第二章「鬼龍のマスター」
異世界で最初に入った店に、日本人がいた
その夜、優太は眠れなかった。
オークを退けて六日。リョウの胸に入れていた管を抜いて三日。老婆の濁った目を治して二日。
やることは全部やった。誰も死ななかった。全部うまくいった。
なのに、寝台に横になった瞬間、天井が近づいてくるような感覚がして、優太は起き上がった。
「……散歩でもするか」
パーカーを羽織り、外へ出た。
* * *
夜のポポロ村は、驚くほど暗い。
街灯という概念がないから、月明かりだけが頼りになる。畑の畝が銀色に光り、遠くで家畜がもぞもぞと身じろぎする音がする。
優太はポケットからアメリカンスピリットの箱を取り出した。残り四本。地球ショッピングで買えばいいのだが、なんとなく、この四本は大事に吸いたかった。
軍用マッチを擦る。ぼっ、と小さな火が上がる。
――煙を吐きながら、優太はぼんやり考えていた。
俺は今、何をしてるんだろう。
医者になるために大学に入って、五年目の実習の帰りに、酔っ払った女神に世界ごと横取りされて、気づいたら異世界の村で人を切ったり縫ったりしている。
村の人間は「先生」と呼んでくれる。診療所は忙しい。悪くない。むしろ、大学にいた頃より遥かに「医者らしいこと」をしている。
なのに、眠れない。
「……クソだな。オンとオフの切り替えは得意なほうだと思ってたんだが」
そう独りごちて、優太は足を止めた。
村の外れ。畑と森の境目あたり。
その一角だけ、暖かい色の灯りが漏れていた。
* * *
木造の、こぢんまりとした二階建て。
入口に、藍染めの暖簾が下がっている。
――『鬼龍のマスター』
達筆すぎて一瞬読めなかった。
「……店? こんなとこに?」
診療所と畑の往復しかしていなかったから、まったく気づかなかった。
その時、引き戸ががらりと開いて、中から三人の女性が転がるように出てきた。
「もー! マスター、また明日も来ちゃうからね!」
「あんた昨日も言ってたでしょ」
「だって仕方ないじゃない!」
顔を真っ赤にした村の女たちが、きゃあきゃあ言いながら優太の横を通り過ぎていった。
優太は少し考えた。
(……こんな村に、女が押しかける店があるのか)
好奇心と、あとおそらくは単純な空腹に負けて、優太は引き戸に手をかけた。
* * *
中は、七席だけのカウンターだった。
磨き込まれた一枚板。壁際に酒瓶が整然と並び、天井の低い位置から吊るされた灯りが、木目を琥珀色に染めている。
流れているのは――ピアノだった。
左手の低音が、静かに、ゆっくりと、水が沈んでいくように響いている。
(……ショパン。夜想曲の、二十番)
優太の足が止まった。
異世界の村で、ショパンの遺作が鳴っている。それだけで、頭のどこかが軋んだ。
「――いらっしゃい」
低い声がした。
カウンターの向こうに、男が立っていた。
まず、でかい。優太も百八十二あるが、この男は明らかにそれより上だ。百九十はある。黒地に赤の混じったレザージャケットの袖をまくり、ワインレッドのタートルネック。腕は太いが膨れてはいない。動く筋肉の付き方だ。
そして、その手元。
まな板の上で、包丁が音もなく走っていた。
優太は思わずそれを目で追った。刃が食材に入る角度が一定で、引き切る速度が一切ブレていない。あれは、外科医の指と同じ種類の訓練を積んだ手だ。
男が顔を上げた。
目が合った瞬間、優太の全身が、勝手に警戒信号を出した。
――強い。ネギオとは種類が違う。
ネギオは規格外の生物だ。だがこの男は、人間の枠のなかで、人間としてありえない量の暴力を積み上げてきた目をしている。ハワイの教官と同じ目だ。いや、あれよりもっと深い。
男は数秒、優太を見て、そして口を開いた。
「……日本人か」
優太は、息を吐いた。
「そっちもな」
* * *
どこに座るか少し迷って、優太はカウンターの端に腰を下ろした。
「一杯くれ。……と言いたいが、この村の金を持ってない」
「今日は開店祝いだ」
「あんた、いつからやってんだ」
「三ヶ月前だ」
「祝いの期間が長すぎるだろ」
