EP 2
駄女神が壁をぶち抜いて逃げた
翌朝の診療所は、いつも通りだった。
寝台が四つ、薬棚が一つ、煮沸用の釜が一つ。そして床の隅に、芋ジャージの塊が一つ転がっている。
「ぐごー。……んー、あと十年寝るぅ……」
「起きろ駄女神。客だ」
「客ぅ……?」
ルチアナが薄目を開けた。
そして、優太の背後に立つ百九十センチの影を認識した。
三秒。
女神の顔から、色という色が全部抜けた。
「ぎゃあああああああああああああああッ!!!」
ドゴォンッ!!
「壁ぇぇぇぇッ!!」
診療所の東側の壁が、女神の形に吹き飛んだ。
* * *
「……なあ龍魔呂」
「なんだ」
「うちの壁、地球ショッピングで買うと結構するんだが」
「出す」
「即答か」
優太は瓦礫を踏みながら、破れた壁の穴から外を覗いた。
畑を突っ切って、芋ジャージが猛烈な速度で遠ざかっていく。健康サンダルが片方脱げて宙を舞っていた。
「あんた、あいつに何をした」
「何もしてない」
「じゃあ何をする予定なんだ」
龍魔呂は答えなかった。角砂糖を一つ、ぼりっと噛み砕いただけだった。
「……まあいい。捕まえるぞ」
* * *
「――というわけで、駄女神が逃げた」
村の広場に、主要メンバーが集められた。
「あら、朝から賑やかね」
ルナが優雅に紅茶を傾けている。
「壁に穴が空いたって聞いたけど、大丈夫なの?」
キャルルが兎耳をぴんと立てて心配している。
「で、報酬は?」
リーザは既に前のめりだった。
「聞いてないぞ、そういう話は」
「捜索には対価が必要です。これは常識です」
「お前が言うと重みが違うな」
その時、龍魔呂が一歩前に出た。
「捕まえた奴に、うちの賄いを一年分出す」
空気が、止まった。
「――出汁巻き、味噌汁、焼き魚、飯はおかわり自由だ」
リーザの瞳孔が、限界まで開いた。
「総員突撃ィィィィッ!!」
「早い早い早い」
* * *
捜索は、混沌を極めた。
まずリーザが村中の漬物樽を片っ端から開けて回った。
「いない! ここにもいない! この樽にも――あっ、たくあんだ」
「食うな。それは冬用だ」
次にネギオが森の樹木に問い合わせた。
「木々が言うには、酒臭い女は森には来ていないそうだ」
「木に聞けるのか」
「世界樹の森を舐めるな」
キャルルは村の屋根の上を跳んで回っていた。二十メートル跳ぶ村長が、屋根から屋根へ音もなく渡っていく。
「こっちにもいないわ! ……あ、ちょっと待って、村長宅の地下から音がする」
「地下?」
「純金百キロを塩漬けにしてる部屋よ」
「……あいつ絶対そこだ」
* * *
村長宅の地下室。
扉を開けると、金塊の山に半分埋もれた芋ジャージが、幸せそうな顔で寝転がっていた。
「うへへへ……金貨のベッド……最高……」
「見つけた」
「ぎゃあっ!」
ルチアナは跳ね起き、金塊を蹴散らして地下室の小窓へ突進した。
「離しなさいよ! 私は自由よ!」
「待て、その窓は――」
ばりんっ。
「あっ」
* * *
「窓も追加だ」
「出す」
「あんた金あるのか」
「宿代を悪党で払ってる」
「どういう経済圏だそれは」
* * *
最終的に、ルチアナは村外れの畑で発見された。
というより、ルナに発見された。
「あら、ルチアナ。何してるの?」
「ひっ! る、ルナ! 見逃して! 私、追われてるの!」
「まあ大変。それなら隠れないと」
「そう! そうなの! さすが話が分かるわ!」
「じゃあ、土に埋めましょうか」
「え」
ルナがふわりと手をかざした。
畑の土が生き物のように盛り上がり、女神の足首から膝、腰へと這い上がっていく。
「ちょ、待って、待ってルナ! これ生き埋めっていうのよ!?」
「大丈夫。三日で芽が出るわ」
「出ないわよ! 私は植物じゃないの!」
