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俗欲  作者: 九条 九重


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2/10

池のベンチ

結局は歩いて帰る事にし、新太が古く黒ずんだコンクリートブロックが四段積まれて、その上に黒い柵を立てた敷居に囲まれた新太の家に着くと辺りは暗く、三日月の下で街灯に虫が集っていた。玄関を開けると、丁度親父が出掛ける支度を済まして靴を履くところであった。出掛ける支度が出来ているといっても無精ひげに先程起きたのだろう事が想像に難くない髪型である。それにもかかわらず、着ているものが如何にも羽振りの良いものばかりなのでより滑稽に見える、他の者からどう見られようとも気にならないのだろう。新太は親父の靴を履き終わるのをじっとして待っている。例の深淵は腹の前で抱えたスケッチブックに隠し平然としているが、その抱えたスケッチブックには段々とシワが広がっていく。親父は靴を履き終わると、普段通りに玄関を出る様に、さり気なくその大人の体を新太の肩にぶつけて、

「あの絵は今日中に終わらせろ」

語気を強めて言った。新太も目を合わせず頷くと、それを気味悪そうに一瞥して夜に消えていった。

新太は玄関に入り戸を閉めるとそのまま立ち尽くした。

親父の行先なんて大方予想がついている。不浄なる月の宮、年中無休の勃然たる慟哭をわざとらしく愛想に隠し、獣のそれより振るっている。なんだかんだと親父を貶す、頭の中では新太の方が大分上等であり饒舌になる。そうして一通り親父を言い負かすと家に上がった。リビングに入り電気を付けると机の横に一枚のカードが落ちている。今夜は高い酒をありがとう、また来てくださいね、そう女の文字で書かれている。拾い上げるとクシャクシャにしてゴミ箱に入れた、他には惣菜や冷凍食品のゴミが入れてある。そしてキッチンに立った、流しには酒の空き缶が投げ入れてある。それも一応は分別しゴミ箱にそのまま入れて、コップ一杯の水道水を持って二階に上がった。二階に上がると一本の長い廊下があり最奥がトイレ、その他に左手にだけ扉が二つ、どちらも新太が使っている。手前の扉に入るとそこはアトリエの様になっており、半袖同様に様々な色のシミが壁を彩り、あの夕陽に照らされた田舎町が立て掛けて置いてある。その町の前にある薄いパーカーを掛けた椅子を後ろにどかし、前に立って凝視すると、そばにあった水彩の絵の具を溶いて多少の明かりを加え、他にも細かな修正も加えた。一月以上は描き続けているがこの絵は好きになれない、それでも絵と向き合う時間は平穏で他の事を忘れさせた。


描き終えた頃、時計を見て時間を取り戻すと明日になっていた、窓の外はまだ暗いが月は沈んでいるようだった。薄いパーカーを羽織り、空のコップを手に取ると軽い足取りで下の階へ降りて行った。リビングに入ると机の上に置きっぱなしになった酒の缶が嫌に目についた。深夜の興も覚めないままの新太は絵を完成させた達成感もあり興奮気味であった、そのため好奇心のままに缶を手にしてしまった。少し揺らしてみると底には多少の酒が残っている、まずは鼻に近づけて匂いを探った。あまり良いものではない、その時タバコと比べてどうかと思い返して夕刻の失敗をありありと思い出した。それから缶に口を付けないように喉の奥に注ごうとしたが例の深淵が頭をよぎり、すんでのところで躊躇した挙句パーカーの下にある深淵に目をやり玄関先での屈辱までもが怒りとなって再燃した。親父が下等であるとまた断定すると、自分の持っていた好奇心までもが下等な気がして缶を机に戻し、結局キッチンで一杯の水道水だけ飲んでコップを流しに置いた。それから冷蔵庫の中から総菜のパンを一つ出して、封を捨て中身だけ持って玄関に向かいながら一口頬張り、器用に手を煩わせず靴を履き終えると戸を開け、また玄関先で一口食べて散歩に出かけた。夜は明けつつある、歩いていると足元で虫か何かが夜露の中に飛び込んで行った。何処へ行くともなく歩いていると自然に公園の方へと足が向いていた。着いた頃にはパンは跡形もなく、手はポケットにしまわれている。昔に遊んでいた遊具に思いを巡らせながら大きく欠伸して、帰ったら早く寝る事を決意しつつも公園の自販機の方に行きコーヒーを買った。買ってしまった後になって眠る気があるのか無いのか自分でもよくわからなくなり、パンを食べて口が乾燥しているので取りあえずは一口だけとまた決意した。公園の奥に進んで行くと広い池があり、外周の道を葉をつけた桜が囲っている。外周にあるベンチに腰掛け、池を挟んで登り始めた朝日が絵になるかどうか思案して眺めていた。

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