霧の中
書き溜めしていたものです
のんびりと続きを書いていこうと思っています。
霧が出ていることに最初は気づかなかった。
ただ、人の声が通り遠いと感じた。
ついさっきまで隣で聞こえていたはずの笑い声が、どこにもない。
足を止めて振り返る。
__いない。
小さく名前を呼んでも、返事は帰ってこない。
周囲を見回す。色とりどりだったはずの景色が、どこか淡く見える。
空気が白く濁っているせいだと、少し遅れて理解した。
霧だ。
ここまで濃いものは、さっきまでなかったはずだ。
ポケットからスマートフォンを取りだす。
画面はつくが、電波は入っていない。地図も読み込まれない。
「……困ったな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
一度、深く息を吸ってから歩き出す。
立ち止まっていても仕方がない。出口を探したほうがいい。
観覧車の方へと向かう。高い場所なら、何か見えるかもしれない。
けれど、しばらく歩いても景色が変わらない。
同じベンチ。
同じ売店。
同じ、誰もいない通路。
足を止める。
「……おかしい」
来た道を振り返る。
どこから来たのか、はっきり思い出せない。
迷った、というよりは__閉じ込められた。
そんな感覚が、胸の奥に静かに広がる。
そのとき、
「動かない方がいいよ」
声がした。
はっとして顔を上げる。
少し離れた場所に、一人の男が立っていた。
年上に見える。
黒に近い、濃紺の髪が片側に流れて、片目を隠している。
妙に、落ち着いた表情だった。
この状況にしては、あまりにも自然過ぎる。
「……どなたですか」
警戒を滲ませながらも、言葉は崩さない。
男はわずかに笑った。
「迷子、でしょ」
問いには答えず、そう言う。
一瞬言葉が詰まる。
確かに、その通りではある。
けれど、どうしてそれをこの人が知っているのか。
一歩、距離を取る。
「失礼ですが、ここがどういう場所か、ご存じなんですか」
男は少し考えるように目を細め、それから軽く肩をすくめた。
「案内人……って、ところかな」
冗談のような言い方だったが、声音は落ち着いていた。
「ここ、普通じゃないから」
その一言で、空気が変わる。
霧の詰めたさが、はっきりと肌に触れる。
僕は無意識に、指先を握る。
「このままだと__」
男はわずかに間を置いて、
「帰れなくなるよ」
静かにそう言った。
しばらく、言葉が続かなかった。
霧の中で、互いの呼吸だけがやけに近く感じられる。
先に口を開いたのは、男の方だった。
「……名前、聞いてもいいかな」
柔らかい調子だった。
僕は、一瞬だけ、迷ってから、答える。
「和泉、です。和泉湊」
「そっか、良い名前だね」
男は小さく頷く。
「俺は、榊原累」
名乗り方が、どこか簡素だった。
それ以上のことは、特に言わない。
僕も、無理に聞こうとはしない。
少しだけ、間が空く。
「……榊原さんは」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「ここに、詳しいんですか」
問い、というよりは、確認に近い言い方だった。
榊原さんは、わずかに目を細める。
「詳しい、というよりは」
少しだけ考えるように間を置いて、
「……慣れてる、かな」
あいまいな答えだった。
けれど、不思議と嘘を言っているようには見えない。
僕は小さく息を吐く。
完全に信用するわけではない。
けれど、少なくとも__この場においては、一人でいるよりはましだと判断する。
「……案内、してもらえますか」
はっきりと、そう言った。
榊原さんは一瞬だけ、驚いたように瞬きしてから、すぐに軽く笑う。
「いいよ」
短く、それだけ答えた。
「こっち」
背を向けて歩き出す。迷いのない足取りだ。
僕は一歩遅れて、その後ろについていく。
霧は相変わらず濃い。
数メートル先ですら、輪郭があいまいになる。
それでも__
しばらく歩いても、さっきのような違和感は訪れなかった。
同じベンチに戻ることも、同じ売店の前に出ることもない。
景色が、きちんと変わっていく。
通路は分岐し、見たことのない遊具が現れ、知らないはずの場所へ、確かに進んでいる。
足を止めずに周囲へ視線を巡らせる。そして、気づく。
(……さっきと、全然違う)
あの時は、どれだけ歩いても同じ場所に戻された。
けれど今は、確実に前に進めている。
理由は、一つしかない。
視線を、前へ歩く背中へ向ける。
榊原さんは何も気にしてないように歩いている。
振り返りもしない、説明もしない。
ただ、当たり前のように道を選び、進んでいく。
「……榊原さん」
呼びかけると、少しだけ肩越しに振り返る。
「なぁに」
「さっき、僕一人の時は」
言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。
「同じところを、ずっと回っていました」
榊原さんは何も言わない。
「でも、今は違います」
視線を外さずに言う。
「……あなたといると、ちゃんと進める」
ほんのわずかに間が空いた。
霧の中で風の音だけが通り過ぎる。
榊原さんはすこしだけ目を細めて、
「そうだね」
それだけを静かに返した。
否定もしない。
説明もしない。
ただ、事実をそのまま受け入れるような言い方だった。
僕は、それ以上は踏み込まなかった。
けれど__
(……やっぱり、おかしい)
確信に近い違和感だけが、胸の奥に残る。
それでも足は止めない。
止めるべきではない、と、本能のようなものが告げていた。
前を行く背中を見失わないように、一定の距離を保ったまま、歩き続ける。
霧の中を。
出口があるかもわからない場所を。
それでも、進めているという事実だけを頼りに。
読んで頂きありがとうございました。
また、遠い未来に続きを書きます。




