EP 10
俺が、この村の医者になる
診療所の中央に、簡易滅菌テントが立ち上がった。
自家発電ユニットが唸り、無影灯が寝台を白く照らし出す。異世界の板張りの床に、突然、地球の手術室が出現していた。
「ネギオ。器械出しをやってもらう」
「聞き慣れん言葉だな」
「俺が名前を言ったら、その器具を俺の掌に叩きつけるように渡せ。俺は手元を見ない。見る余裕がないからだ」
樹人は数秒、並べられた鋼の器具を眺めた。
「……なるほど。給仕と同じだ」
「そうだ。ドンピシャで同じだ」
「ならば任せろ。執事検定一級だ」
「今日ほどその資格に感謝した日はない」
* * *
「麻酔、導入する」
携行麻酔器のマスクを当てる。リョウの浅い呼吸が、機械のリズムに乗り、深く整っていく。
「輸血ライン、確保。人工全血、二十単位。……足りるかどうかは、抜いてみないと分からん」
「優太、明かりの角度これでいい?」
「もう十度上げろ。ルチアナ、影を作るな」
「はいっ!」
女神は、この夜、一度もふざけなかった。
「キャルル」
「……ここにいるわ」
彼女はテントの外、一歩の距離に立っていた。両手を膝の上で握りしめて。
「あんたの出番は必ず来る。だが俺が呼ぶまでは絶対に撃つな。今の状態で肉を生やされたら、俺が血管を掴めなくなる」
「……分かってる。今度こそ、待つわ」
優太はマスクを上げ、手袋の指を鳴らした。
「――執刀開始。メス」
パチンッ。
樹人の枝先から、寸分の狂いもなく柄が掌に収まった。
* * *
胸壁を開く。肋骨の間に開胸器を差し込み、じりじりと広げる。
血の海だった。
「吸引。……もっと吸え、視野がない」
電動吸引器が唸り、赤い液体が透明なタンクへ吸い上げられていく。ミリ単位で視界が生まれる。
その底に、優太は目的のものを見つけた。
単管パイプの先端。それが肋間動脈を押し潰し、栓のように塞いでいる。
「……予想通りだ。抜けば噴く」
優太は左手に鉗子を構えた。
「ネギオ。俺が『抜け』と言ったら、パイプを真っ直ぐ引き抜け。捻るな。斜めにするな。真っ直ぐだ」
「承知」
「三、二、一――抜け」
ずるっ。
次の瞬間、噴水が上がった。
視界が真紅に染まる。優太は瞬きすらしなかった。血しぶきの向こう、噴出点の一点だけを見ていた。
左手が沈む。鉗子の先が、迷いなく閉じた。
カチッ。
噴水が、止まった。
「……よし」
「ゆ、優太様、血圧が――!」
ルチアナがモニターを読み上げる。
「全開で入れろ! 八単位、一気にだ!」
「はいっ!」
優太は右手を差し出した。
「持針器。三ゼロ、糸」
パチンッ。
* * *
結紮。二重。三重。
外科医の指が、血の海の底で踊っていた。異世界に来て十日目の、二十五歳の医学生の指が。
「……止まった」
優太は詰めていた息を吐いた。
だが、まだ終わらない。
開いた視野の奥。右の肺が、大きく裂けていた。パイプが貫通した経路そのものが、欠損として残っている。
「――これは、縫えないな」
「縫えない?」
「組織が足りない。俺の技術で寄せても、この面積は塞がらない。地球なら肺の一部を切除するが、この子の体力じゃもたない」
優太は顔を上げた。
テントの外。ずっと立っていた、兎耳の村長を見た。
「キャルル」
「――ッ」
「異物は抜いた。出血は止めた。感染は洗った。あとは、肉を生やすだけだ」
優太は、はっきりと言った。
「俺には逆立ちしてもできない。頼む」
キャルルの目から、大粒の涙が一つ落ちた。
彼女は乱暴に袖で拭い、テントに踏み込むと、掌を裂けた肺の上にかざした。
「月よ――」
銀の光が、開いた胸腔を満たした。
裂けた肺胞が、寄り、繋がり、桃色の組織が生まれていく。
――弾かれなかった。一度も。
「いける……いけるわ、優太! すごい、こんなに素直に通るなんて初めて――」
そこまで言って、キャルルの膝が折れた。
「キャルル!」
「だい、じょうぶ……最後まで、やる……」
彼女は歯を食いしばり、光を注ぎ続けた。
