第1話 魔王を倒しに来たのに、寝室へ連行された。
勇者リュシェルトは、人生最大の屈辱を味わっていた。
魔王討伐のために故郷を発ち、幾多の魔物を斬り伏せ、死線を越えること数十回。
聖剣に選ばれた勇者として、人類の希望を一身に背負ってきた二十四年間の集大成が、まさかこんな結末を迎えるとは思っていなかった。
「……殺せ」
魔王城最深部、黒曜石の玉座の間。
砕けた大理石の床に片膝をつき、リュシェルトは血の滲む唇を噛み締めた。
月光を受けて淡く輝く銀白色の髪は、激戦の末に乱れ、長めの前髪が氷青色の瞳へ無造作にかかっている。
白と深い青を基調とした騎士礼装には銀糸の刺繍が走り、肩を飾る青い宝石の装飾も、今は血と埃に汚れていた。
細身に見える身体は、決して華奢ではない。
剣を振るうために鍛え上げられた四肢と、幾度も死線を越えてきた者特有の鋭い眼差し。整いすぎた顔立ちに反して、その表情には可愛げというものが絶望的に不足している。
もっとも、本人に言わせれば、勇者に可愛げなど必要ない。
必要なのは剣の腕と、最後まで折れない意志だけだ。
そして今、その両方をもってしても倒せなかった男が、目の前に立っていた。
魔王ゼルヴェディウス。
黒曜石を思わせる艶やかな黒髪は、無造作に流した前髪が紅い瞳へ影を落とし、襟足は首筋に沿って柔らかく乱れている。
長身の身体を包むのは、黒と深紅を重ねた豪奢な礼装。
開いた襟元から覗く鎖骨には黒銀の装飾が添えられ、胸元では血のように赤い宝石が妖しく輝いていた。
細い銀鎖、鋭い意匠の装身具、片耳から垂れる長い耳飾り。
どれも華美でありながら、魔王自身の圧倒的な存在感を損なっていない。
その姿は、まるで夜そのものが人の形を取ったようだった。
「……殺せ、か」
低く艶を含んだ声が、静まり返った広間に響く。
リュシェルトは聖剣を握り締めた。
ここで首を刎ねられるのだろう。せめて最後まで勇者らしく、誇り高く死んでやる。
しかし、ゼルヴェディウスはおもむろに玉座から立ち上がると、信じられないほど穏やかな微笑みを浮かべた。
「断る」
「……は?」
「ようやく手に入れたのだ。殺すわけがなかろう」
魔王はリュシェルトの前に膝をついた。
長い指が、血に汚れた勇者の頬へそっと触れる。黒銀の指輪に嵌め込まれた紅玉が、月光を受けて鈍く光った。
「今日からお前は、俺のものだ」
「…………は?」
勇者の思考が停止した。
魔王の言葉を理解するまでに三秒。理解した内容を否定するまでに二秒。そして、目の前の男が何か致命的な勘違いをしていると確信するまでに、さらに五秒を要した。
「待て。何の話だ」
「お前を迎える準備は、とうに整っている」
「だから何の話だ!!」
ゼルヴェディウスは答える代わりに、リュシェルトの身体を軽々と抱き上げた。
いわゆる、お姫様抱っこ。
「おい!? 降ろせ!!」
「暴れるな。傷に障る」
「お前がつけた傷だろうが!!」
勇者の至極もっともな抗議を聞き流し、魔王は深紅の外套を翻した。
その拍子に、耳元の銀飾りが小さく揺れる。
腹立たしいことに、仕草のひとつひとつが妙に絵になる男だった。
「……くそっ、顔だけは無駄にいいな……!」
「何か言ったか?」
「何でもねえ!!」
ゼルヴェディウスは満足そうに微笑み、玉座の間を後にした。
*
廊下に整列していた魔族の兵士たちが、一斉に頭を下げる。
「魔王陛下! 勇者討伐、誠におめでとうございます!」
「うむ」
「捕虜は地下牢へ?」
「寝室だ」
「…………はい?」
「俺の寝室へ運ぶ」
兵士たちの表情が、見事なまでに凍りついた。
リュシェルトも凍りついた。
ただし、こちらは恐怖ではなく、理解不能な状況に対する純粋な困惑である。
「なんで寝室なんだよ!!」
「夫婦は同じ寝台で眠るものだろう」
「誰が夫婦だ!!」
「まだ正式には違うな。式の日取りを決めねば」
「話を進めるな!!」
その後、リュシェルトは魔王城の最上階にある私室へ連行された。
そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
深紅の絨毯。黒檀の家具。銀の燭台に灯る青白い炎。壁一面の書棚と、月夜の魔界を一望できる巨大な窓。
そして部屋の中央には、成人男性が五人ほど並んでも余裕がありそうな天蓋付きの寝台が鎮座していた。
枕は二つ。 寝間着も二着。
花瓶には、瑞々しい白薔薇が飾られている。
「…………」
リュシェルトは無言で部屋を見渡した。
「…………」
