第8話 勇者、恋人になった魔王が思った以上に面倒くさい。
勇者リュシェルトは、魔王ゼルヴェディウスと恋人になったことを後悔していない。
後悔はしていないのだが、ひとつだけ、致命的な計算違いがあった。
恋人になれば、あの男も少しは落ち着くと思っていた。
何しろ、それまでは片想いだった。
自分の気持ちが伝わらないからこそ、毎朝の贈り物も、国家予算を巻き込んだ求愛行動も、常軌を逸した記念日制定も起きていたのだろう。
つまり、両想いになれば解決する。
そう考えていた昨日までの自分を、リュシェルトは全力で殴りたかった。
「リュシェ。今日も美しいな」
「……朝飯食わせろ」
「銀の髪に朝日がよく似合う」
「パンを取らせろ」
「口元に蜂蜜がついているぞ」
「自分で拭け――」
言い終わる前に、ゼルヴェディウスが身を乗り出した。
形のよい唇が、リュシェルトの口元へ軽く触れる。
「……取れた」
「…………」
銀白色の短髪を揺らし、勇者はゆっくり顔を上げた。
「食事中に何してんだああああ!!」
「蜂蜜を取った」
「布巾を使え!!」
「恋人なのだから、口づけくらい許されると思ったのだが」
「許可制にしろ!!」
「では、もう一度よいか?」
「今の話を聞いてたか!?」
ゼルヴェディウスは至極真面目な顔で考え込み、やがて深く頷いた。
「なるほど。食事中は控えよう」
「最初からそうしろ!」
「食後ならよいのだな」
「そういう意味じゃねえ!!」
食堂の隅では、侍女三人が感極まったように手を取り合っていた。
「勇者様が陛下に口づけを許していらっしゃる……!」
「以前なら食器が飛んでおりましたのに……!」
「お二人とも、なんてお幸せそう……!」
「どこをどう見たらそうなるんだよ!!」
なお、その日の朝食は通常より四十分長引いた。
理由は、魔王が食後の口づけの適切な回数について真剣に協議を始めたためだった。
*
問題は食堂だけでは終わらなかった。
午前十時。
魔王城中央執務室。
「……おい」
「なんだ、リュシェ」
「俺の椅子は?」
「ここだ」
ゼルヴェディウスが示したのは、自分の膝だった。
「椅子って言葉の意味を辞書で調べてこい!!」
「恋人の特等席だ」
「俺は立派な成人男性だぞ!?」
「知っている。実に魅力的な男だ」
「褒めて誤魔化すな!」
しかし、ゼルヴェディウスはリュシェルトの腰を抱き寄せると、いとも簡単に膝へ乗せてしまった。
百九十センチを超える長身の魔王にとって、百八十五センチの勇者を抱えることなど造作もないらしい。
問題は、抱えられる側にもそれなりの体格と尊厳があることだった。
「降ろせ!! 俺はぬいぐるみじゃねえ!!」
「では、恋人だな」
「会話が成立しねえ!!」
ゼルヴェディウスは満足そうに微笑み、片腕でリュシェルトの腰を支えたまま、もう片方の手で政務書類をめくり始めた。
黒と深紅を基調とした衣装の胸元で、紅玉が鈍く輝いている。
無造作な黒髪が頬へ落ち、伏せられた紅い瞳には、普段の冷徹な君主の面影が戻っていた。
腹立たしいことに、仕事をしている姿は格好いい。
しかも、こちらの腰へ回された腕が妙に安定していて、座り心地まで悪くない。
それが余計に腹立たしい。
「……なあ、ゼルヴェディウス」
「うむ?」
「お前、仕事中くらい俺を離せよ」
「邪魔か?」
「邪魔っていうか……」
「ならば問題ない。お前を抱いているほうが集中できる」
「俺は集中できねえんだよ!!」
そこへ宰相が入室した。
「陛下、北方軍の兵站報告が――」
扉の前で足が止まる。
玉座に腰掛ける魔王。
その膝に座る勇者。
腰へ回された腕。
そして、何事もない顔で書類を読む国家元首。
「…………」
宰相は静かに扉を閉めた。
三秒後。再び開いた。
「陛下。恐れながら、ここは執務室でございます」
「知っている」
「玉座は国家権力の象徴でございます」
「うむ」
「勇者殿のお席ではございません!!」
「では、勇者専用の玉座を隣に設置するか」
「そういう問題ではございません!!」
リュシェルトは宰相へ手を伸ばした。
「頼む! こいつをどうにかしてくれ!!」
「勇者殿……!」
宰相の目に涙が浮かんだ。
ようやく、理解者が現れた。
しかし、その感動は長く続かなかった。
「リュシェ。そんなに嫌か?」
ゼルヴェディウスが、ほんの少しだけ眉を下げる。
「……っ」
リュシェルトは言葉に詰まった。
この男はずるい。
六百年生きた絶対君主のくせに、時折、捨てられた犬のような顔をする。
「……嫌っていうか、人前が嫌なんだよ」
