第4話 勇者、魔王の寝台で朝を迎える。
勇者リュシェルトは、人生において二度と経験したくない出来事をいくつも乗り越えてきた。
魔物の大群に包囲されたこと。毒沼に落ちたこと。三日三晩、飲まず食わずで戦い続けたこと。
そして、魔王ゼルヴェディウスと初めて口づけを交わした翌朝、その記念碑が城の中央広場に建立されていたこと。
最後のひとつについては、思い出すだけで頭痛がする。
しかし今日、彼の人生に新たな災難が加わった。
「……おい、ゼルヴェディウス」
「なんだ、リュシェ」
「俺から離れろ」
「離れたいのは山々だが」
魔王はそう言って、形のよい唇に優雅な微笑を浮かべた。
「世界の法則が、それを許してくれんらしい」
「世界の法則のせいにするなあああ!!」
魔王城最上階の執務室に、勇者の怒号が響き渡った。
事の発端は、一時間前に遡る。
魔王城の地下宝物庫で発見された古代の魔導書。その封印を調査していた魔術師が、うっかり術式を起動してしまったのである。
結果、魔王と勇者の間に奇妙な呪いが発生した。
その名も《双魂拘束》。
対象となった二人が一定距離以上離れると、強制的に引き寄せられるという、実に迷惑な代物だった。
「……つまり、俺とこいつは離れられないってことか?」
「左様でございます」
魔術師長が深々と頭を下げる。
「現在のところ、限界距離は約一メートル。これを超えると双方の魔力が反発し、強制的に接近するようです」
「一メートル!?」
リュシェルトは試しに三歩後退した。
直後、身体が見えない力に引っ張られ、見事な勢いでゼルヴェディウスの胸へ飛び込む。
「ぐえっ!」
「おっと」
魔王は当然のように受け止めた。
黒と深紅の衣装に包まれた長身の身体から、かすかに甘い香が漂う。
胸元の紅玉がリュシェルトの頬に触れ、耳元では銀の装飾が涼やかな音を立てた。
「随分と情熱的だな、リュシェ」
「呪いだっつってんだろ!!」
「昨夜の口づけが、これほど強い絆を生むとは」
「関係ねえよ!!」
「愛の奇跡か」
「魔術師長!! 今すぐこいつの口を封じる術式も探せ!!」
魔術師長は真剣に頷いた。
宰相だけが、すでに遠い目をしていた。
*
問題は、呪いが思った以上に日常生活へ支障をきたすことだった。
昼食。
「リュシェ、口元にソースが」
「自分で拭ける!」
「そうか。では、手だけでも繋ぐか?」
「食事に手繋ぎは必要ねえ!」
廊下。
「リュシェ、こちらへ」
「なんでだよ!」
「俺が右へ曲がる」
「俺は左へ行く!」
次の瞬間、勇者は魔王の腕の中へ吸い込まれた。
「……お前、わざとだろ」
「否定はせん」
「否定しろよ!!」
そして、最大の問題。
「……風呂は?」
「ご安心ください、勇者様」
侍女が笑顔で告げた。
「陛下の浴室は大変広うございますので、お二人でも十分に――」
「一緒に入らねえよ!!」
結局、浴室の扉を開けたまま、ゼルヴェディウスが隣室で待機するという妥協案に落ち着いた。
ただし。
「リュシェ、湯加減はどうだ?」
「普通だ!」
「背中を流そうか?」
「いらねえ!」
「では髪を――」
「お前は黙って待ってろ!!」
魔王城の侍女たちは、そのやり取りを聞きながら静かに微笑んでいた。
なお、翌日の侍女会議では《勇者様と陛下の新婚生活を温かく見守る会》の設立が満場一致で可決された。
*
ようやく魔術師長が、呪いを解く方法を突き止めた。
「お二人の魔力を調和させる必要がございます」
「調和?」
「はい。互いの魔力を直接循環させることで、術式の結合を解除できるかと」
リュシェルトは嫌な予感を覚えた。
「……具体的には?」
「身体を密着させ、しばらく抱き合っていただく必要がございます」
沈黙。
そして。
「却下!!」
「承知いたしました。では、明日以降も陛下と一メートル以内で生活していただくことに――」
「やります!!」
勇者の決断は早かった。
ゼルヴェディウスはたいそう満足そうに微笑んだ。
「リュシェ、俺の胸へ」
「その顔やめろ。腹立つ」
「今夜は好きなだけ甘えてよいぞ」
「呪いを解くためだっつってんだろ!」
こうして二人は、魔王の寝台へ腰を下ろすことになった。
深紅の天蓋が揺れ、窓から差し込む月光が白い寝具を淡く照らしている。
ゼルヴェディウスは黒衣の上着を脱ぎ、薄いシャツ一枚になると、リュシェルトへ静かに手を差し伸べた。
「来い、リュシェ」
「……言われなくても」
渋々近づいた勇者の腰へ、大きな手が回される。
身長差は僅かとはいえ、魔王の身体は想像以上に逞しかった。
背中へ触れた掌の熱が薄い寝間着越しに伝わり、リュシェルトは思わず息を詰める。
「……近い」
「密着が必要なのだろう?」
「わかってる。わかってるけど……!」
ゼルヴェディウスはその反応を見つめ、紅い瞳を細めた。
「嫌なら、少し離れる」
意外なほど穏やかな声だった。
リュシェルトは顔を上げる。
魔王は笑っていなかった。
「呪いを解くためとはいえ、お前に無理をさせたいわけではない」
「…………」
「怖ければ言え。別の方法を探させる」
その言葉に、胸の奥が不思議と緩んだ。
この男は普段、信じられないほど勝手だ。国家予算を恋愛費用に変え、記念碑を建て、こちらの抗議を愛情表現だと勘違いする。
