第18話「勇者家の日常」
ディセンの町、その裏路地。
安酒の壜を片手に、幽鬼のごとくさまよう男の姿がある。
だらんと垂れた両腕に力はなく、そのおぼつかない足取りは、まるで見えない糸で無理やり引っ張られているかのようだ。
すれ違う者たちは、彼に蔑みの視線を向け、嘲笑する。
きっと相当なロクデナシだ、あの気味の悪い仮面の下では、さぞやひどい面をしているのだろう――と。
「……残飯にたかる蠅のように浅ましい連中が、バカにしやがって……」
男はくぐもった声で呟きながら、その場に倒れ込んだ。
浴びるように安酒を飲み、反吐をぶちまけながら気絶するように眠り、起きるとまた酒を煽る。
ここ最近はずっとそれの繰り返しで、彼にはもう目の前のものが現実なのか、それともあの時の悪夢の延長なのか、まったく判別がついていない。
あの日を境に男は信頼を失い、職を失い、そして何か決定的なものが欠けてしまった。
それもこれも全て、あの子どものせいだ。
「殺してやる……必ず……あのいけ好かないガキを……」
「――良い目をしているね、キミ」
突然に声をかけられ、男――死霊術師ギルゼバは、けだるげに声のした方向へ目をやった。
そこには、この薄汚い裏路地にはまるで似つかわしくない美丈夫が佇んでいる。
すらりと伸びた長身痩躯、地面に引きずるほど長い黒髪、そして腰に提げたる一本の剣。
その美貌には、妖しげな色気すら漂っている。
彼は、その美貌をにたりと歪めて。
「そんなキミに仕事を頼みたい、なあに簡単な話さ、ちょっと生き返らせてほしいヤツがいるんだ――」
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――あれから一か月が経った。
俺のように悠久の時を生きる魔族にとって、一か月というのは瞬きほどの一瞬の時間である……であるはずだった。
しかし、この一か月に関して、それは当てはまらない。
なんせ赤ん坊の成長は、たいへんにめまぐるしいのだ。
「ばあ、だ」
「ほら! やっぱり今アルシーナが俺のことを見てパパと言ったぞ!?」
「ええ? 言ってないわよ、ねえルード」
「言ってませんね」
「言ったって!」
俺がさらりと同意すると、グルカスは俄然ムキになって、アルシーナにその髭面をずいと近づけた。
こんな強面の男が視界の半分も埋め尽くしたとなれば、恐怖から泣き出してもよさそうなものだが……さすが次期勇者、アルシーナは肝が据わっている。
グルカスには見向きもせず、自らの小さな指をしゃぶっている。
――生後三か月だ。
首も据わり、簡単なコミュニケーションならとれるようになった。
とはいえ、こちらの呼びかけに対して笑顔になったり泣き出したりと、その程度のものではあるが――これは目覚ましい進歩である。
……まぁ最終目標が勇者ということを考えると、その道のりのあまりの果てしなさにくらりとしてしまうので、意識的に考えないようにしているが。
「こーら、グルカス? そんなに顔を近づけたら嫌われちゃうわよ?」
「で、でも、アルシーナが俺の名前を……」
「いくらなんでもまだ早すぎるわよ、マルカさんのところの子どもは一歳になってやっと喋り始めたってぐらいなんだから」
「だってそんなこと言ってもアルシーナは賢いし……!」
「はいはい、分かったから仕事の準備をしましょう、もうすぐ時間でしょ?」
「ぐう……」
露骨にしょんぼりとするグルカスと、これを諫めるクロエ。
傍目に見ると、母親に叱られる子どものようである。
俺がこの家に迎え入れられた当初、グルカス夫妻のパワーバランスは幾分かグルカスへ傾いていたはずだが、ここ最近でそれは逆転していた。
アルシーナが成長するにつれ、グルカスが見る見る内に腑抜けになり、反対に臆病者のクロエに度胸がつき始めたのだ。
変化がめまぐるしいのはアルシーナだけに限らない。
それを取り巻く環境も含み、である。
……そして変化があったのは、なにも家族間の話だけではない。
