第6話 勇者、嫉妬している自分を認めたくない。
勇者リュシェルトは、人生で初めて、魔王の顔面を殴りたいと思った。
いや、正確には初めてではない。魔王城へ乗り込んだ日から数えれば、おそらく百回は超えている。
ただし今回の理由は少々厄介だった。
「ゼルヴェディウス様。どうか、わたくしをお妃にお迎えくださいませ」
魔王城の謁見の間。
深紅の絨毯に膝をついたのは、魔界でも指折りの名門貴族、ローゼンフェルト公爵家の令嬢だった。
艶やかな金髪に、宝石を散りばめた夜会服。整った顔立ちには気品があり、魔族の貴婦人らしい妖艶さも兼ね備えている。
率直に言って、美人。
しかも家柄がよく、礼儀正しく、魔王への忠誠心も厚い。
つまり、結婚相手として申し分ない。
「…………」
玉座の脇に立つリュシェルトは、無言で腕を組んだ。
よかったじゃないか。
これでようやく解放される。
毎朝の口説き文句も、食事中の過剰な世話も、廊下ですれ違うたびに飛んでくる「今日も美しいな」という意味不明な賛辞も、全部この令嬢に引き受けてもらえばいい。
実にめでたい。
めでたい、はずだった。
「陛下ほど高貴なお方にふさわしい伴侶は、わたくし以外におりませんわ」
令嬢が微笑む。
ゼルヴェディウスも、玉座から穏やかに彼女を見下ろした。
「……そうか」
その一言を聞いた瞬間、リュシェルトの胸の奥で、何かが妙な音を立てた。
……そうか?
そうか、って何だ。
否定しろよ。
いや、別に否定する必要はない。
そもそも自分には関係ない。
「…………ちっ」
「勇者殿?」
隣に控えていた宰相が、恐る恐る顔を向けた。
「今、舌打ちを……?」
「してない」
「しかし、確かに……」
「床が鳴ったんだろ」
「この床、黒曜石でございますが」
「じゃあ黒曜石が舌打ちしたんだよ!!」
宰相は口を閉じた。
魔王の恋愛問題に巻き込まれた結果、ついに勇者までおかしくなり始めたらしい。
退職届を書くべきだろうか。
*
その日の昼食は最悪だった。
料理が、ではない。
料理は相変わらず最高級だった。香草を添えた白身魚の蒸し焼きに、魔界産の茸を使った濃厚なスープ。焼きたてのパンまで用意されていた。
問題は、向かいに座る男だった。
「リュシェ。今日は食が進まぬな」
「別に」
「何か気に障ることでもあったか?」
「ない」
「では、なぜ俺を睨む?」
「顔が気に入らない」
ゼルヴェディウスは目を瞬かせた。
その端正な顔には、黒曜石を思わせる髪が柔らかく掛かっている。
耳元の紅い宝石が揺れるたび、妙に色気のある陰影が頬に落ちた。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
「……顔か」
魔王は少し考え込んだ。
「お前に好かれたいと思っていたが、顔が好みでないのなら仕方あるまい」
「…………」
「しかし、以前は見惚れていたような――」
「見惚れてねえ!!」
「そうか。俺の勘違いだったか」
妙に素直に引き下がられると、それはそれで腹が立つ。
リュシェルトはパンを引き千切った。
「……あの女」
「うむ?」
「結婚したいんだってな」
「ああ」
「美人だったな」
「そうだな」
ぶちっ。
パンが真っ二つになった。
「……そうだな?」
「容姿の整った者だとは思う」
「へえ」
「リュシェ?」
「別に。お似合いなんじゃねえの」
その言葉に、ゼルヴェディウスの紅い瞳が細められた。
「……なるほど」
「何がだよ」
「お前、もしや――」
「違う!!」
「まだ何も言っておらん」
「顔に書いてある!!」
ゼルヴェディウスは口元を押さえた。
笑っている。
間違いなく笑っている。
六百年の威厳も、魔界の絶対君主としての風格も、今この瞬間は一切ない。
ただ好きな相手の反応が嬉しくて仕方ない男の顔だった。
「……リュシェ」
「呼ぶな」
「嫉妬しているのか?」
「してねええええ!!」
その日、魔王城の食堂では、勇者によって三本の銀食器が犠牲となった。
*
夕刻。リュシェルトは一人、城の回廊を歩いていた。
窓の向こうには紫紺の空が広がり、遠くの尖塔に夕陽の名残が滲んでいる。
冷たい石壁に手を触れながら、彼は深く息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。
ゼルヴェディウスが誰と結婚しようと、自分には関係ない。
そもそも自分は、あの男を倒すためにここへ来たのだ。
なのに。
――お前が本当に嫌なら、触れない。
昨夜の声が、耳の奥に蘇る。
あの男は、自分の意思を尊重すると言った。
それが嬉しかった。
自分から手を握ったとき、あんなにも幸せそうな顔をされたことも。
……嬉しかった。
だからこそ、今日の光景が胸に刺さった。
自分だけに向けられていると思っていた眼差しが、いつか別の誰かへ向けられる。
その可能性が、どうしようもなく嫌だった。
「……何やってんだ、俺」
額を押さえた、そのとき。
「リュシェ」
背後から声がした。
振り返るより早く、長身の影が隣へ並ぶ。
ゼルヴェディウスだった。
「探したぞ」
「……何の用だよ」
