諏訪 新太
半袖の少年はとある坂を上り、他人の家の塀を超えた先で町を見下ろしていた、その傍らにはスケッチブックが置き捨ててある。少年は呆然としており、生まれ育ったこの町も何だか感傷的に映り、道に沿って立つ電柱を数えて地平線の方をみるといつもより夕陽は輝いて見える。そして沈んでゆく夕陽に染まる田舎町の空に向かって煙を吐いて広がっていく。煙は空を低くして、宵の風が吹いてくる。来年には高校生になる少年にはまだタバコは早かった様であり、むせた咳をしてタバコを半分程残したまま火を消し、吸殻を空き缶に入れスケッチブックを抱えて塀を越えた。
初めてタバコというものを吸ってみたがあまり良い物ではないと考えながら帰ろうとすると、もはや馴染みのある男の怒鳴り声が聞こえてきた。
「新太!」
声はこの家の主である爺さんだ、新太と言っているのはこの少年が諏訪 新太と言う名前であるからして、名指しで怒っているのである。新太の方はその爺さんを名前すら知らないので、ばれると面倒な爺さんだという、それくらいの認識でいる。そしてばれてしまったので通常ここは一目散に逃げる所だが、危機感を覚えながらも悠々と歩いていた。すると勿論のこと爺さんに捕まり、爺さんは何かを怒鳴りだした。だが少年の方はまだ頭が回らないので、要領を得ない雑音が脳に響いただけだった。そして最後には平手打ちをして爺さんは帰って行った。脳が揺れて余計に頭が回らない、それどころか気持ち悪くなって吐き気を催してきた。何とか吐くまいとしながら手から離れた缶とスケッチブックを手繰り寄せ、それらを握り締めると立ち上がってよろよろと坂を降り始めた。
坂を降り切った頃には平然に戻っており、頬の痛みだけが残っている。薄暗い蝉の声が透る町から宵の空を見上げ、近くのごみ捨て場に缶をいれるとそのまま帰路に就いた。ここから駅までは十五分と掛からない。先程の平手打ちに何も言わずに帰るのは、何も新太が悪い事をして罪悪感があるからというだけでは無い、慣れているからといった方が正しい。彩り豊かなシミの付いた服に隠れているが、新太の体には幾つかの痣がある。いじめられて出来たとか、よく怪我をする様な落ち着きの無い子供であるとかではない。まず新太にはいじめを受けるほど他人と縁もないうえ、自分を落ち着きのある消極的な性格と見ている。幾つもの痣が都合よく服に隠れる様な怪我はしない。原因は新太の親父にある、いわゆる家庭内暴力というやつであり、それに対しても新太は何も言わない。ただ早く自立したいというのが心の内にある。こうなると母親はどうなっているのかと思うかもしれないが、母親の顔すら新太は知らない、昔に聞いた親父の話では突然帰って来なくなった、それだけでありそれ以上は何も聞かない、ただ共感するばかりである。何故ここまで新太は何も言わず受け入れて過ごしているのかは、それは親父が他の人とは違っているんだと踏んでの事だ。ある程度の精神的な自立をした健常な者ならそれはすぐにわかるのではないだろうか、それが家族であり今まで被害を受けてきたんだから尚更の事だ。何を言っても聞く耳を持たない、機嫌が悪くなるとすぐに暴力に訴える。何に対しても自己中心的で周りに疎い親父であるが、ただ一つ過剰に敏感な所がある、それが欲というものだ。親父の事を少し思い返して服の上から痣を見て、そして過去をなだめようとした時ハッとして一瞬にして血の気が引いていった。そこには新しい小さなシミが出来ていて、他と違い深淵の様に黒いシミを恐る恐る覗いて確認し、触ってみるとやはりただのシミではない、生地が黒く溶解している。タバコの火の粉にやられたのだろう、あのタバコは親父から盗んできた物で、バレたらただでは済まないはず。何しろあの親父だ、なにが起きてもおかしくない、この服はもう処分するのが得策だろうと苦悩していると、いつの間にか駅は目と鼻の先であった。急ぎスケッチブックで深淵を塞ぎ、シミを白く塗りつぶすと今度は染み付いた臭いがより鋭敏に鼻を突く。このまま電車に乗っては誰かにバレてしまう、そんな不安で足を竦ませていると、気付けば走り去る電車をただ目で追っていた。




