第3話 魔王陛下、勇者に触れたいがために瀕死を装う。
魔王城に滞在するようになってから、勇者リュシェルトはひとつの真理に辿り着いていた。
魔王という生き物は、どうやら人類の常識が通用しないらしい。
世界征服を企む恐怖の象徴。六百年もの歳月を生き、数多の魔族を従える絶対君主。
そんな男が、たった一人の勇者に髪を梳かせてもらえたという理由で、国家規模の祝賀行事を企画するなど、いったい誰が予想できただろう。
そして今日、リュシェルトはその認識を改めることになる。
魔王には、常識どころか羞恥心もない。
「勇者様!! 大変でございます!!」
昼下がりの私室に、侍女の悲鳴が響いた。
窓辺で読書をしていたリュシェルトは、銀白色の髪を揺らして顔を上げる。澄んだ青い瞳が、蒼白になった侍女を捉えた。
「どうした。城が攻められたのか?」
「陛下が……魔王陛下が、重傷を負われました!!」
本が床に落ちた。
「……は?」
「執務室で倒れられ、現在は寝室に! 医師団も招集されております!」
その言葉を聞いた瞬間、リュシェルトは椅子を蹴って立ち上がっていた。
なぜ自分が走り出したのか、考える余裕などなかった。
魔王は敵だ。世界を脅かす存在であり、自分が討つべき相手だったはずだ。
それなのに、あの紅い瞳が二度と開かないかもしれないと思った途端、胸の奥がひどく冷たくなった。
「ゼルヴェディウス!!」
勢いよく寝室の扉を開け放つ。
そこには、黒と深紅の豪奢な寝台に横たわる魔王と、周囲を取り囲む医師団、そして人生のすべてに疲れ果てたような顔の宰相がいた。
ゼルヴェディウスは長い睫毛を伏せ、普段の傲慢さが嘘のように静かだった。
無造作に乱れた漆黒の髪が白い枕にかかり、胸元には深紅の宝石をあしらった黒衣が緩く掛かっている。
その姿に、リュシェルトの喉が詰まった。
「おい……何があった?」
「リュシェ……来てくれたのか」
薄く開いた紅い瞳が、こちらを見つめる。
「もう、駄目かもしれん」
「ふざけるな! 何があったんだよ!」
リュシェルトは寝台へ駆け寄り、魔王の肩を支えた。
自分より頭ひとつ近く大きな身体が妙におとなしく腕に収まることに、嫌な予感が膨らんでいく。
「傷はどこだ。治癒魔法なら使える。だから――」
「……右手だ」
差し出された手を見た。
人差し指の先に、赤い線が一本。
リュシェルトは目を細めた。
もう一度見た。
さらに顔を近づけた。
「…………」
「痛む」
「…………」
「お前が手を握ってくれれば、少しは――」
「紙で切っただけじゃねえかああああ!!」
勇者の絶叫が魔王城を揺るがした。
医師団の一人が肩を震わせ、宰相は静かに目頭を押さえた。
「陛下。ですから申し上げたでしょう。紙による軽微な裂傷で医師団を招集するのはおやめくださいと」
「だが、リュシェが来た」
「結果論でございます!!」
「しかも俺を心配して走ってきた」
「国家の最高権力者が詐病で恋愛成就を狙わないでください!!」
ゼルヴェディウスは実に満足そうだった。
リュシェルトはその胸倉を掴み上げる。白と青を基調とした騎士服の袖が翻り、澄んだ青い瞳に怒りが燃え上がった。
「お前な……! 俺がどれだけ……!」
「どれだけ?」
「っ……!」
続きを口にできなかった。
死ぬかと思った。
本当に、死んでしまうのかと思った。
そんなことをこの男に知られたくなかった。
しかしゼルヴェディウスは、勇者の指先が微かに震えていることに気づいたらしい。
楽しげだった表情が、ふっと消えた。
「……リュシェ」
「何だよ」
「すまなかった」
予想外の謝罪に、リュシェルトは眉を寄せる。
「お前がそんな顔をするとは思わなかった」
紅い瞳が、ひどく真剣に自分を見つめていた。
「心配してほしかった。お前に触れてほしかった。だが、怖がらせるつもりはなかった」
普段なら、ここで甘ったるい台詞が三つほど追加されるところだ。
ところが魔王は、それ以上何も言わなかった。
リュシェルトはしばらく黙り込み、やがて乱暴に胸倉を離した。
「……二度とやるな」
「ああ」
「次にやったら、その傷より痛い目に遭わせる」
「お前が俺に触れてくれるなら、それも――」
「反省が早くも終わったな!?」
宰相は医師団に撤収を命じながら、執務記録へ新たな一文を書き加えた。
《魔王陛下、紙による負傷を理由に勇者殿を召喚。国家医療体制に著しい混乱を招く》
なお、損害額の欄には、もはや数字ではなく《陛下の良識》と記された。
*
その夜。