村の全員が昨夜、腹いっぱいに食べていた。彼女自身も、焼き鳥とメロンクリームソーダで満たされていた。あの馬鹿げた宴会の一晩が、この一瞬のために存在していたかのように。
やがて、光が静かに消えた。
優太は覗き込み、そして頷いた。
「……完璧だ。閉じるぞ」
* * *
最後の一針を結んだのは、夜明け前だった。
優太は手袋を外し、その場に尻餅をついた。腕が上がらない。
寝台の上で、リョウの胸が――深く、規則正しく上下していた。
『ピロリン♪』
『ピロリロリロリロリロォォォォォォンッ!!!!』
【善行判定:現存する医療技術では救命不可能な生命を、救済しました】
【難易度補正:SS】
【獲得:+50,000 GP】
【称号を獲得しました:《命を繋ぐ者》】
優太はその文字をぼんやりと眺め、そして小さく笑った。
「……ようやく、十日で一人前か」
* * *
リョウが目を覚ましたのは、その日の昼だった。
「……せん、せい……?」
「動くな。喋るな。まだ胸に管が入ってる」
「おれ……いき、てる……?」
「生きてる。腕も上がるぞ、たぶん」
リョウの目尻から、涙が一筋こぼれた。
その瞬間、閉じていた診療所の扉が、外から吹き飛ぶ勢いで開いた。
「リョウーーーッ!!」
「おかわり、持ってきましたぁぁぁ!!」
リーザが大鍋を抱えて突撃してきた。後ろから村人が数十人、雪崩れ込んでくる。
「馬鹿、走るな! 患者が――ああもう」
優太は諦めて場所を空けた。
「先生ェ!」「ありがとうございます先生!」「あんた本当に神様だよ!」
「やめろ。神様はあそこで寝てる駄目な奴だ」
部屋の隅で、芋ジャージが「ぐごー」といびきをかいていた。
* * *
三日後。
優太は、白く濁った目の老婆の前に座っていた。
「婆さん。待たせたな」
「……先生?」
「器具が来た。あんたの目、たぶん治せる」
老婆の皺だらけの手が、震えながら優太の手を握った。
その様子を、扉の陰からキャルルが見ていた。
「――ユウタ」
「なんだ」
「あなた、いつか元の世界に帰るのよね」
優太は少し黙った。
帰る方法はある。ルチアナがそう言った。「たぶん、そのうち何とかなる」と。あの女神の言葉だから信用ならないが、ゼロではないのだろう。
だが。
窓の外では、リョウが自警団の若者に囲まれて笑っている。リーザが鍋を掻き回している。ネギオが村人の腰を長ネギで叩いている。ルナが花を眺めている。
診療所の前には、今日も列ができている。今日は、隣村から来た人間も混じっていた。
「――キャルル。一つ、頼みがある」
「なによ」
「この診療所、ちゃんとした薬棚を作りたい。それと寝台をあと六つ。器具を煮沸する釜と、井戸をもう一本。金は俺が出す」
兎の耳が、ぴくりと動いた。
「それって……」
「ポポロ村村長、キャルル・ムーンハート」
優太は立ち上がり、彼女に向き直った。
「――俺を、この村の医者にしてくれ」
数秒の沈黙のあと。
キャルルの顔が、耳の先まで真っ赤に染まった。
「……そ、そんなの! 村長として、断る理由が一つもないでしょ、馬鹿ッ!」
* * *
――同じ頃。
ポポロ村から遥か西。獣人王国レオンハートの謁見の間で、一人の伝令が跪いていた。
「緩衝地帯のポポロ村にて、オークの群れ三十一体を撃退。死者ゼロ。……そして、当該村に『治癒魔法を用いずに致命傷を治す者』が現れたとの報告です」
玉座の主が、ゆっくりと身を起こした。
「治癒魔法を、用いずに?」
「はっ。名は中村優太。素性は一切不明。……そしてもう一点」
伝令は、額を床につけた。
「その村に、三年前に出奔された第三姫殿下が」
* * *
――さらに遠く、東。
黒い城の最上層で、玉座に沈む影が、報告書の一行に指を止めた。
そこにはただ、こう記されていた。
『――ナカムラ・ユウタ』
「……ほう」
影は、ゆっくりと笑った。
「面白い人間が来たものだ」
* * *
第一章「ポポロ村の医者」――完
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