「では、二人きりならよいのか?」
「…………」
「リュシェ?」
「……たまになら」
魔王の表情が輝いた。
宰相は天を仰いだ。
「勇者殿!! そこで譲歩なさらないでください!!」
*
廊下ですれ違えば抱擁。
庭園で会えば口づけ。
書庫で本を読んでいれば、背後から腰を抱かれる。
さすがに限界を迎えたリュシェルトは、夕方になって魔王を壁際へ追い詰めた。
「お前な! 恋人になったからって何でも許されると思うなよ!」
「思ってはおらん」
「じゃあなんで四六時中くっついてくるんだ!」
ゼルヴェディウスは答えなかった。
代わりに、リュシェルトの銀髪へ視線を落とし、少し困ったように笑った。
「……触れられるのが、嬉しくてな」
「…………」
「以前は、お前がいつか俺を好きになってくれれば、それだけで十分だと思っていた」
魔王は静かに続けた。
「だが、実際にお前が恋人になってくれると、欲が出る。手を繋ぎたい。抱きしめたい。お前が笑うところを、一番近くで見ていたい」
「……だからって、限度があるだろ」
「ああ。わかっている」
その返事が妙に素直で、リュシェルトは拍子抜けした。
「……本当にわかってんのか?」
「お前に嫌われたくはないからな」
ゼルヴェディウスはそう言って、リュシェルトの頬へ伸ばしかけた手を途中で止めた。
「……すまなかった」
その仕草を見た瞬間、リュシェルトの胸が少しだけ痛んだ。
以前なら、勝手に触れてきた男だ。
今は、自分が嫌がれば手を止める。
その変化が嬉しい反面、なぜか寂しくもあった。
「……別に、全部嫌ってわけじゃねえよ」
「……リュシェ?」
「だから! 人前でやるなって言ってんだ!」
魔王の紅い瞳が、ゆっくり細められる。
「……では、二人きりなら?」
「……限度を守ればな」
「口づけも?」
「……場合による」
「抱擁は?」
「……好きにしろ」
ゼルヴェディウスは一瞬、完全に動きを止めた。
「……リュシェ」
「なんだよ」
「俺は今、世界を征服したときより幸福だ」
「まだ征服してねえだろ!!」
*
その夜、魔王城最上階の寝室。
リュシェルトは寝台の端に腰掛け、窓の外を眺めていた。
深い藍色の空に、二つの月が浮かんでいる。
背後では、ゼルヴェディウスが黒衣の上着を脱ぎ、薄い寝間着へ着替えていた。
衣擦れの音に振り返ると、開いた襟元から鎖骨が覗き、長身の身体に沿って柔らかな布が落ちている。
「……何を見ている?」
「見てねえ」
「そうか」
魔王は微笑んだ。
「ならば、こちらへ来い」
「……命令すんな」
そう言いながらも、リュシェルトは立ち上がった。
近づいた途端、腰へ腕が回される。
今度は逃げなかった。
ゼルヴェディウスの胸に手を置くと、黒髪の男が少しだけ驚いた顔をした。
「……リュシェ?」
「……昼間の続き」
「続き?」
「二人きりなら、いいって言っただろ」
ゼルヴェディウスの紅い瞳が、ゆっくりと熱を帯びた。
「……本当に?」
「二回言わせるな」
大きな手が頬へ触れる。
唇が重なった。
最初は軽く、確かめるように。
けれど、リュシェルトが自分から相手の襟を掴むと、ゼルヴェディウスの腕に僅かに力が籠もった。
「……リュシェ」
「……何」
「もう少し、触れてもよいか?」
その問いに、リュシェルトは赤くなった顔を背けた。
「……聞くなよ、いちいち」
「お前の意思を確かめたい」
「…………」
「嫌なら、やめる」
リュシェルトはしばらく黙り込み、やがて魔王の胸元へ額を押しつけた。
「……嫌じゃねえ」
ゼルヴェディウスはゆっくりと抱きしめた。
首筋に触れる温かな息。背中を撫でる掌。耳元に落ちる低い声。
「……愛している、リュシェ」
「……知ってる」
「何度でも言いたい」
「……勝手にしろ」
そのまま、二人はしばらく抱き合っていた。
やがてゼルヴェディウスが、ぽつりと呟いた。
「……いつか、お前が帰る日が来るのだろうな」
リュシェルトの身体が僅かに強張った。
「……は?」
「人間界へ」
その声は、驚くほど静かだった。
「お前には守るべき人々がいる。俺も、それを奪うつもりはない」
「……だったら」
「わかっている。お前は勇者だ。俺の恋人である前に、一人の人間だ」
ゼルヴェディウスは微笑んだ。
けれど、その紅い瞳には、隠しきれない寂しさがあった。
「……だから、今だけは」
魔王の腕が、少しだけ強くなる。
「今だけは、俺のそばにいてくれ」
リュシェルトは何も言えなかった。
この男は、ずっと怖かったのだ。
