結婚相手
それから二日が経った、その日はリビングから大きな物音が家に響いていた。突き飛ばされて倒れる新太の手には絵の下書きがあった。折れて皺だらけの紙を伸ばすことも無く、そのまま丸めて立ち竦んだ。その間にも親父はくどくど愚痴を漏らしている。新太が丸めた下書きはあの朝早くに公園の先で見た池を挟んで登り始めた朝日であった、次に描く予定の物を見せろと突然に言うので仕方なしにこの前課題の前に描いた物を持って行った。そしたらば親父曰く「そんなものを今更描いて何になる?」とのことだ。何になるものなにも、自分が描きたいと思ったものを描いてなにがいけないのか、親父は客の事をそんなにも気にしているのだろうか。今更と言うが今時は何を描いても今更だろう。そうして二十分もしていれば親父の言いたい事は大体終えたらしいと見える。すると「これはお前の為だ」とか「お前には才能がある」などいつも通りの口上を述べる。愚痴に至ってはいつも感服させられる程に多種多様なのに対し、代わり映えしないのは然程重要とも思ってないに違いない。それなのに毎回言ってくるのは何か親父にとっては意味のある事に思っているのだろう。正直言って辞めて貰いたいものだ、今更偽善者にも成れないのにそんな事を言われても気持ち悪い。新太はいつも通りの口上を聞き終えて、すぐに二階へ上がりアトリエで絵を広げた。何がそんなに悪かったのか、そう考えていると自分でも無意味に思えるのだが、あの朝早く会った女の事を思い出し、母親なら何と言ってくれるだろうかという考えが浮かんだ。そんな事に期待を見出した途端、胸を突き刺される様に辛くなり考えてはいけない事のように感じた。絵を裏返して部屋を移動し、課題の前に座り込んで呆けたまま時間は過ぎていった。
それからまた数日経った。丁度「結婚する」と聞いてから一週間である。朝早くに「掃除しておけと言っただろ」と蹴り飛ばされた新太は朝から掃除に励んだ。昼頃になって一段落した、特に一階の物置になっていた部屋を片付けろと言うのには苦労した。それから洗面所で服をまくって新しい痣を確認しているとインターホンが鳴り、親父が珍しく部屋から出て来てわざわざ対応に行った。朝の事から察するに結婚すると言っていた女であろう。服を戻して痣を隠した、これは朝早くに親父が「こういう事はやめにするから、ちゃんと言う事を聞け」との事からだ。人を蹴り飛ばしておいてよく言えたものだ、結婚相手の為ならそこまで出来るのかという事にも多少引っかかる、だがそれでなくなるなら是非もない。玄関先からの声に耳が澄まされていく、早くにその結婚相手を見に行きたい自分とそれを止める自分との間でどうする事も出来ず、結局リビングで緊張しながらも平然のようにしてその時を待つ。そのうち親父がずかずかと入ってきて、女が大変謙遜した様子で後に続いて来た。あの日に会った女の姿がそこにあった、あの時とは違い服装も化粧も質素なものであるがそれがより綺麗な人だと思わせた、だが鋭利な爪は健在であり少々不釣り合いな気がする。新太は女を見るなりまた期待が生まれた、今度は安心出来る期待であった。それから親父が家を案内し、最後に新太が紹介された。女は膝立ちになり新太よりも目線を下げて。
「新太君、優香って言います。これからお母さんとしてよろしくね」
と笑って見せた。あの日の事は覚えていない様に思われた、あれだけ泥酔していては無理もなかろう。新太は緊張で動揺の滲んだ声で。
「優香さん、こちらこそよろしくお願いいたします。」
と目線を逸らしながら答えた。頬と耳の先に熱を感じる、自分でも感じるのだから傍から見たら赤くなっていたに違いない。それをまた恥ずかしく思っていると。
「新太君が絵を描いているんでしょう。」
優香の言葉に何かが壊れかける思いがしていると。
「こいつはまだ子供だからな」
と親父が言う。葛藤があったのは確かであったが
「そうなんです」
と親父を肯定するように言った。新太が絵を描いていると知っているなら優香という者も相当に変わり者だがそれをあまり問題にはしなかった。親父の事もあって新太の認識が麻痺しているというのもある、だがそれ以上に優香にはこの家にとどまって欲しいと思ったからだ。