「あら」
ルナは小首をかしげ、それから優しく微笑んだ。
「ごめんなさいね。植物じゃないなら、隠せないわ」
「怖い怖い怖い! 天然の善意が一番怖い!」
* * *
「――確保」
首まで埋まった女神を、優太が見下ろした。
「ちょっと! 掘り出しなさいよ! 神への冒涜よ!」
「掘り出す前に一つ聞く。なんで逃げた」
ルチアナの顔から、ふざけた色が消えた。
珍しいことだった。
「……優太。あんた、あいつが何者か知らないでしょ」
「知らん。角砂糖を齧る料理人だと思ってる」
「あのねぇ」
女神は深いため息をついた。
「――あれは、神様が触っちゃいけない案件を持ってる人間なの」
* * *
その後の話は、優太は聞いていない。
龍魔呂が「二人にしてくれ」と言ったからだ。
優太は診療所の穴だらけの壁を眺めながら、外で待った。
断片だけが、風に乗って届いた。
「……無理よ。あれは私の権限じゃ動かせないの」
「一度でいい。開けろ」
「開けたところで、あんたの……」
そこから先は聞こえなかった。
しばらくして、扉が開いた。
出てきた龍魔呂の顔は、来た時と何も変わっていなかった。
「終わったのか」
「断られた」
「……そうか」
優太は少し迷って、それから聞いた。
「あんた、どうするんだ。この村に用がなくなったなら――」
「待つ」
「え?」
「あいつの権限じゃ動かせないなら、動かせるようになるまで待つ。あるいは、動かせる奴を探す」
龍魔呂はマルボロの箱を取り出した。
カチ。
「三年待った。あと三年でも十年でも待てる」
「……あんた、気が長すぎるだろ」
「短気な奴は、待つ前に人を殺すからな」
「言い方」
* * *
地下室から掘り出されたルチアナが、泥だらけで戻ってきた。
「もーっ、最悪の朝だったわ! ……で、賄い一年分は誰の手柄になるの?」
「ルナだ」
「私は何もしてないわよ?」
「埋めただろ」
「あら、あれで良かったの?」
ルナがふわりと微笑む横で、リーザが膝から崩れ落ちた。
「わ、私の一年分の飯が……漬物樽を四十個開けたのに……」
「哀れだな」
「優太様、私、たくあん一切れしか得てません」
「食ったのかよ」
その時、龍魔呂が口を開いた。
「魚人の嬢ちゃん」
「……はい?」
「樽を四十開けたなら、それだけ働いたってことだ。半年分でいい、食いに来い」
リーザが、ぽかんと口を開けた。
「……え。いいん、ですか」
「働いた分は払う。当たり前だ」
「…………っ」
魚人の少女の目が、みるみるうちに潤んだ。
「マスターさまああああ!!」
「抱きつくな。飯が作れん」
優太は、その光景を横目で見ながら考えていた。
(……こいつ、無自覚でこれをやるからタチが悪いんだよな)
店に女が押しかける理由が、ようやく分かった気がした。
* * *
「――で、龍魔呂。当面この村にいるってことでいいのか」
「店がある。動くつもりはない」
「なら、隣人としてよろしく頼む」
優太が手を差し出すと、龍魔呂は少し不思議そうにそれを見て、それから握り返した。
握力は、加減されていた。それが逆に恐ろしかった。
「――あの、ちょっとよろしいですかぁ?」
その時、診療所の入口から、間延びした声がかかった。
振り返ると、猫耳の男が立っていた。
仕立ての良い商人服。口には煙管。そして小脇に、使い込まれた算盤を抱えている。
「ポポロ村の財務担当、ゴルド商会のニャングルと申しますわ」
男は煙管を一吹きして、にっこりと笑った。
目は、まったく笑っていなかった。
「ナカムラはん。あんたの診療所の帳簿、見せてもらえますやろか」
読んでいただきありがとうございます。
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