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俗欲  作者: 九条 九重


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4/10

先生

公園を出てからも女の事を考えていた。きっと良い母親になるだろうと思いながら歩いていると曲がり角から犬が顔を出した、後に続いてリードを持った近所の爺さんが前に出てきた。爺さんは平べったい顔に皺を重ね、禿げた頭にライトを巻き付けている、まだ暗いうちから歩き回っていたのだろう。爺さんは気づかず過ぎようとしていたが犬の方が新太に気付いてこちらを向いた、それに導かれる様に爺さんもこちらを向く。新太を見ると顔を和ませて「おはようございます。」と声を掛けてきた。どうやら途中まで一緒に歩く事に決めたらしく、勝手に新太も犬に導かれることになった。爺さんはあの山まで行ってきたんだと指をさす、大体二、三キロは離れた山だ、今時こんな朝早くからじゃあ体力のあり余った中坊でもなかなかに珍しいだろう。尤も家で絵ばかり描いている新太には理解しがたい。その後は朝に運動する事の大切さを元気に語っている、一層溝を感じながら適当に話を合わせて過ごしていると、話題は新太の親父の事に移っていった。

「先生はお元気ですか、近々また絵を出すそうですね。それに初冬には賞に出ると言うのだからさすがだね。先生ならまた良い結果を残すでしょう。この町の誇りですよ。」

この爺さんの言葉に対しては胸の内で大いに反論した、だが実際には「そうですね」と他人事のような返事をした。この先生とか町の誇りと呼ばれているのが親父である、無論あの親父が絵を描く訳がない。前に新太の描いた物を勝手に自分の物として世に出したのだ、それを隠していたが今ではそんな事も辞めて堂々と指図する。気付けば親父の名はブランドと化していた。新太が親父の言う通りに絵を描くのは真実を明るみに出してもその後の生活に窮するだろうと考えている為である。実際、細かいお金の事などは全く考えの及ばないので親父に任せるほかないだろう。だがそれだと親父は自分の立場が下の様に思い、どうせ邪魔立てして来るに違いない。それに生活には親父の存在を除いて何も困る事は無くなった、それどころか親父も最近では気持ちに余裕があるのか、それとも新太の価値を認めたのか、前よりは当たりも幾分ましになった。新太にこの生活を壊す勇気もない。故に大人になったら自立してやるとは思いながら、絵を描いてはそれをおとなしく親父に譲っている。爺さんはそれからも先生の事を話し、事あるごとに新太にもその先生を見習うべきだと言っている。

「それじゃあまたね、先生によろしくね。」

終いにはそう言って別れて行く。それからすぐに家に着いた。瞼は重く、頭痛がする。玄関を開けると親父の靴が脱ぎ捨てられていた。新太の体には緊張感が走り、瞼は釣り上げられ、重苦しく痛みのあった頭は平常よりも早く動き出した。静かに家に上がり、リビングに恐る恐る入ってみると親父の姿は見当たらなかった。そのまま一階を見回したがやはりその姿は無い、恐らくは自室で眠ってしまったのだろう。静かにキッチンから水を持って二階へ上がり、今度は一つ奥の扉を開け勉強机とベッドの置かれた新太の部屋に入ると、すぐにベッドに横になった。頼れる者のいないこの家に寂しさを感じながらまたあの女の言葉を思い出し、すぐに眠ってしまった。

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