ナカムラはん。あんたが二週間で使うた物資、ぜんぶワテが仕入れとるんですわ」
「……仕入れ? 全部俺のポイントで買ってるが」
「布は? 薪は? 煮沸の釜の燃料は? 井戸の水汲みの人足は? 診療所の修繕費は?」
優太は口をつぐんだ。
「あんたが払ろてるのは、あんたが見えてる分だけや」
カチ、と算盤の珠が一つ鳴った。
「そんで、噂を聞きつけて隣村から人が来とる。今日で四十七人。明日は六十人来ますわ。ぜんぶタダで診ますか?」
「……診る」
「そしたら三ヶ月でポポロ村の備蓄が飛びます。冬に村の子供が飢えます」
優太は、反論しようとして――できなかった。
* * *
「ええですか、もう一つ言わせてもらいますわ」
ニャングルは煙を細く吐いた。
「あんた、明日死ぬかもしれん」
「縁起でもないな」
「オークの群れと殴り合う医者が何言うてますのん。……ええですか。あんたがおらんようになった日に、この村に残るもんは何ですのん」
優太の背筋が、ぴん、と伸びた。
「タダで診てくれる神様がおって、その神様が消えたら、村は元通りや。いや、元より悪い。みんなタダに慣れてしもとるから、もう自分らで何とかしようとせえへん」
「……」
「タダの医者は、村を殺しますわ」
部屋が静まり返った。
カウンター代わりの寝台に腰掛けていた龍魔呂が、角砂糖を一つ噛み砕いた。ぼりっ、という音だけが響いた。
優太は長く息を吐き、それから頭を下げた。
「――俺が間違ってた。すまん」
ニャングルの猫耳が、ぴくんと跳ねた。
「……素直やな、あんた」
「間違いを認めるのに時間かけると、その分だけ人が死ぬ職業なんだ」
「……ふん」
商人は満更でもなさそうに髭を撫でた。
「気に入りましたわ。ほな、儲けましょか」
* * *
こうして、異世界初の健康保険制度が誕生した。
「名付けて、ポポロ健保」
ニャングルが得意げに図を広げた。
「村人は毎月、月見大根三本か、労働半日分を納める。そんで病気になったら診療所はタダ。隣村の人間は、一回につき銅貨二十枚」
「高くないか、それ」
「安いですわ。命の値段としては破格や。そんで――」
ニャングルの猫目が、きらりと光った。
「ワテの弁当宅配とセットにしますねん」
「弁当?」
「三国の警備兵向けに、おばちゃん十二人雇って弁当を配っとりますねん。年間契約で三千食。そこに『月一の健康診断つき』を足す」
優太は、思わず唸った。
「……兵士が病気で倒れるより、月に一度診たほうが安上がりってことか」
「そういうことですわ! 三国とも喉から手が出ますで!」
「あんた、商人にしとくのが惜しいな」
「褒め言葉として受け取っときますわ」
* * *
説明会は、盛況だった。
主に、混乱という意味で。
「はいはいはーい! 私、大根持ってません!」
「リーザ、あんたは労働半日でいいのよ」
「じゃあ食堂の皿洗いで!」
「あんたが皿を洗うと、洗いながら食べるでしょ」
「……バレてました?」
「あら、私は何を納めればいいのかしら」
ルナが小首をかしげた。
「ルナは……そうね、森の薬草を分けてもらえると助かるわ」
「まあ、それなら毎日納めているわね。木の根が勝手に運んでいるもの」
「勝手に運んでるのか」
「ええ。ユウタの薬棚に」
優太は薬棚を振り返った。確かに、勝手に増えている草があった。
「……あれ、そういうことだったのか。ずっと不思議だったんだ」
「あら。気づいてなかったの?」
「毎朝、薬棚から生えてくると思ってた」
部屋中が静まり返った。
「……優太様。それ、本気で言ってます?」
「本気だが」
「あんた、頭ええのになんでそこは疑わんのですのん!?」
* * *
「あーもうっ、私は!? 私は何を納めればいいのよ!」
ルチアナが手を挙げた。
「お前は無職だろ」
「女神よ!」
「無職の女神だろ」
「壁を直した分でチャラにしなさいよ!」
「壊したのもお前だ」
カチ、と算盤が鳴った。
「アルコール依存の治療費、過去分も含めて銀貨三十二枚ですわ」
「請求すんの!?」
* * *
説明会が終わり、人が捌けた後。
ニャングルは煙管を吹かしながら、優太の隣に立った。
「ナカムラはん。一つだけ、聞いてもええですか」
「なんだ」
「あんた、ほんまにタダで診てたつもりですか」
優太は、猫耳の商人を見た。
「……どういう意味だ」
「ワテは商人ですわ。人が動くときは、必ず何かを受け取っとる。あんた、人を助けた時に、何か貰ろてるやろ」
優太の指先が、わずかに止まった。
――【善行判定:+5,000 GP】
視界の隅に、いつも浮かんでいるあの数字。
「……よく分かったな」
「顔ですわ。人を治した直後、あんた一瞬だけ、帳簿を見る商人の顔をしますねん」
「…………」
優太は、返す言葉を持たなかった。
――俺は、無償で人を助けているつもりでいた。
だが実際は、この世界で一番効率よく報酬を得ているのは俺だ。人が死にかけるほど、俺の残高は増える。
「別に責めとるんちゃいますで」
ニャングルはあっさりと言った。
「ワテかて金の匂いが好きで働いとる。動機が綺麗かどうかより、結果として村に何が残るかが全部ですわ」
「……ああ」
「ただ、覚えときなはれ。あんたの動機は、いつか誰かに問われますで」
* * *
その夜。
鬼龍のマスターのカウンターで、優太は珍しく酒を頼んだ。
「――なあ、龍魔呂」
「なんだ」
「あんた、店の代金以外に、悪党退治で金を取ったことあるか」
「ない」
「なんで」
「取ったら、仕事になる」
龍魔呂は角砂糖を一つ摘まんだ。
「仕事になったら、金にならん奴を助けなくなる」
ぼりっ。
優太は天井を仰いだ。
(……そうだよな。そりゃそうだ)
この男は、たぶん一生、報酬の話をしない。
自分は、人を助けるたびに数字が増える。
どちらが正しいという話ではない。ただ、隣にこの男がいる限り、自分は自分の動機を誤魔化せなくなる――優太はそう思った。
「……なあ」
「なんだ」
「あんた、いい奴すぎて隣にいると胃が痛い」
「よく言われる」
「言われてんのかよ」
* * *
その時、店の引き戸がばんっと開いた。
ニャングルだった。息を切らし、算盤を握りしめている。
「ナカムラはん! 一大事や!」
「今度は何だ」
「ポポロ村が、ゴッドチューブでバズっとる!」
「……ごっど、なに?」
「知らんのですか!? 神界の映像配信網ですわ! 全世界の神々が見とる!」
ニャングルは煙管を放り出し、猫目をぎらつかせた。
「うちの村の名前が、再生数千二百万の動画に載っとりますねん! 題名は――」
商人は、震える声で読み上げた。
「『オークを皆殺しにした謎の医者がいる村』」
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