第2話 勇者、魔王の愛人待遇に断固抗議する。
勇者リュシェルトは、魔王城に囚われて二日目の朝、ひとつの重大な事実に気づいた。
この城には、捕虜の人権を侵害する悪質な制度が存在する。 ただし、一般的な意味とは真逆の方向で。
「……なあ、これ全部、俺の朝飯?」
「はい! 勇者様のお身体を第一に考え、料理長が腕によりをかけてご用意いたしました!」
満面の笑みで答えた侍女の背後には、長大な食卓が広がっていた。
焼きたてのパンに、香草を添えた肉料理。色鮮やかな果実、湯気を立てる濃厚なスープ、宝石のような菓子の数々。
そして中央には、銀髪に青い瞳の青年を模した巨大な砂糖細工が鎮座している。
「……最後の何?」
「勇者様でございます!」
「知ってる! なんで俺が砂糖になってんだよ!!」
「陛下が『食卓にもリュシェを飾りたい』と仰いまして」
「食卓に飾るな!! 本人がいるだろ!!」
侍女たちは困ったように顔を見合わせた。 そのうちの一人が、恐る恐る尋ねる。
「では、明日は等身大で……?」
「大きさの問題じゃねえ!!」
勇者リュシェルト。 魔王討伐の旅では、硬い保存食を水で流し込むことも珍しくなかった男。
まさか敵の本拠地で、朝食の豪華さに精神を削られる日が来るとは思わなかった。
*
食事の次に待ち受けていたのは、衣装だった。
「本日はこちらをお召しくださいませ」
侍女が差し出したのは、白と深い青を基調とした騎士礼装だった。
上質な生地には繊細な銀刺繍が施され、肩には青い宝石を抱いた星形の装飾。
黒い立ち襟と細身の腰帯が全体を引き締め、背中には月光を織り込んだような白い外套が流れていた。
リュシェルトは思わず目を見張った。
自分が普段着ている礼装とよく似ている。しかし、仕立ても素材も桁違いだった。
「……これ、いくらする?」
「王国の騎士団長様の年俸、およそ三年分と伺っております」
「脱ぐ!!」
「まだ着ておられません!!」
「じゃあ着ねえ!!」
もっとも、三人の侍女による熱心な説得と、「陛下が勇者様の瞳のお色に合わせて宝石を選ばれました」という余計な情報によって、最終的には袖を通すことになった。
姿見に映る青年は、我ながら悪くない。
柔らかな銀白色の髪が頬にかかり、澄んだ青い瞳が白銀の装飾を映している。
端正な顔立ちに似合わず眉間には深い皺が刻まれていたが、それもまた勇者らしい精悍さを際立たせていた。
「……まあ、動きやすいし」
そう呟いた瞬間、背後から声がした。
「よく似合っている、リュシェ」
「うわっ!?」
振り返ると、いつの間にかゼルヴェディウスが立っていた。
黒曜石のような髪を無造作に散らし、黒と深紅の礼装を纏った長身の魔王。
開いた襟元には銀鎖が幾重にも垂れ、胸元の紅玉が妖しい光を放っている。
片耳で揺れる鋭い意匠の耳飾りまで含め、腹立たしいほど隙がない。
「お前、ノックくらいしろ!!」
「したぞ。三度ほど」
「返事を待て!!」
ゼルヴェディウスは悪びれることなく微笑み、勇者の前へ歩み寄った。
「……やはり青が似合うな。お前の瞳と同じ色だ」
「……っ、そういうことを平然と言うな!」
「事実だが?」
「事実でもだ!!」
魔王は満足そうに頷いた。
「では、次は婚礼衣装を――」
「話が飛躍しすぎだろ!!」
*
昼過ぎ、ついに堪忍袋の緒が切れたリュシェルトは、魔王の執務室へ乗り込んだ。
「待遇を悪くしろ!!」
開口一番、勇者は叫んだ。 書類に目を通していたゼルヴェディウスが顔を上げる。その傍らでは、老宰相が大量の決裁書を抱えていた。
「……待遇を?」
「そうだ! 俺は捕虜だぞ! 豪華な飯も服も要らねえ! 普通に扱え!!」
ゼルヴェディウスはしばらく考え込んだ。 そして、深刻な面持ちで尋ねた。
「……何が足りない? 俺の愛か?」
「増やす方向に考えるな!!」
「なるほど。愛情表現が不足していたのだな」
「聞け!!」