魔王城の窓から差し込む月明かりが、寝室の床に淡い銀色を落としていた。
リュシェルトは寝台の端に腰掛け、隣に座るゼルヴェディウスを横目で睨んでいた。
黒衣の襟元から覗く白い肌。細い銀鎖の先で揺れる紅玉。耳元の装飾が、僅かな動きに合わせて冷たい光を放つ。
黙っていれば、腹立たしいほど美しい男だった。
「……なあ」
「なんだ、リュシェ」
「お前、本当に俺に触りたかっただけなのか?」
「ああ」
即答だった。
「抱きしめたい。髪に触れたい。できることなら口づけたい。だが、お前が嫌がることはしたくない」
「……よくそんな恥ずかしいことを平然と言えるな」
「六百年生きて、初めて恋をしたのでな」
ゼルヴェディウスは薄く微笑んだ。
「加減がわからん」
その言葉が妙に胸へ残った。
リュシェルトは唇を噛み、しばらく考えてから魔王の黒衣を掴んだ。
「……目、閉じろ」
「なぜだ?」
「いいから!」
魔王は素直に瞼を伏せた。
いつも余裕たっぷりに笑う男が、こんなにも無防備に自分を信じる。その事実に、リュシェルトの心臓が嫌なほど大きく跳ねた。
仕返しのつもりだった。
少しくらい困らせてやろうと思った。
だから顔を近づけたのに、長い睫毛も、形のよい唇も、間近で見ると妙に意識してしまう。
「……リュシェ?」
「喋るな」
「お前が近い」
「だから喋るなって……!」
ゼルヴェディウスがゆっくり目を開けた。
紅い瞳と青い瞳が、息の触れ合う距離で重なる。
「……口づけても?」
普段なら問答無用で怒鳴り返していた。
けれど、今日ばかりは違った。
あれほど強大な魔王が、自分の返事を待っている。
リュシェルトは視線を逸らし、熱くなった頬を隠すように俯いた。
「……一回だけだぞ」
次の瞬間、ゼルヴェディウスが息を止めた。
「……本当に?」
「二回言わせるな!」
その返事を聞いた魔王は、まるで壊れ物に触れるようにリュシェルトの頬へ手を添えた。
指先は驚くほど優しかった。
互いの距離がゆっくり縮まり、唇が重なる。
ほんの短い口づけだった。
それなのに、離れた瞬間、リュシェルトは自分の鼓動がうるさくて仕方なかった。
「…………」
「…………」
「……おい、何か言えよ」
ゼルヴェディウスは動かなかった。
その整いすぎた顔には、六百年の威厳も、絶対君主の余裕も、跡形もなく消えていた。
「……リュシェ」
「何だよ」
「俺は今、世界を征服したときより幸福だ」
「まだ世界征服してねえだろ!」
「では、もう必要ないな」
「国家方針をキス一回で変更するな!!」
魔王は笑った。
けれど、その紅い瞳がどこか潤んでいることに気づき、リュシェルトは二度目の怒鳴り声を飲み込んだ。
代わりに、頬に添えられた手をそっと握る。
「……そんなに嬉しいのかよ」
「ああ」
ゼルヴェディウスは、まるで夢を確かめるように囁いた。
「三年間、ずっと夢見ていた」
リュシェルトは何も言えなくなった。
ただ、握った手を離すこともできなかった。
*
翌朝、魔王城中央広場に巨大な石造建築物が出現した。
高さ十二メートル。
材質は最高級の黒曜石。
頂上には二つの唇を模した黄金の彫刻が輝き、台座には次の文字が刻まれている。
《魔王陛下・勇者様 初接吻記念碑》
「…………」
リュシェルトは無言で聖剣を抜いた。
「リュシェ、待て。せめて除幕式を――」
「誰が許可したあああああ!!」
閃光。
轟音。
記念碑は、建立から僅か四十三分で粉砕された。
なお、瓦礫の中から無傷の黄金装飾を拾い上げたゼルヴェディウスは、たいそう嬉しそうに微笑んでいたという。
「……陛下。それをどうなさるおつもりですか」
宰相の問いに、魔王は当然のように答えた。
「寝室に飾る」
「おやめください」
「では宝物庫に」
「おやめください!!」
「……俺の棺に入れるか」
「あと六百年は生きていただかねば困ります!!」
こうして、魔王城には新たな禁令が追加された。
《魔王陛下の恋愛に関する記念碑の建立を、国家予算で行うことを禁ずる》
ただし、魔王本人はまったく反省していなかった。
なぜなら、その日の午後、勇者リュシェルトのもとへ魔王直筆の手紙が届いたからである。
《愛するリュシェへ。昨夜の続きを、今夜も願ってよいだろうか》
リュシェルトは手紙を握り潰した。
そして五分後。真っ赤な顔で、返事を書いた。
《調子に乗るな。……気が向いたらな》
その返書を受け取った魔王が感激のあまり執務室の椅子から転げ落ちたことを、勇者はまだ知らない。
――第4話『勇者、魔王の寝台で朝を迎える。』へ続く。




