理想の母
絵のことを考えているとつい熱中してしまい、取りあえず簡単な構図でも描いてみようとなり、ポケットに入れていたメモ帳を取り出して描こうとしたが肝心のペンを持っていなかったのでベンチの下を覗いた。するといい具合の枝を見つけて手に取り、辺りに人がいない事を確認すると足元の土に描き始めた。画用紙の四角を描き、外周とそれを囲う桜の木、池を挟んで反射する朝日。描き始めてみてやはり良いものだと思っていると、どさりと横に座る者が急に現れ、しまった、そう反射的に思って横を覗いた。見ると泥酔した若い女であった、化粧が濃い様に思えたが、胸元の開けた派手な着こなしの服ですぐに新太に目を背けさせたので今は小汚い白のスニーカーであることだけが判然としている。新太はあの服から夜職の者だろうと断定した。スニーカーの横に自分の描いた絵が今一度見え、それがなんだか凄く滑稽に見え、すぐに足で消そうとしたが女は「ちょっと待って」と酔った舌で新太を止めた。
「絵を描いているの?」
女は新太の膝の近くに顔をもってきて絵を見ながら、見たままだろうという事を聞いてきたので「そうです」と押され気味に答えた。それから女は「絵を描く人は変わった人が多い」というような事を語り出し、新太はまたそうですね、はあと言った様な何も考えていない様な返事を居心地の悪そうに繰り返した。新太はやはり酒など飲まなくて正解だったと勝手に納得していた。
「今度、結婚するんだよね」
突然に絵師の話から結婚の話に切り替わったのには驚いたが、新太の返事は変わりなく平坦なものであったが、女の方をまた違う心持ちで覗いていた。新太の母は新太を出産後すぐに消えたと親父から聞かされた、親父は母を語るたびに母への愚痴を付け加えて、「結婚などするものではない」や「お前には絵の才能があって良かった」などと言う。終いには決まり文句として「お前には期待している」と耳当たりの良い事を言うが、腹の底に鉛の球が落とされる様な気持がする。こんな親父では見放されるのは妥当であると新太は思っている、それ故に親父の愚痴は荒唐無稽なものと聞いていたが最近は違っている。母は子供をこさえてやっと将来について目を向け逃れる機会を得たのだろうが、その機会を与えた子供を置いて逃げるくらいなのだから、親父の愚痴もそう外れたものではないのかもしれない。ただそれでも母への期待はずっとあるから厄介なものだ、他人の母親を見ては自分の母であったらどうだろうかと思い、自分の理想と比べて審査でもする様に見てしまう。新太がいま女を覗くのはその審査の為である。
「子供は欲しいよね」
女がそう言うと、新太の目はしっかりと女の横顔を捉えた。そして新太が何も言わないうちに話を続けた。
「君ももし赤ちゃんが生まれたら嬉しいでしょう?」
新太はその言葉の返答に詰まった。自分に弟か妹でも生まれたらどうだろうか、最初は悪くないと思ったが、やはりあの親父だからどうだろうかと架空の事であるが真剣に考え始めた。女の方は早く返答が欲しいようで、また「嬉しいでしょう」と繰り返してきた。仕方がないのでまた「そうですね」と今度は目を見て答え、また架空の兄弟について、そしてこの女の子供について考えだした。すると突然に女が俯いて「気持ちが悪い」とか言い出した。随分と勝手な人だと思い、こんなにも酔っぱらって絡んでくる女は自分の理想には到底及ばないと結論付けた。新太はこの公園に自販機がある事を思い出し、
「水でも飲みますか?」
新太はもう自分が買いに行くつもりで聞いてみた。すると、
「くれるの?」
女がおもむろに手を出してきたのでつい反射的に自分の持っていたコーヒーを渡した。渡してまたしまったと思った。女は平然と貰ったコーヒーの蓋を開ける、何も言えずにその手付きから目を離せずにいた。その時に気付いたが女の爪は長く鋭い、そして可愛らしい模様が入っている、よくそんな器用にペットボトルの蓋を回せるものだと思いながら、爪どうしが当たってはカチカチと鳴らしながら蓋を開け終えた。いよいよ飲む為に口元に近付けていく、それが何だかゆっくりと感じて新太は一層見入ってしまい、赤い唇に飲み口が付いて酔った女が無遠慮に口へと注ぎ、喉元が脈動する様に新太の心音も大きく響く、かえってその様子があまり記憶に残らないほどであった。女は気が済むまで飲むと蓋をまたカチカチと締め。
「ありがとうね」
とご丁寧に新太に返し、受け取るとおぼつかない足取りで立ち上がって新太の頭に手を置いた。優しく包み込まれるような感じがしてなだめられた。
「君は優しい子だね」
そう言い終えると手をどけた。とっても惜しい気がしてもどかしく、絵の事なんてすっかり忘れて女の後ろ姿を見送った。少しして立ち上がると家の方へ歩き出した、コーヒーを見ると顔が赤くなる、そして「君は優しい子だね」という言葉を思い出してこのコーヒーをどうする事も出来ず、公園のゴミ箱で手放す事にした。またその時に惜しい気がしたのを止められないのが醜く思いながら公園を後にした。