もう一度見渡した。 そして、ゆっくりと魔王を振り返った。
「……お前、俺が来るって知ってたのか?」
「三年前から待っていた」
「三年!?」
「北方の戦場で、お前を初めて見た」
ゼルヴェディウスは懐かしむように目を細めた。
「魔族の兵士を庇って、同じ人間の騎士に剣を向けただろう。あのとき、お前は敵味方など関係なく、命を救おうとしていた」
リュシェルトは眉を寄せた。
覚えている。
魔族という理由だけで処刑されかけた若い兵士を助けたことがあった。
勇者として当然のことをしたつもりだったが、同行していた騎士団からは散々非難された。
「……それがどうした」
「惚れた」
「…………」
「一目惚れだった」
「…………」
「以来、ずっとお前を迎える日を夢見ていた」
「重い!!」
勇者は絶叫した。
六百歳の魔王による三年間の片想いなど、もはや恋愛というより国家規模の執念だ。普通に怖い。
「そもそも俺はお前を殺しに来たんだぞ!?」
「知っている」
「敵なんだぞ!?」
「承知している」
「なのに惚れたのか!?」
「恋とは理屈ではないからな」
「魔王のくせに恋愛小説みたいなこと言うな!!」
ゼルヴェディウスは楽しそうに笑った。
切れ長の紅い瞳が細められ、整った唇が緩やかな弧を描く。
冷酷非道と恐れられる魔王の面影など、そこには微塵もない。
その笑顔が妙に色っぽいのも腹立たしい。
こんな男が相手でなければ、あるいは見惚れていたかもしれないと考えてしまった自分自身に、リュシェルトはさらに腹を立てた。
「とにかく、俺は帰る!」
「そうか。では送ろう」
「……え?」
意外にもあっさりした返答に、リュシェルトは目を瞬かせた。
しかし、魔王は続けた。
「庭園までなら歩けるか? まだ傷が痛むだろう」
「庭園じゃなくて人間界だ!!」
「外の空気が恋しいのだな。明日にでも庭園を拡張させよう」
「会話が成立しねえ!!」
ちょうどそのとき、控えめなノックとともに老齢の魔族が姿を現した。
魔王軍宰相だった。
「陛下。勇者殿の処遇について、軍議の確認を――」
「ちょうどよい。庭園を三倍に広げろ」
「……は?」
「勇者が散歩をしたがっている」
宰相はリュシェルトを見た。 リュシェルトは首を横に振った。
宰相は天を仰いだ。 長年魔王に仕えてきた男の顔には、すでに諦観の色が浮かんでいる。
「陛下。僭越ながら申し上げます。勇者殿は捕虜でございます」
「そうだな」
「国家の安全保障に関わる重大案件です」
「そうだな」
「決して新婚旅行の相談ではございません」
「新婚旅行か。よい案だ」
「申し上げておりません!!」
リュシェルトは思った。 この城で最も苦労しているのは、間違いなくこの宰相だ。
そして同時に確信した。 自分はとんでもない場所へ来てしまったのだと。
*
その夜。
傷の手当てを受け、柔らかな寝間着に着替えたリュシェルトは、寝台の端で膝を抱えていた。
白銀の髪は湯浴みのあとで少し湿り、普段は鋭く細められている青い瞳にも、疲労の色が滲んでいる。
戦場では決して見せない、年相応の無防備な姿だった。
隣ではゼルヴェディウスが、ひどく満足そうな顔をしている。 黒い夜着の襟元は緩く開き、長い指が寝台の縁をなぞっていた。
「……なあ」
「なんだ、リュシェ」
「勝手に愛称で呼ぶな」
「では、リュシェルト」
「……何だよ」
「ようやく会えたな」
その声があまりにも優しくて、リュシェルトは一瞬だけ言葉を失った。
魔王の紅い瞳には、勝利の愉悦も征服者の傲慢さもない。
ただ、長く待ち望んだものをようやく手にした男の、ひどく真っ直ぐな喜びだけが宿っていた。
だからこそ勇者は困った。 こんな顔をする魔王など、知らない。
「……俺は、お前を好きになったりしないからな」
「構わん」
ゼルヴェディウスは微笑んだ。
「俺が二人分、愛せばよい」
「そういう問題じゃねえんだよ!!」
翌朝、魔王軍の公式記録には次のように記載された。
《勇者リュシェルト、魔王城にて身柄確保》 《魔王陛下、勇者討伐に成功》 《魔王陛下、ご成婚準備開始》
なお、最後の一行について宰相が訂正を求めたところ、魔王直筆で《最重要事項》と追記されたという。
勇者リュシェルト、二十四歳。 世界を救うはずだった男の新たなる戦いが始まった。
敵は魔王。 目的は脱出。
そして最大の難関は――魔王本人が、勇者との結婚を確定事項として扱っていることである。
――第2話『勇者、魔王の愛人待遇に断固抗議する。』へ続く。