「宰相。庭園の東側に、リュシェ専用の温室を――」
「陛下!!」
老宰相が書類を机に叩きつけた。
「軍事費を削って庭園を三倍にしたばかりでしょう!!」
「ならば俺の私財で建てよう」
「最初からそうなさってください!!」
「……え、建てるのは確定なの?」
リュシェルトの問いには誰も答えなかった。
*
湯浴みを終えたリュシェルトが寝室へ戻ると、ゼルヴェディウスは窓辺の椅子に腰掛けていた。
黒い夜着の襟元は緩く開き、鎖骨に落ちる銀鎖が燭火を受けて淡く光っている。
長い睫毛の下で紅い瞳が細められると、昼間の威厳ある魔王とは違う、どこか危うい色気が滲んだ。
「リュシェ。こちらへ」
「……何だよ」
「髪が濡れている」
ゼルヴェディウスは銀の櫛を手に取った。
「梳かしてもよいか?」
「自分でできる」
「知っている。だが、俺がしたい」
その言い方が妙に真剣で、リュシェルトは返す言葉に詰まった。
昼間のように勝手に決めつけるのではなく、今度はきちんと返事を待っている。
「……髪だけだからな」
「無論だ」
背後に回った魔王が、銀白色の髪へ慎重に櫛を通す。
思いのほか優しい手つきだった。
絡まった毛先を無理に引くこともなく、指先でそっと解きながら梳かしていく。
六百年を生き幾千もの兵を従える男の手が、今はたった一人の髪を傷めないことだけに神経を注いでいた。
「……お前、こういうの慣れてんの?」
「いや。初めてだ」
「……嘘だろ」
「お前に触れるため、昨夜侍女に教わった」
リュシェルトは黙り込んだ。 その光景を想像してしまったからだ。
魔界最強の支配者が、侍女相手に櫛の持ち方を練習している。
「……っ、ふ」
「リュシェ?」
「いや……何でも……っ」
肩が震える。
堪えきれずに笑い出すと、ゼルヴェディウスは一瞬だけ驚いた顔をし、それからひどく嬉しそうに微笑んだ。
「……お前が笑うと、綺麗だな」
「…………は?」
不意打ちだった。 背後から伸びた指が、頬にかかった銀髪をそっと耳へかける。
触れられた場所が熱い。
「……ゼルヴェディウス」
「なんだ?」
「……近い」
魔王はすぐに手を止めた。
「嫌だったか?」
その問いに、リュシェルトは言葉を失った。
嫌なら離れる。 そう言われているのだと分かったから。
「……別に」
視線を逸らし、小さく答える。
「髪くらいなら……いい」
ゼルヴェディウスの動きが止まった。
「……リュシェ」
「何だよ」
「今の言葉、もう一度聞いてもよいか?」
「嫌だ」
「頼む」
「絶対に嫌だ!!」
魔王はしばらく沈黙したあと、胸元を押さえた。
「……医師を呼んでくれ」
「は?」
「幸福で心臓が止まりそうだ」
「六百年生きた魔王がそれくらいで死ぬな!!」
*
翌朝。 魔王城の正門には、新しい横断幕が掲げられていた。
《祝・勇者様、魔王陛下に初めて髪を梳かさせる》
リュシェルトは無言でそれを見上げた。 そして、ゆっくりと聖剣へ手を伸ばす。
「……ゼルヴェディウス」
「なんだ、リュシェ」
「撤去しろ」
「記念すべき日だぞ」
「撤去しろ!!」
「では、せめて記念碑だけでも――」
「建てるなあああ!!」
なお、宰相の必死の抵抗により、記念碑の建立は阻止された。
ただし魔王の私室には、その日の出来事を記した金縁の額が飾られたという。
勇者リュシェルト、魔王城生活二日目。 捕虜待遇の改悪は、一向に進まない。
それどころか、魔王の愛情表現だけが日々着実に進化していた。
そして何より厄介なのは、昨夜髪を梳かされたときの温もりを、リュシェルト自身が少しだけ心地よいと思ってしまったことだった。
「……くそっ。絶対、好きになんかならねえからな」
その独り言を、魔王は聞いていなかった。 聞いていたら間違いなく記念日がもうひとつ増えることになったに違いない。
――第3話『魔王陛下、勇者に触れたいがために瀕死を装う。』へ続く。