男は答えず、グラスに氷を落とした。からん、と澄んだ音がする。
差し出されたのは、琥珀色の液体だった。優太は一口飲んで、目を細めた。
「……ウイスキーだな。この世界のか?」
「ドワーフが作った芋のを、俺が樽で寝かせた」
「異世界でウイスキー作るなよ」
「三年待った」
男は淡々と言って、鍋の蓋を取った。
ふわ、と湯気が立ち上がる。
優太の喉が、勝手に鳴った。
――出汁の匂いだった。
* * *
出てきたのは、味噌汁と、白い飯と、焼いた魚だった。
それだけだ。
優太は箸を取り、汁を一口すすった。
そして、動きが止まった。
「……なんだこれ」
「ピラダイのアラで取った出汁だ。味噌はこの村のじゃない。西の街の蔵で三年寝てたやつを買ってきた」
「いや、そうじゃなくて」
優太は椀を見下ろした。視界がわずかに滲んでいた。
異世界に来てから十日と少し。ずっと、誰かに何かを食わせる側だった。カレーを作り、経口補水液を作り、リーザに永久機関のようにおかわりを注ぎ続けた。
誰かが自分のために作った飯を食うのは、これが初めてだった。
「……悪いな。ちょっと、疲れてるみたいだ」
「食え。喋るのは後でいい」
男はそう言うと、カウンターの下から小さな壺を取り出した。
中から白い立方体をつまみ上げ、口に放り込む。
ぼりっ。
「……おい」
「なんだ」
「今、何を食った」
「角砂糖だ」
「そのまま?」
「そのままだ」
「血糖値」
「知らん」
「知らんじゃないんだよ。あんた体格からして基礎代謝は高いんだろうが、それでも一日に何個も齧るのはやめとけ。あと歯」
「……医者か、お前」
「医学生だ。あと、その隣の診療所は俺のだ」
男が、初めてわずかに眉を動かした。
「隣の医者はお前か」
「知ってたのか」
「村の連中が毎晩お前の話をしてる。オークを止めた医者がいるとな」
「……あんた、それ聞いてて一度も見に来なかったのか」
男は角砂糖をもう一つ摘まみ、ぼりっと噛み砕いた。
「用がなかった」
優太は、その一言で妙に安心した。
この村で、優太を「先生」と呼ばない人間は、久しぶりだった。
* * *
飯を食い終えて、二人は店の裏の階段に並んで腰を下ろした。
男が胸ポケットから箱を出す。赤い箱。
「マルボロか。よく残ってたな」
「地球から持ってきた分はとうに切れてる。この世界の葉を、それらしく巻いてるだけだ」
男が真鍮のオイルライターを取り出した。
カチ。
小さな金属音が、夜の空気に響いた。
その音を聞いた瞬間、優太の背中の毛が、理由もなく逆立った。
(……なんだ、今の)
男は火を点け、それから無造作にライターをこちらへ向けた。
「いるか」
「いや」
優太は自分のポケットから、軍用マッチを取り出した。
「これがあるんだ。湿気に強くてな」
ぼっ。
二つの火が、夜の中で並んだ。
* * *
しばらく、どちらも喋らなかった。
喋らないことが、まったく気まずくなかった。優太が異世界に来てから、初めてのことだった。
やがて、優太が煙を吐きながら聞いた。
「……なあ。あんた、なんで名乗らないんだ」
「聞かれなかった」
「聞くよ。中村優太だ」
男は少し間を置いて、短く答えた。
「龍魔呂だ」
「たつまろ。……珍しい名前だな」
「よく言われる」
優太は灰を落とし、それから最後に、一番気になっていたことを聞いた。
「なあ、龍魔呂さん」
「呼び捨てでいい」
「じゃあ龍魔呂。……あんたみたいなのが、なんでこんな辺境の村で店なんかやってんだ」
男は、しばらく答えなかった。
煙が、月に向かってまっすぐ昇っていく。
やがて、龍魔呂は言った。
「女神を待ってる」
「……は?」
「この世界を作った女神だ。用がある」
優太は、火のついたままの煙草を、危うく落としかけた。
「……あー。その、なんだ。言いにくいんだが」
「なんだ」
「その女神なら、たぶん今、俺の診療所の床で酔い潰れて寝てる」
龍魔呂が、初めて優太のほうを向いた。
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