第7話 魔王と勇者、ついに恋人になる。
勇者リュシェルトは、人生で初めて、魔王との接吻を後悔していた。
正確には、接吻そのものを後悔しているわけではない。
問題は、その翌日からだった。
「リュシェ。昨夜は実に幸福だった」
「朝食中に言うな」
「お前のほうから唇を重ねてくれるとは」
「食堂で言うな!!」
「しかも、他の者を見るなと――」
「全国放送でもする気か、お前は!!」
銀髪を振り乱して怒鳴る勇者に、魔王ゼルヴェディウスは心底幸せそうな笑みを向けた。
六百年もの歳月を生き、幾万もの魔族を従える絶対君主が、たった一度の接吻でこの有様。
ちなみに宰相は、すでに朝食を諦めていた。
「陛下。昨日から婚姻制度改正案が十三通届いております」
「うむ。迅速で結構」
「すべて陛下のご命令によるものでございます」
「当然だ」
「勇者殿の了承は?」
「…………」
魔王が黙った。
リュシェルトは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ほら見ろ。俺はまだ何も――」
「では、今ここで求婚を」
「するな!!」
宰相は静かに胃薬を飲んだ。
もはや、この城に平穏という概念は存在しない。
*
その日の午後、リュシェルトは城壁の上にいた。
魔界の空は薄紫に霞み、遠くには黒い森と、人間界へ続く山脈が見える。
あの向こうには、自分が守ると誓った人々がいる。
故郷の村。旅の途中で助けた子供たち。魔王討伐の成功を信じて待つ仲間たち。
自分は勇者だ。
その事実は、誰かを好きになった程度で消えてくれるものではなかった。
「……何やってんだろうな、俺」
冷たい風に銀髪を揺らしながら呟いたとき、背後で足音がした。
「リュシェ」
振り返れば、黒髪を風になびかせたゼルヴェディウスが立っていた。
いつもなら当然のように抱き寄せてくる男が、今日は少し離れた場所で足を止める。
「……どうした」
「お前が、遠くを見ていたからな」
その紅い瞳は、リュシェルトの視線の先にある山脈を見つめていた。
「人間界が恋しいか」
「……ああ」
嘘はつけなかった。
ゼルヴェディウスの表情が、わずかに翳る。
「俺は、お前が好きだ」
リュシェルトは拳を握った。
昨日までなら、絶対に口にできなかった言葉だった。
「……でも、好きになったからって世界を裏切れるわけじゃねえ。俺を信じて待ってる奴らがいる。お前の隣にいたいからって、そいつらを見捨てる勇者にはなれない」
ゼルヴェディウスは何も言わなかった。
ただ、静かに耳を傾けていた。
「お前といると楽しい。腹は立つし、毎日うるせえし、国家予算の使い方は絶望的だけど……それでも、一緒にいたいって思う」
「……リュシェ」
「でも、俺は勇者なんだよ」
その声は、最後だけ少し震えた。
ゼルヴェディウスはゆっくりと目を伏せた。
三年前から、この男を手に入れることばかり考えていた。
傷つけたくない。失いたくない。誰にも奪われたくない。
そう願うあまり、自分が何を奪っていたのか、考えようともしなかった。
勇者の自由を。
誇りを。
そして、自分自身で未来を選ぶ権利を。
「……すまなかった」
「……は?」
「俺は、お前を愛していると言いながら、お前の生き方を閉じ込めていた」
ゼルヴェディウスはリュシェルトの前に膝をついた。
魔界の絶対君主が、勇者に頭を垂れる。
「もう、お前を縛らぬ」
「……ゼルヴェディウス?」
「帰れ、リュシェ。お前の望む場所へ」
その言葉は、驚くほど穏やかだった。
*
翌朝、魔王城の正門が三年ぶりに完全開放された。
正確には三年ぶりではないが、宰相の心労を考慮すると、そのくらい大事件だった。
「……本当に、よろしいので?」
「うむ」
ゼルヴェディウスは門の前に立ち、リュシェルトを見送っていた。
「護衛は?」
「不要だ」
「馬車は?」
「本人が断った」
「では、せめて餞別として魔界の国宝を――」
「お前まで何を言い出すんだ!!」
宰相の提案をリュシェルトが怒鳴りつける。
いつもの光景だった。
けれど、ゼルヴェディウスは笑わなかった。
「……リュシェ」
「なんだよ」
「達者でな」
たったそれだけだった。
引き留める言葉も、結婚の約束もない。
リュシェルトは胸の奥が痛むのを感じながら、城門の外へ歩き出した。
十歩。二十歩。三十歩。
振り返っても、魔王はそこにいた。
追いかけてこない。
呼び止めもしない。
ただ、ひどく寂しそうな顔で笑っている。
「…………」
リュシェルトは立ち止まった。
ああ、くそ。
本当に、腹が立つ。
