第5話 魔王の求婚を断ったら、国家会議が始まった。
魔王ゼルヴェディウスは、六百年の生涯において一度も敗北を認めたことがない。
戦場では敵軍を蹂躙し、外交では諸侯を黙らせ、反乱軍に至っては玉座から立ち上がることすらなく鎮圧した。
魔界において、その決定は絶対であり、異議を唱える者など存在しない。
ただし、勇者リュシェルトを除いて。
「断る」
魔王城最上階、陽光の差し込む私室。
白銀の髪を揺らしたリュシェルトは、目の前に差し出された指輪を一瞥すると、実に清々しい声でそう言い放った。
「……まだ何も言っておらんが」
「言わなくてもわかるわ!!」
ゼルヴェディウスの手には、深紅の宝石を戴いた指輪があった。
黒銀の台座には精緻な薔薇の彫刻が施され、魔王の瞳と同じ色の宝石が、窓から差し込む光を受けて妖しく輝いている。
ちなみに、その宝石は魔界の国宝だった。
「リュシェルト。俺と結婚してくれ」
「断るっつってんだろ!!」
「即答か」
「むしろ何を期待してたんだよ! 俺は勇者で、お前は魔王! しかも俺は捕虜だぞ!?」
「だが、口づけはした」
「ぐっ……!」
「同じ寝台で眠った」
「呪いのせいだ!!」
「昨夜は、嫌でなければ抱きしめてもよいと――」
「その話を持ち出すなあああ!!」
リュシェルトの耳が鮮やかな赤に染まる。
それを見たゼルヴェディウスは、思わず指輪を握り締めた。
可愛い。
あまりにも可愛い。
このまま世界中の宝石を集めて足元に捧げたい。
しかし、魔王にもわずかな理性は残っていた。
「……何が不満なのだ?」
「全部だよ!!」
「全部……」
六百年を生きた絶対君主の表情が、初めて本気で曇った。
そして、その三十分後に魔王軍全軍に向けて国家非常招集令が発令された。
*
「本日の緊急会議の議題を発表する」
魔王城中央会議室。
黒曜石の長卓を囲むのは、魔界の軍事・内政を担う最高幹部たち。四天王、各軍団長、財務官、外交官、そして胃薬を握り締めた宰相という面々。
玉座に腰掛けたゼルヴェディウスは、普段と変わらぬ威厳に満ちた声で告げた。
「勇者リュシェルトに好かれる魔王になるための具体的施策について」
沈黙。
宰相の胃薬が、床へ落ちた。
「……陛下」
「なんだ」
「国家非常招集令は、魔界存亡の危機にのみ発令されるものです」
「存亡の危機だ」
「どこがですか!?」
「俺の求婚が断られた」
「陛下個人の恋愛問題でございます!!」
「俺の幸福は魔界の安寧に直結する」
「暴君の理論を恋愛に持ち込まないでください!!」
しかし、四天王たちは違った。
彼らは真剣だった。
あまりにも真剣だった。
「陛下!」
最初に立ち上がったのは、炎の四天王グランディス。筋骨隆々の巨漢で、敵国の要塞を素手で破壊したという逸話を持つ男。
「男は力でございます! 勇者殿の前で山を一つ砕いてご覧に入れれば、必ずや惚れ直されましょう!」
「すでに俺は勇者を倒している」
「では二つ砕きましょう!」
「山を恋愛の消耗品にするな!!」
会議室の扉を蹴破り、なぜか同席させられていたリュシェルトが怒鳴った。
続いて、氷の四天王セレスティアが優雅に扇を開く。
「殿方は押してばかりではいけませんわ。時には引くことも肝要です」
「ほう」
「三日ほど勇者様を無視なさいませ。きっと寂しくなって、向こうからお声を掛けてくださいます」
ゼルヴェディウスの顔色が変わった。
「三日……?」
「はい」
「三日もリュシェの声を聞かずに……?」
「ええ」
「……俺が死ぬ」
「陛下あああ!!」
宰相の悲鳴が響いた。
三人目、闇の四天王ノクスは静かに告げた。
「贈り物はいかがでしょう。勇者殿のお好きなものを」
「すでに衣装、宝石、庭園、菓子、寝具を贈った」
「では、国を」
「おい待て」
「人間界の領土を一つ、婚約祝いとして――」
「戦争を恋愛イベントにするなあああ!!」
最後の四天王、風の精霊王シルフィードは、腕を組んで深く頷いた。
「やはり、色気でしょう」
「……ほう?」
「陛下ほどの美貌をお持ちなら、少々襟元を緩め、耳元で愛を囁けば――」
「却下!!」
リュシェルトは即答した。
しかし、ゼルヴェディウスは妙に納得した様子で、自らの黒衣の襟元へ指を掛ける。
「こうか?」
深く開いた襟から、鍛えられた胸元と鎖骨が覗いた。黒髪がさらりと頬に落ち、紅い瞳がまっすぐリュシェルトを捉える。
「リュシェ」
「……っ」
「俺では、不満か?」
低く甘い声が耳を掠めた。
リュシェルトは一瞬、呼吸を忘れた。
腹立たしいほど整った顔。わずかに上がった口角。近づけば触れてしまいそうな距離。
三日前、初めて唇を重ねたときの感触が、不意に蘇る。
「…………」
「リュシェ?」
「……服を着ろ!!」
「着ているが」
「ちゃんと着ろって意味だ!!」
勇者の顔が真っ赤になった。
四天王が一斉に立ち上がる。
「効いておりますぞ!!」
「陛下! 今です!!」
「押し倒すのです!!」
「寝室の準備を!!」
「全員黙れええええ!!」
宰相は静かに議事録を閉じた。
本日の会議は、国家の歴史から抹消すべきであると。
*
その夜。
