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第9話 勇者が死ぬ未来を、魔王だけが知っていた。

魔王城に来てからというもの、勇者リュシェルトは数えきれないほどの命の危機に直面してきた。


魔王との死闘。

古代の呪い。

魔王軍四天王による恋愛相談会。

そして、国家予算を二年分も投入した勇者専用宮殿建設計画。


最後の二つについては命の危機というより精神的な危機だったが、少なくともリュシェルトの胃には相応の損害が出ている。


そんな彼が、久しぶりに故郷へ帰ることを決めたのは、ある穏やかな朝のことだった。


「ゼルヴェディウス。俺、ちょっと人間界に戻ってくる」


魔王の手から、紅茶のカップが滑り落ちた。


幸い、床に触れる直前で魔法によって静止したため、六百年の歴史を持つ王家の茶器が犠牲になることはなかった。

ただし、魔王の精神は無事ではなかった。


「…………帰る?」


「おう。三日くらい」


「…………三日」


「前に話しただろ。向こうに残してきた仲間もいるし、村の連中にも顔を見せたいんだよ」


リュシェルトは焼きたてのパンをちぎりながら、向かいに座る恋人を見た。


黒と深紅の豪奢な衣装に身を包んだゼルヴェディウスは、紅い瞳を見開いたまま動かない。

無造作に額へ落ちる黒髪も、耳元で揺れる細い飾り鎖も、いつもどおり完璧に美しかった。


表情以外は。


「……おい。なんで世界が滅びるみたいな顔してんだ」


「三日もお前がいない」


「たった三日だろ」


「六百年生きてきたが、これほど長い三日間は初めてだ」


「まだ始まってねえよ!!」


ゼルヴェディウスは深刻な面持ちで宰相を呼ぼうとした。


「三日間の政務を停止し――」


「するな!!」


「では、お前の帰還を祝う式典の準備を」


「まだ出発もしてねえ!!」


食堂の隅で侍女たちが感動の涙を拭っている。

宰相がいたなら、きっと頭を抱えていただろう。


いつもどおりの魔王城だった。

少なくとも、このときまでは。


*


異変が起きたのは、その日の午後だった。


人間界へ向かうための支度を終えたリュシェルトは、魔王城の中庭で久しぶりに聖剣を抜いた。


白銀の刀身には、淡い青の魔力が流れている。


旅に出る以上、武器の状態を確かめておく必要があった。魔王と恋人になったからといって、道中に魔物が現れなくなるわけではない。


「……よし」


銀白色の短髪を風に揺らし、リュシェルトは剣を構えた。

その瞬間だった。


――キィン。


耳の奥を刺すような音が響いた。


「……っ!?」


聖剣が、突然まばゆい光を放った。


青かった魔力が白へ変わり、刀身に見覚えのない文字が浮かび上がる。

剣を握る右手から冷たい感覚が這い上がり、心臓の奥を見えない指で掴まれたような痛みが走った。


「ぐ……っ!」


膝が折れる。

地面に剣を突き立てて身体を支えたものの、呼吸がうまくできない。


何だ、これは。

聖剣に選ばれてから十年近く、こんなことは一度もなかった。


「リュシェ!!」


聞き慣れた声が響いた。


次の瞬間、黒い影が視界を横切る。

ゼルヴェディウスだった。


魔王はリュシェルトの身体を抱きとめると、聖剣へ手を伸ばした。


「触るな!」


反射的に叫んだリュシェルトの声より早く、ゼルヴェディウスの指が刀身を掴む。


白い光が爆ぜた。


「……っ!」


黒い手袋が焼け、掌から血が流れる。


魔族の頂点に立つ男が、聖剣に触れたのだ。

当然の結果だった。


だが、ゼルヴェディウスは手を離さなかった。


「……黙れ」


低い声が落ちる。


それはリュシェルトへ向けたものではなかった。

聖剣へ。

あるいは、その向こうに存在する何かへ。


「まだ、こいつを連れていくな」


紅い瞳が、凍りつくほど冷たく細められた。


「俺の前で、二度とその名を呼ぶな」


次の瞬間、魔王の掌から黒い魔力が溢れた。

白い光は押し潰されるように消え、聖剣が地面へ落ちる。


静寂が戻った。


リュシェルトは荒い息を整えながら、恋人を見上げた。


「……ゼルヴェディウス」


「怪我は?」


「俺は大丈夫だ。それより、お前の手……」


「この程度、問題ない」


「問題あるだろ! 聖剣を素手で掴む馬鹿がどこにいる!」


いつもなら、ゼルヴェディウスは嬉しそうに笑っただろう。

『俺を心配してくれるのか』などと言い出して、記念日を制定するところだ。


しかし、魔王は笑わなかった。

リュシェルトを抱く腕が、僅かに震えていた。


その震えに気づいたとき、勇者の胸に嫌な予感が生まれた。


「……お前、何か知ってるな?」


ゼルヴェディウスは答えない。


「俺を見ろ」


「…………」


「ゼルヴェディウス」


ようやく向けられた紅い瞳には、リュシェルトが初めて見る感情が宿っていた。


恐怖だった。

世界中から恐れられる魔王が、何かを恐れていた。


*


「勇者の命が、聖剣の代償になっている……?」


その日の夜。

魔王の私室には、重苦しい沈黙が満ちていた。


暖炉の火が静かに揺れ、窓の外では二つの月が雲に隠れている。


リュシェルトは寝台の端に腰掛け、目の前の男を見つめていた。

ゼルヴェディウスはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「聖剣は、ただ魔王を討つために作られた武器ではない」