六百年も生きているくせに。
世界を滅ぼせるほど強いくせに。
どうして、そんな顔をするんだよ。
「……ゼルヴェディウス!!」
振り返った勇者が叫んだ。
魔王が顔を上げる。
「俺、帰るからな!!」
「……ああ」
「人間界にも帰るし、困ってる奴がいたら助ける!!」
「……ああ」
「お前が悪いことしたら、容赦なくぶん殴る!!」
「……承知した」
「でも!!」
リュシェルトは駆け出した。
白い外套を翻し、石畳を蹴って、まっすぐ魔王のもとへ戻る。
そして、その胸に飛び込んだ。
「……帰ってくる場所くらい、俺が決める!!」
ゼルヴェディウスの腕が、反射的にその身体を受け止めた。
「……リュシェ?」
「俺は勇者だ。お前の所有物じゃねえ」
「……ああ」
「でも、お前の恋人には……なってやる」
沈黙。
風が吹いた。
宰相が書類を落とした。
ゼルヴェディウスは、ゆっくりと目を見開いた。
「…………恋人?」
「二回言わせんな!!」
「俺の?」
「そうだよ!!」
「……本当に?」
「しつけえ!!」
次の瞬間、魔王はリュシェルトを抱き上げた。
「リュシェ!!」
「うわっ!? おい、降ろせ!!」
「愛している!!」
「知ってる!!」
「六百年生きてきて、今日ほど幸福な日はない!!」
「昨日も同じこと言ってただろ!!」
城門前に響く絶叫を聞きながら、宰相は静かに思った。
ああ、終わった。
ついに終わってしまった。
魔王陛下の片想いが。
そして、自分の平穏な老後が。
*
その夜、魔王城最上階の寝室には柔らかな月光が差し込んでいた。
初めて連れてこられた日と同じ、巨大な天蓋付きの寝台。
けれど、今夜は違う。
リュシェルトは、自分の足でここへ来た。
「……リュシェ」
ゼルヴェディウスが、そっと頬に触れる。
「本当に、よいのか」
「……何回確認する気だよ」
「お前が望まぬことは、したくない」
その言葉に、リュシェルトは小さく笑った。
以前なら、こんな慎重な魔王など想像もできなかった。
「……俺が選んだんだ」
リュシェルトは黒衣の襟を掴み、ゼルヴェディウスを引き寄せた。
「だから、ちゃんと恋人らしくしろよ」
重なった唇は、これまでのどの口づけよりも長かった。
ゼルヴェディウスの指が銀髪を梳き、首筋をそっと撫でる。
リュシェルトはくすぐったさに肩を竦めたものの、逃げる代わりに相手の背へ腕を回した。
「……くすぐったい」
「嫌か?」
「……嫌じゃねえ」
その返事に、魔王の紅い瞳が熱を帯びた。
額に、頬に、そしてもう一度唇に、確かめるような口づけが落ちる。
普段はあれほど口が達者なくせに、こういうときだけ不器用になるのが悔しかった。
「……あんまり見るな」
「美しいからな」
「そういうこと平気で言うな……」
「事実だ」
リュシェルトは耳まで赤くなりながら、魔王の肩に顔を埋めた。
その夜、二人は初めて、敵でも捕虜でもなく、互いに選び合った恋人として同じ寝台に入った。
月が傾く頃、ゼルヴェディウスは腕の中で眠る銀髪の青年を見つめ、誰にも聞こえない声で囁いた。
「……ありがとう、リュシェ」
その寝顔に、もう一度だけ口づけた。
*
翌朝、勇者リュシェルトは、布団から出てこなかった。
「……リュシェ?」
「呼ぶな」
「朝食の時間だぞ」
「いらねえ」
「具合が悪いのか?」
「お前のせいだよ!!」
天蓋付き寝台の中央で、白い布団の塊が震えている。
ゼルヴェディウスはしばらく考え込み、やがて深く頷いた。
「……なるほど。照れているのか」
「言うなあああ!!」
魔王は満足そうに微笑み、執務室へ向かった。
そして、宰相に告げた。
「祝日を三日増やす」
「……はい?」
「勇者と恋人になった記念日だ」
「昨日も記念日を制定したばかりでございます!!」
「では四日」
「増やすな!!」
「リュシェが可愛い」
「理由になっておりません!!」
その日の魔王軍公式記録には、次のように記された。
《魔王陛下、勇者様と正式に交際開始》
《勇者様、昨夜より魔王陛下の寝室に滞在》
《魔王陛下、国家祝日増設を提案》
《宰相、全力で阻止》
なお、最後の一行には、リュシェルト本人による追記があった。
《俺の私生活を国家記録に残すな!!》
魔王はその筆跡を見て、幸せそうに微笑んだ。
「……リュシェの直筆か。額装しよう」
「やめろおおおお!!」
魔王城に、今日も勇者の絶叫が響き渡る。
世界最強の勇者は、魔王を倒せなかった。
だが、どうやら魔王の心だけは、完全に征服してしまったらしい。
――第8話『勇者、恋人になった魔王が思った以上に面倒くさい。』へ続く。