けれど、本当に嫌がることには、こうして立ち止まる。
「……別に、怖くねえよ」
リュシェルトは視線を逸らし、魔王の胸元へ額を寄せた。
「お前が変なことしなきゃ、それでいい」
「……そうか」
背中へ回された腕に、僅かに力が籠もる。
「ならば、こうしていよう」
魔王の魔力は、意外なほど温かかった。
暗い深紅の光が二人の身体を包み、リュシェルトの内側から溢れた淡い蒼光とゆっくり混ざり合っていく。
呼吸を合わせるたび、魔力の波が重なり、胸の奥に心地よい熱が広がった。
「……なあ、ゼルヴェディウス」
「なんだ?」
「お前、いつもこんなに体温高いのか?」
「魔族だからな」
「……ふうん」
リュシェルトは小さく頷いた。
そのまま、もう少しだけ身体を預ける。
耳元で聞こえる心音は、驚くほど穏やかだった。
「……リュシェ」
「ん……?」
「眠いのか?」
「……ちょっとだけ」
ゼルヴェディウスは微笑んだ。
「眠ってよい」
「……お前、変なことするなよ」
「約束しよう」
「……絶対だからな」
「もちろんだ」
しばらくして、勇者の寝息が聞こえ始めた。
ゼルヴェディウスは腕の中の青年を見下ろす。
月光に透ける銀白色の髪。長い睫毛に縁取られた瞼。いつも怒ってばかりいる口元は、今だけ無防備に緩んでいる。
三年前。
北方の戦場で初めて見たとき、この青年は血に濡れた剣を握りながら、敵である魔族の兵士を庇っていた。
あの日からずっと、ゼルヴェディウスはこの男のことばかり考えていた。
手に入れたいと思った。
誰にも渡したくないと思った。
けれど、こうして腕の中で眠る姿を見ていると、それ以上に強く願ってしまう。
どうか、明日も笑っていてほしい。
自分を罵っても構わない。
怒鳴っても、剣を向けてもいい。
ただ、生きていてほしい。
「……愛している、リュシェ」
魔王は小さく囁き、銀白色の髪へそっと口づけた。
その腕の中で、勇者が僅かに身じろぎする。
「……ばか、まおう……」
寝言だった。
ゼルヴェディウスは、世界で最も幸福そうな顔をした。
*
翌朝。
リュシェルトは、妙に温かな感触に包まれて目を覚ました。
頬の下には逞しい胸板。
腰には大きな腕。
目の前には、こちらを見つめる紅い瞳。
「おはよう、リュシェ」
「…………」
「よく眠れたか?」
「…………」
「昨夜は随分と甘えてくれたな」
「…………」
勇者の顔が、みるみる赤く染まった。
「お前えええええ!!」
寝台から飛び起きた瞬間、リュシェルトは気づいた。
引き寄せられない。
一メートル以上離れても、身体が勝手に戻ることはなかった。
「……あれ?」
「呪いは解けたようだな」
「……いつ?」
「昨夜、お前が眠った頃には」
「…………」
「…………」
「……お前、知ってたのか?」
「……うむ」
リュシェルトはゆっくり聖剣へ手を伸ばした。
「なんで言わなかった」
「お前があまりにも気持ちよさそうに眠っていたのでな」
「だからって!!」
「起こすのが惜しかった」
「だからって!!」
「……もう少しだけ、抱いていたかった」
その一言に、リュシェルトの動きが止まった。
ゼルヴェディウスは、どこか困ったように微笑んでいた。
「すまない。俺の我儘だ」
「…………」
勇者はしばらく黙り込み、やがて真っ赤な顔で布団を引き上げた。
「……次からは、ちゃんと言え」
「ああ」
「あと、勝手に抱きしめるな」
「……承知した」
「…………」
「…………」
「……俺が嫌じゃないときは、別だけど」
魔王が固まった。
「……リュシェ?」
「二回言わせるな!!」
その直後、寝室の扉が勢いよく開いた。
「陛下!!」
宰相だった。
「呪いが昨夜のうちに解除されていたと聞きましたが!?」
「うむ」
「なぜ勇者殿へお伝えにならなかったのですか!!」
「寝顔が可愛かった」
「理由になっておりません!!」
「抱き心地もよかった」
「聞いておりません!!」
「それにリュシェが、俺に抱きしめられるのは嫌ではないと――」
「言うなああああ!!」
勇者の枕が、魔王の顔面へ直撃した。
なお、その日の魔王軍定例会議では、新たな禁止事項が正式に採択された。
《魔王陛下による、勇者様との接触を目的とした呪術の再現実験を禁ずる》
ゼルヴェディウスは最後まで不服そうだった。
「なぜだ。あれほど幸福な夜はなかったぞ」
「国家の安全保障に関わる問題でございます!!」
「では私費で――」
「費用の問題ではございません!!」
一方、その頃リュシェルトは自室の窓辺で、昨夜のことを思い出していた。
温かな胸。
背中に回された腕。
耳元で聞こえた、低く優しい声。
「…………」
頬が熱くなる。
「……くそ」
勇者は両手で顔を覆った。
「……なんで、あんなに安心したんだよ」
その問いに答えてくれる者は、まだいなかった。
ただひとつ確かなのは、魔王を倒すために生きてきた勇者が、魔王の腕の中で眠る心地よさを覚えてしまったということだった。
そして、その事実を知った魔王が翌日《勇者様専用抱き枕》の製作を命じ、宰相に全力で阻止されることになるのは、また別の話である。
――第5話『魔王の求婚を断ったら、国家会議が始まった。』へ続く。