自分がいつか人間界へ帰り、二度と戻らなくなることが。
だから、触れたがる。
抱きしめたがる。
まるで、今ここにいることを確かめるように。
「……馬鹿」
リュシェルトは小さく呟いた。
そして、今度は自分からゼルヴェディウスの背へ腕を回した。
「……俺が選んだんだ」
「……リュシェ?」
「お前の恋人になるって、俺が決めたんだよ」
魔王が息を止める。
リュシェルトは顔を上げ、まっすぐに紅い瞳を見つめた。
「勝手にいなくなると思うな」
「…………」
「人間界には帰る。守るべき奴らもいる。でも、それとお前のそばにいることは、別だろ」
「……リュシェ」
「俺は、帰ってくる」
その言葉を聞いた瞬間、ゼルヴェディウスの表情が崩れた。
六百年の威厳も、絶対君主の余裕も、すべて消えた。
ただ、愛する男に救われた一人の男の顔だった。
「……ありがとう」
低い声が、僅かに震えていた。
リュシェルトは照れ隠しに、その胸を軽く叩く。
「……大袈裟なんだよ、お前は」
「お前の言葉は、俺にとって何より重い」
「……ばか」
「愛している」
「……知ってる」
「一生、離したくない」
「……離すなよ」
その返事に、ゼルヴェディウスは息を呑んだ。
そして、リュシェルトを抱きしめた。
今度は、失うことを恐れるためではなく。
ここにいてくれることを、ただ喜ぶように。
*
翌朝。魔王軍宰相は、執務室に入った瞬間、机の上に置かれた一枚の書類を発見した。
《勇者リュシェルト専用宮殿建設計画》
総工費、国家予算の二年分。
敷地面積、王都の三分の一。
付属施設、庭園、温室、図書館、訓練場、専用浴場、菓子工房。
そして、備考欄にはこう書かれていた。
《勇者がいつでも帰ってこられる場所として》
「…………」
宰相は静かに目を閉じた。
陛下は確かに成長した。
恋人の意思を尊重し、相手の自由を認め、不安を打ち明けることまでできるようになった。
素晴らしい進歩だ。
ただし国家予算の使い方だけは、まったく成長していなかった。
「陛下あああああ!!」
絶叫が響く。
ゼルヴェディウスは涼しい顔で書類をめくった。
「なんだ、朝から騒々しい」
「この宮殿建設計画は何でございますか!!」
「リュシェのための家だ」
「すでに魔王城がございます!!」
「だが、帰る場所は多いほうがよいだろう」
「国家予算二年分で増やすものではございません!!」
そこへ、寝起きのリュシェルトが現れた。
銀白色の髪は少し乱れ、青い瞳にはまだ眠気が残っている。
「……朝から何騒いでんだよ」
宰相は救いを求めるように振り返った。
「勇者殿!! 陛下があなた様のために宮殿を建設すると――」
「……は?」
「しかも国家予算二年分を投入して!!」
リュシェルトはゆっくりゼルヴェディウスを見た。
「……お前」
「リュシェ。喜んでくれるか?」
「…………」
「いつでも帰ってこられる場所を、用意したくてな」
その言葉に、リュシェルトの胸が少しだけ温かくなった。
……なったのだが。
「……気持ちは嬉しい」
「そうか!」
「でもな」
「うむ?」
「帰ってくる場所なんか、一つでいいんだよ!!」
ゼルヴェディウスが目を瞬かせる。
リュシェルトは顔を赤くしながら、乱暴に言い放った。
「俺が帰ってくるのは、お前のところだろ!!」
沈黙。
宰相が固まった。
侍女が廊下で崩れ落ちた。
ゼルヴェディウスは、ゆっくりと胸を押さえた。
「……リュシェ」
「なんだよ」
「……もう一度」
「言わねえ!!」
「頼む。今の言葉を、もう一度だけ」
「仕事しろ!!」
魔王はその場に膝をついた。
「……幸福すぎる」
「お前は六百年も生きてきて感情の制御を覚えなかったのか!?」
なお、その日の魔王軍公式記録には、次のように記された。
《魔王陛下、勇者様専用宮殿建設を提案》
《宰相、全力で阻止》
《勇者様、陛下のもとへ帰る意思を表明》
《魔王陛下、感激により午前中の政務不能》
《宮殿建設計画、勇者様の命令により白紙撤回》
ただし、書類の末尾には小さな追記があった。
《なお、陛下は代替案として勇者様専用の寝室増築を検討中》
その日の午後。
魔王城に、勇者の絶叫が響き渡った。
「だから今の寝室でいいって言ってんだろおおおお!!」
ゼルヴェディウスは嬉しそうに微笑んだ。
「……つまり、これからも俺と同じ寝室でよいのだな?」
「…………」
リュシェルトは真っ赤になった。
そして、聖剣を抜いた。
なお、魔王はたいそう幸せそうだった。
――第9話『勇者が死ぬ未来を、魔王だけが知っていた。』へ続く。