不服そうなグルカスにクロエが上着を羽織らせてやっている、その時――玄関先から、こんこんこん、と綺麗なノックの音が三回。
いつも通り、陽が昇ってきっかり三時間ほどのこの時間。
「あらいけない、そういえばもうそんな時間ね」
クロエが小走りで玄関に向かう。
ああ、今日も今日とて……
「――おはようございます! クロエおばさま!」
「いらっしゃい、さあ入って入って」
玄関先から元気いっぱいのミュゼルと、それを嬉しそうに出迎えるクロエの声が聞こえる。
俺が人知れず溜息を吐いていると、グルカスはにんまりと、父親にあるまじき笑みを作り、言った。
「ルードは俺に似たなぁ」
「……どういう意味ですか」
「俺も若い頃はモテたんだよ、まぁ今もモテるんだが、それ言うとクロエが怒るからな」
「………………どういう意味ですか」
「このすっとこどっこい! 天然タラシ! こんなチビの内から女遊びなんて覚えて、ロクな大人にならねえぞぉ!」
このこの、と脇腹を肘で小突かれる。
これがあまりにもうざったいので、俺はよろけるフリをしてグルカスの左足、親指の付け根をかかとで踏み抜く。
「おっと」
「いっだぁあ!?」
「ごめんなさい父さん、わざとではありません、なので一度謝れば十分ですよね」
「お前……そういうところは母さんに似てるよな……!」
うずくまったグルカスが恨みがましい視線をこちらへ向けてきたが、無視した。
そもそも血が繋がっていないのだから、どちらに似るはずもないだろう。
などとやっていたら、クロエに引き連れられ、今日も今日とて彼女は俺の前に現れた。
言わずと知れた、我らがミュゼル嬢である。
「――ルード! 今日もあそびにきてやったわよ!」
今日も今日とて、今日も今日とてだ。
サマト牧師の一件から、なんとミュゼル嬢はほとんど毎日の勢いで、俺の家に押しかけてくるようになった。
理由は知らないが、こちらとしてはいい迷惑だ。
「……僕なんかのために今日もわざわざご足労ありがとうございますミュゼル嬢」
俺はその場に跪いて、皮肉っぽく言う。
しかし、ミュゼル嬢はまだ七歳である。
そもそも七歳の子どもに対し、この手の皮肉は通じないので……
「ふふん、よきにはからいなさい」
結局、言葉のままの意味にとられて、ミュゼル嬢は気を良くするだけだ。
「やあミュゼルちゃん、ウチのルードがいつも世話になってるね」
「ごきげんよう、グルカスおじさま」
「ははは、ごきげんよう、俺はもう仕事だから行くけど、ゆっくりしてってな」
グルカスのヤツ、外面は良い。
爽やかな笑みでミュゼルに別れを告げると、ふいに俺の耳元に顔を寄せて。
「(……俺は知ってるぞルード、ミュゼルちゃんのお母さんはとんでもなくアレがでかいんだ、小さめのスイカぐらいある、そしてミュゼルちゃんは間違いなく母親に似るだろう、今の内にツバつけとけ)」
「……なんの話ですか」
「(馬鹿かお前は! 男が耳打ちしてる時は、九割がたおっぱいの話に決まって――!)」
右足の親指の付け根も、踏み抜いてやった。
「だぁいっ!?!?」
「ちなみに今のはわざとですが謝りません、行ってらっしゃい父さん」
「く、くそっ、ルード……いってきます……!」
ふらふらと部屋を出ていく色惚けオヤジの背中を冷めた目で見送って、俺は一つ、ふうと溜息を吐いた。
「ルードとグルカスおじさまは、いつもなかがいいのね!」
「そう見えるなら、なによりです」
「? ……まあいいわ! あそびましょうルード!」
ミュゼル嬢の元気いっぱいの提案に、俺はげんなりとして、目線でクロエに助けを求める。
するとクロエは、こちらの視線に気づいて、何を勘違いしたのか――
「あら、じゃあ、私はお邪魔みたいだし、洗濯でもしてくるわ」
と一言、意味深な笑みを残して姿を消してしまった。
余計なお世話、である。
「今日はなにしてあそぼうかしらね、ルード!」
内心沈み切っている俺とは対称的に、ミュゼルは今日も今日とて元気溌剌であった。
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