「……どういう意味だよ」


「古代、人間と魔族の戦争を終わらせるために、ある契約が結ばれた。魔王を滅ぼすほどの力を勇者へ与える代わりに、その命を代償として差し出す契約だ」


リュシェルトは瞬きを忘れた。


「……待て」


「勇者が魔王を討った瞬間、契約は完成する。聖剣は魔王の命を奪い、同時に勇者の命も奪う」


「…………」


「どれほど強い勇者でも、逃れられない。聖剣に選ばれた時点で、命の行き先は決められている」


暖炉の薪が、小さく音を立てて崩れた。

リュシェルトは膝の上で拳を握った。


「……嘘だろ」


「嘘なら、どれほどよかったか」


「だって……そんな話、誰からも聞いてねえぞ」


「知らされていないのだ。人間たちも、おそらく歴代の勇者たちも」


ゼルヴェディウスの声は静かだった。

静かすぎるほどに。


「世界は勇者に魔王を殺せと命じる。だが、その勇者が生きて帰ることまでは、最初から望んでいない」


リュシェルトは顔を伏せた。


勇者になった日を覚えている。

まだ幼かった自分の手に、聖剣が光を宿した。


村人たちは歓声を上げた。

母は泣いていた。

誰もが、自分を世界の希望だと言った。


あの日から、リュシェルトは剣を振り続けた。

人々を守るために。

誰かの明日を奪わせないために。


そして、いつか魔王を倒して故郷へ帰るために。


「……俺は」


声が掠れた。


「……帰れないはずだったのか」


ゼルヴェディウスの表情が歪む。

リュシェルトは笑おうとした。

いつものように、馬鹿みたいな冗談で誤魔化そうとした。


けれど、うまくいかなかった。


「……なんだよ、それ」


誰かを救うために生きてきた。

その果てに待っていたのが、自分の死だったなんて。


「……ふざけんなよ」


震える声が、静かな部屋へ落ちた。


「俺だって、生きたかったに決まってんだろ……!」


その言葉を聞いた瞬間、ゼルヴェディウスが目を閉じた。

まるで、ずっと聞きたかった言葉を、ようやく聞けたかのように。


*


「……いつから知ってた?」


長い沈黙のあと、リュシェルトが尋ねた。

ゼルヴェディウスは答えるまでに、少し時間を要した。


「三年前だ」


「……三年前?」


「ああ」


三年前。

リュシェルトが、処刑されかけていた魔族の兵士を救った日。


ゼルヴェディウスが初めて彼を見た日だった。


「あの日、お前が聖剣を抜いたとき、契約の痕跡が見えた。古い魔術を調べ、ようやくその意味を知った」


「……じゃあ、お前」


「ずっと、方法を探していた」


魔王は静かに続けた。


「聖剣を破壊する方法。契約を解除する方法。勇者の命だけを救う方法。禁書も、古代遺跡も、神殿の記録も、調べられるものはすべて調べた」


リュシェルトは言葉を失った。


三年間。

自分が魔王を倒すために剣を振っていた、その同じ時間。

この男は、自分を生かすために戦っていた。


「……なんで言わなかったんだよ」


「信じてもらえると思ったか?」


「それは……」


「魔王が勇者へ『お前は俺を殺せば死ぬ』と告げる。どう聞いても、命乞いにしかならん」


悔しいことに、そのとおりだった。


三年前の自分なら、間違いなく一蹴していただろう。

だが、それでも。


「……だからって、一人で抱え込むなよ」


リュシェルトは顔を上げた。


「俺の命の話だぞ」


「……ああ」


「俺にだって、知る権利があるだろ」


「……そのとおりだ」


ゼルヴェディウスは否定しなかった。

言い訳もしなかった。

ただ、深く頭を下げた。