「お前が怒っている理由を、聞きたくてな」
「怒ってねえ」
「では、傷ついている理由を」
リュシェルトの足が止まった。
魔王はいつものように笑っていなかった。
「……昼間は、すまなかった」
「は?」
「お前の反応が嬉しくて、少しからかった」
ゼルヴェディウスは静かに続ける。
「だが、お前が本気で傷つくとは思わなかった。俺が愚かだった」
「…………」
「令嬢の求婚は断った。最初から受けるつもりなどない」
リュシェルトは顔を上げた。
「……なんで」
「俺が望む相手は、一人だけだ」
紅い瞳が、まっすぐに青を捉える。
「三年前から、変わっておらん」
その声には、いつもの大袈裟な甘さがなかった。
ただ、揺るぎない想いだけがあった。
「……お前、ほんと馬鹿だな」
「よく言われる」
「俺がどんな気持ちで……」
そこまで言って、リュシェルトは口を閉じた。
違う。
こんなことを言うつもりじゃなかった。
魔王の結婚相手など、どうでもいい。
どうでもいいはずなのに。
「……リュシェ?」
「黙れ」
リュシェルトはゼルヴェディウスの黒衣を掴んだ。
胸元に輝く紅玉の装飾が、小さく音を立てる。
魔王が驚いたように目を見開いた。
「……リュシェ」
「目、閉じろ」
「……何?」
「いいから!!」
ゼルヴェディウスが従った瞬間、リュシェルトは背伸びをして、その唇に自分の唇を重ねた。
ほんの一瞬。
触れて、離れるだけの口づけ。
けれど、離れようとした途端、ゼルヴェディウスの指がわずかに動いた。
抱き寄せたいのだろう。
それでも、彼は触れなかった。
昨夜の約束を守っている。
そのことに気づいたリュシェルトは、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「……抱きしめるくらい、いい」
かすれた声で告げると、魔王の腕がゆっくりと腰へ回された。
広い胸に引き寄せられ、黒衣に焚き染められた甘く落ち着いた香りが鼻先を掠める。
「……本当に、よいのか?」
「二回言わせるな」
「……では、口づけも?」
「……一回だけ」
ゼルヴェディウスは微笑んだ。
その笑みは、戦場で幾千もの敵を震え上がらせてきた魔王のものとは思えないほど、優しかった。
重なった唇は、先ほどより少し長かった。
頬を包む大きな手。耳元を掠める黒髪。触れ合う呼吸の近さに、リュシェルトの心臓が落ち着きを失っていく。
ようやく唇が離れたとき、ゼルヴェディウスは額を寄せて囁いた。
「……愛している、リュシェ」
「……知ってる」
「お前だけだ」
「…………」
「俺が欲しいのは、最初からお前だけだ」
リュシェルトは真っ赤な顔で、魔王の胸元に額を押しつけた。
そして、ほとんど聞き取れない声で告げた。
「……他の奴を見るな」
ゼルヴェディウスの呼吸が止まった。
「…………」
「……聞いてんのか」
「……リュシェ」
「なんだよ」
「もう一度――」
「言わねえ!!」
魔王は幸せそうに笑った。
その腕に、少しだけ力がこもる。
「承知した。俺の目には、お前しか映らん」
「……大袈裟なんだよ」
「事実だ」
「……馬鹿魔王」
そう悪態をつきながらも、リュシェルトはその腕から離れなかった。
*
翌朝。
魔王軍宰相は、執務室に入った瞬間、嫌な予感を覚えた。
ゼルヴェディウスが、異様に機嫌よく書類を処理していた。
「……陛下?」
「宰相。昨日の外交案件は片づいたか」
「は、はい。しかし、なぜ急にこれほど勤勉に……」
「リュシェが、俺に嫉妬した」
「…………」
「自分から口づけてきた」
「…………」
「他の者を見るな、と」
宰相は静かに目を閉じた。
終わった。
今度こそ終わった。
「……陛下。まさか、また記念碑など――」
「建てぬ」
「……本当でございますか!?」
「リュシェに怒られるからな」
宰相は感動した。
魔王が成長している。
六百年かけて、ようやく人の話を聞くようになった。
「代わりに、魔界全土の婚姻制度を見直す」
「……はい?」
「勇者と魔王が結婚できるよう、法整備が必要だろう」
「まだ結婚の了承を得ておりません!!」
「では、まず婚約制度から――」
「順番の問題ではございません!!」
そこへ、ちょうど通りかかったリュシェルトが顔を出した。
「……何騒いでんだ?」
ゼルヴェディウスは嬉しそうに立ち上がった。
「リュシェ。昨日はよい夜だったな」
「ぶっ!!」
「お前から口づけてくれるとは――」
「言うなああああ!!」
魔王城に、勇者の絶叫が響き渡る。
なお、その日の魔王軍公式記録には、次のように記された。
《魔王陛下、勇者様との関係にさらなる進展》
《勇者様、自発的接吻を実施》
《魔王陛下、婚姻法改正を検討》
《宰相、胃薬の年間購入量を三倍に増額申請》
そして最後に、誰が書いたとも知れない一文が添えられていた。
《勇者様はまだお気づきでないようだが、もはや魔王陛下より勇者様のほうが重症ではないか》
その記録を偶然見つけたリュシェルトは、無言で聖剣を抜いた。
ゼルヴェディウスはただ嬉しそうだった。
――第7話『魔王と勇者、ついに恋人になる。』へ続く。