月光に照らされた魔王の私室は、昼間の騒動が嘘のように静まり返っていた。
リュシェルトは窓辺に立ち、遠くに広がる魔界の街並みを眺めていた。青い瞳には、城下を行き交う魔族たちの灯りが映っている。
背後で衣擦れの音がした。
「……リュシェ」
振り返ると、ゼルヴェディウスが立っていた。
昼間とは違い、その表情に余裕はない。
「今日は、すまなかった」
「……珍しいな。お前が謝るなんて」
「お前を困らせた」
魔王は少し離れた場所で足を止めた。
いつもなら、勝手に肩を抱き、頬へ触れ、甘ったるい言葉を囁いてくる男だ。
それが今夜は、近づこうともしない。
「俺は、お前が欲しい」
「……知ってる」
「抱きしめたい。口づけたい。できることなら、朝まで腕の中に閉じ込めていたい」
「……っ、お前な……!」
「だが」
ゼルヴェディウスは静かに目を伏せた。
「お前が本当に嫌なら、触れない」
リュシェルトの胸が、小さく鳴った。
「……どういう風の吹き回しだよ」
「今日、ようやく気づいた」
魔王は苦笑する。
「俺は六百年、欲しいものを力で手に入れてきた。国も、財宝も、勝利も。だが、お前の心だけは、そうはいかんらしい」
「…………」
「お前に好かれたいのだ、リュシェ。恐れられるのでも、従わせるのでもなく」
その声には、普段の傲慢さがなかった。
ただ、一人の男を好きになってしまった、不器用な男の切実さだけがあった。
リュシェルトは視線を落とす。
思い出すのは、昨夜のこと。
呪いを解くために抱き合ったとき、この男は自分が怖がっていないか確かめてくれた。
眠ってしまった自分を、起こさずに守ってくれた。
そして今も、こちらの意思を待っている。
「……なあ、ゼルヴェディウス」
「なんだ?」
「俺はまだ、お前と結婚する気なんかない」
「……ああ」
「お前が魔王で、俺が勇者だってことも変わらない。俺には、守らなきゃいけない人たちがいる」
「わかっている」
「だから……」
リュシェルトは一度言葉を切った。
それから、意を決したように歩み寄る。
ゼルヴェディウスが驚いた顔をした。
「……リュシェ?」
「手」
「……手?」
「出せよ」
差し出された大きな手を、リュシェルトは自分から握った。
長い指が、びくりと震える。
「……これくらいなら、別に嫌じゃない」
魔王が固まった。
「…………」
「……おい?」
「…………」
「ゼルヴェディウス?」
「…………リュシェ」
「なんだよ」
「……もう一度、言ってくれ」
「嫌だ!!」
「頼む。一生のお願いだ」
「六百年生きてる奴の一生のお願い、軽すぎるだろ!!」
ゼルヴェディウスは握られた手を見つめた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
紅い瞳が、わずかに潤んでいた。
「……嬉しい」
そのあまりにも素直な言葉に、リュシェルトは何も言えなくなった。
「……大袈裟なんだよ、お前は」
「お前が自分から触れてくれた」
「……手だけだろ」
「俺にとっては、世界を手に入れるより価値がある」
「…………」
「愛している、リュシェ」
「……ばか」
リュシェルトは顔を背けた。
それでも、繋いだ手だけは離さなかった。
*
翌朝、魔王軍宰相は、執務室の扉の前で深く息を吸った。
「陛下。本日の軍議ですが――」
返事がない。
扉を開けると、ゼルヴェディウスは玉座に座ったまま、右手をじっと見つめていた。
「……陛下?」
「宰相」
「はい」
「昨夜、リュシェが俺の手を握った」
「……左様でございますか」
「自分からだ」
「それはようございました」
「嫌ではない、と」
「……おめでとうございます」
「……ふふ」
宰相は嫌な予感を覚えた。
「陛下。本日の軍議は――」
「……ふふふ」
「陛下?」
「……リュシェが、俺の手を……」
「陛下ああああ!!」
その日、魔王は一切の政務を行わなかった。
翌日も、さらに翌日も。
三日目の夕方、ついに限界を迎えた宰相がリュシェルトへ泣きついた。
「勇者殿!! お願いでございます!! もう一度、陛下の手を握っていただけませんか!?」
「なんでだよ!?」
「今度は左手を!! 右手の余韻が消えるまで政務に戻られません!!」
「そんなことしたら左手の余韻でまた三日潰れるだろ!!」
「では、いっそ両手を!!」
「六日になるわ!!」
その騒動を聞きつけたゼルヴェディウスは、たいそう嬉しそうに執務室から姿を現した。
「リュシェ。両手でも構わんぞ」
「お前は仕事しろおおおお!!」
なお、魔王軍の公式記録には、次のように記された。
《魔王陛下、勇者様との関係に重大な進展あり》
《魔王陛下、感激のため三日間政務不能》
《宰相、過労により二日間の休暇を申請》
《魔王陛下、勇者様との手繋ぎ記念日制定を提案》
《勇者様、聖剣を抜刀》
そして、その記録の末尾には、宰相の震える筆跡で一文が書き加えられていた。
《頼むから、早く結婚してくれ。いや、やはりしないでくれ。どちらにしても私の胃がもたない。》
――第6話『勇者、嫉妬している自分を認めたくない。』へ続く。