「すまなかった、リュシェ」


六百年の魔王が、勇者へ頭を下げていた。


「お前を守りたいという思いで、お前自身の意思を奪っていた。……俺は、また同じ過ちを犯した」


その言葉に、リュシェルトは胸を締めつけられた。


以前、この男は自分を城へ閉じ込めた。


好きだから。

失いたくないから。

そして今も、同じ理由で真実を隠していた。


愛されている。

それは、痛いほどわかる。


けれど。


「……なあ、ゼルヴェディウス」


「なんだ」


「俺、お前のこと好きだよ」


魔王の肩が僅かに揺れた。

リュシェルトは青い瞳を逸らさずに続けた。


「でも、俺はお前に守られるだけの人間じゃねえ」


「…………」


「俺は勇者だ。自分の命くらい、自分で守る。お前の命だって、俺が守る」


ゼルヴェディウスは何も言わなかった。

ただ、目の前の男を見つめていた。


「……だから、次からは一緒に考えろ」


リュシェルトは手を伸ばした。

聖剣に焼かれた魔王の掌へ、自分の手を重ねる。


「俺たち、恋人なんだろ」


その瞬間、ゼルヴェディウスの表情が、泣きそうに歪んだ。


*


「……リュシェ」


低い声が耳元に落ちた。

いつの間にか、ゼルヴェディウスが目の前に膝をついていた。


長い指がリュシェルトの頬へ触れ、まるで壊れ物を扱うように輪郭をなぞる。


「……お前は、残酷だな」


「は?」


「俺がどれほどお前を愛しているか、知っていてそんなことを言う」


「……知らねえよ、そんなの」


「ならば、教えよう」


ゼルヴェディウスはゆっくり顔を近づけた。


「……口づけてもよいか?」


リュシェルトは一瞬だけ迷い、やがて小さく頷いた。


唇が重なる。

いつものように余裕を見せる口づけではなかった。

触れた瞬間、魔王の指が僅かに震えた。


リュシェルトはその震えを感じながら、ゼルヴェディウスの首へ腕を回した。


「……怖かったのか」


唇が離れたあと、そう尋ねる。

ゼルヴェディウスは苦く笑った。


「……ああ」


「お前が?」


「お前を失うことだけは、何よりも恐ろしい」


リュシェルトの胸が熱くなる。


「……馬鹿」


「否定はせん」


「六百年も生きてんだから、もうちょっと格好つけろよ」


「お前の前では、どうにも難しい」


その答えに、リュシェルトは小さく笑った。

そして、自分からもう一度口づけた。


今度は、少しだけ長く。


離れたあと、ゼルヴェディウスが額を寄せてくる。


「……リュシェ」


「ん?」


「お前が俺を殺しに来るなら、何度でも負けてやる」


「…………」


「だが、お前が死ぬ結末だけは認めない」


紅い瞳が、真っ直ぐに青い瞳を見つめた。


「たとえ世界そのものを敵に回しても、俺はお前を生かす」


リュシェルトは息を呑んだ。

そして、魔王の頬を両手で挟んだ。


「……馬鹿魔王」


「……うむ?」


「世界を敵に回すな」


「…………」


「俺は世界を救いたいんだ。お前だけじゃなく、人間も、魔族も、全部」


ゼルヴェディウスが目を見開く。

リュシェルトは笑った。


涙の滲んだ、けれど真っ直ぐな笑顔だった。


「だから、世界ごと救う方法を探すんだよ」


「……リュシェ」


「お前も、俺も、生き残る。誰にも文句は言わせねえ」


その言葉を聞いた魔王は、しばらく動かなかった。

やがて、静かにリュシェルトを抱きしめる。


「……本当に、お前には敵わんな」


「今さら気づいたのか?」


「いや」


ゼルヴェディウスは、銀白色の髪へ唇を寄せた。


「三年前から、ずっと知っている」


*


翌朝、魔王城中央執務室。

宰相は机の上に積まれた書類を見ていた。


《古代契約調査計画》

《聖剣の構造解析》

《人間界神殿記録の収集》

《勇者リュシェルト生存計画》


そのどれもが、これまでのふざけた記念日制定案とは違っていた。


魔王陛下は、本気なのだ。

愛する勇者を生かすために。

そして、勇者とともに世界を救うために。


「……陛下」


宰相は静かに頭を下げた。


「魔王軍の総力を挙げて、協力いたします」


ゼルヴェディウスは頷いた。


「ああ。頼む」


その表情は、久しぶりに見る絶対君主のものだった。


冷静で、威厳があり、何よりも強い。

宰相は胸を熱くした。


この方は、やはり魔界を統べる王なのだ。


そう思った、次の瞬間。


「それと、宰相」


「はい」


「リュシェの生存を祝う記念碑を、今から準備しておけ」


「…………」


「世界一大きなものがよい」


「…………」


「完成した暁には、魔界全土で七日間の祝祭を――」


「まだ救えておりません!!」


宰相の絶叫が響いた。

そこへ、リュシェルトが入室する。


「……朝から何騒いでんだよ」


宰相は震える手で書類を差し出した。


「勇者殿……陛下が、あなた様の生存記念碑を……」


「……は?」


「国家予算五年分を投入して建設すると……」


リュシェルトはゆっくりゼルヴェディウスを見た。


「……お前」


「リュシェ。必ずお前を生かす」


「…………」


「その証を、後世に残したい」


リュシェルトはしばらく黙っていた。

そして、静かに息を吐く。


「……なあ、ゼルヴェディウス」


「なんだ?」


「俺が生きてりゃ、それが一番の証拠だろ」


魔王が目を見開いた。

リュシェルトは少しだけ笑った。


「記念碑なんかいらねえよ。俺が、お前の隣で生きてりゃいい」


沈黙。


宰相が固まった。

ゼルヴェディウスは胸を押さえた。


「……リュシェ」


「なんだよ」


「……今の言葉を、もう一度」


「言わねえ!!」


「頼む。生涯忘れぬよう、もう一度だけ」


「だから言わねえって!!」


魔王はその場に膝をついた。


「……幸福すぎる」


「まだ問題解決してねえんだぞ!?」


なお、その日の魔王軍公式記録には、次のように記された。


《魔王陛下、勇者様の生存を最優先事項に指定》

《古代契約調査、国家事業として正式発足》

《勇者様、陛下とともに生きる意思を表明》

《魔王陛下、感激により午前中の政務不能》

《生存記念碑建設計画、勇者様の命令により白紙撤回》


ただしその書類の末尾には、小さな追記があった。


《なお、陛下は代替案として「勇者様とともに生きる日」制定を検討中》


その日の午後。

魔王城に、勇者の絶叫が響き渡った。


「だから記念日増やすなって言ってんだろおおおお!!」


ゼルヴェディウスは嬉しそうに微笑んだ。


「……だが、リュシェ。お前と生きる日々は、すべて記念日だ」


「…………」


リュシェルトは真っ赤になった。


そして、聖剣を抜いた。


なお、魔王はたいそう幸せそうだった。


――ただし。


その聖剣の奥深くで、誰にも見えない古代文字が、静かに脈打っていた。


《契約対象、覚醒を確認》

《勇者の意思、規定より逸脱》

《是正措置、準備開始》


世界はまだ、勇者を手放すつもりがなかった。


――第10話『勇者、世界より魔王を選んだわけではない。』へ続く。


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