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第10話 勇者、世界より魔王を選んだわけではない。

魔王城に三千の人間軍が押し寄せた朝、魔王ゼルヴェディウスは恋人の寝顔を眺めていた。


世界を滅ぼすほどの魔力を持ち、六百年ものあいだ魔界に君臨してきた絶対君主が。


「……リュシェ」


天蓋付きの寝台には、銀白色の髪を乱した青年が眠っている。

昨夜、古代契約の調査で遅くまで起きていたせいだろう。普段は凛々しい青い瞳も今は閉じられ、長い睫毛が頬に影を落としていた。


ゼルヴェディウスは、その額へそっと唇を寄せる。


「……愛している」


「……ん、うるせえ……」


寝ぼけた声が返ってきた。

魔王は胸を押さえた。


可愛い。


六百年生きてきたが、これほど愛おしい生き物が存在するとは知らなかった。


できればこのまま、あと三時間ほど眺めていたい。

そう思った瞬間、寝室の扉が勢いよく開いた。


「陛下!! 緊急事態でございます!!」


宰相だった。


「静かにしろ。リュシェが寝ている」


「人間軍が攻めてまいりました!!」


「後にしろ」


「三千でございます!!」


「三千人全員に待機を命じよ」


「敵軍に何を命じるおつもりですか!?」


ゼルヴェディウスは不機嫌そうに眉を寄せた。


「世界征服なら後にしろ。勇者が昼寝している」


「朝でございます!!」


その騒動に、とうとうリュシェルトが目を覚ました。


「……何だよ、朝っぱらから……」


寝台の上で身体を起こした彼は、ゼルヴェディウスの薄い寝間着を羽織っていた。

昨夜、寒いと言ったところ、魔王が自分の上着を貸してくれた。


当然、少し大きい。


襟元から覗く首筋に、ゼルヴェディウスの視線が吸い寄せられる。


「……リュシェ。実に美しい」


「お前、今それ言う場面か?」


「昨夜も美しかったが――」


「宰相の前で何言い出すんだ!!」


宰相は静かに天井を仰いだ。

三千の敵兵より、この二人のほうがよほど厄介だった。


*


人間界から派遣された勇者奪還軍は、魔王城の正門前に陣を敷いていた。


白銀の鎧をまとった騎士たちが整然と並び、その背後には魔術師部隊と弓兵隊が控えている。

風に翻る旗には、人間諸国の紋章が刺繍されていた。


軍勢の先頭に立つのは、王国騎士団長ガレス・アーヴィング。


リュシェルトが勇者として旅立つ前から世話になっていた、厳格で実直な男だ。


「魔王ゼルヴェディウス!!」


ガレスの声が、魔力によって城壁全体へ響き渡った。


「我らは勇者リュシェルトを奪還するために参った! 貴様が我らの希望を監禁していることは、すでに承知している!」


城壁の上で、リュシェルトが顔を覆った。


「……最悪だ」


隣ではゼルヴェディウスが腕を組んでいる。


「リュシェ。知り合いか?」


「昔から世話になってる騎士団長だよ」


「ほう。お前の恩人か」


「ああ。だから絶対に殺すなよ」


「承知した」


「本当だな?」


「お前の大切な者なら、俺も大切にしよう」


その言葉に、リュシェルトは一瞬だけ目を見開いた。


以前のゼルヴェディウスなら、人間軍が現れた時点で魔法の一つも放っていただろう。

それが今は、自分の言葉を聞いてくれる。


「……ありがとな」


小さく礼を言うと、魔王の紅い瞳が輝いた。


「リュシェ。今、俺に感謝を――」


「記念日にすんなよ!!」


「まだ何も言っておらん」


「顔に書いてある!!」


そのやり取りを見上げていた人間軍は、困惑していた。


魔王が勇者を抱き寄せている。

しかも、勇者が魔王の胸を叩いている。


だが、魔王は怒るどころか、ひどく幸せそうに笑っていた。


「……団長」


副官が震える声で尋ねた。


「あれは、何かの拷問でしょうか」


「……おそらく、精神支配だ」


「しかし勇者殿が、魔王に怒鳴っておられます」


「高度な精神支配だ」


「魔王が嬉しそうですが」


「……極めて高度な精神支配だ」


ガレスは額の汗を拭った。

自分が知っている魔王討伐というものは、こんな光景ではなかったはずだ。


*


「リュシェルト!!」


城門前へ降り立った勇者を見て、ガレスが駆け寄った。


「無事だったか!」


「ああ。心配かけたな」


「よくぞ生きていてくれた……!」


大柄な騎士団長が、感極まったようにリュシェルトの肩を掴む。


その姿を見て、ゼルヴェディウスの眉が僅かに動いた。


恋人の肩に、他の男の手が。

しかも両手。


「…………」


背後に控えていた宰相が、小声で囁いた。


「陛下。嫉妬で戦争を始めないでくださいませ」


「始めぬ」


「今、魔力が漏れております」


「……少しだけだ」


「少しで城壁が震えております!!」


そんな魔王軍の事情など知らないガレスは、真剣な表情でリュシェルトを見つめた。


「さあ、帰ろう。皆がお前を待っている」


「……ガレス」


「魔王の呪縛から解放されたのだろう? ならば、我々とともに――」


「違う」


リュシェルトは静かに首を振った。


「俺は、誰にも操られてない」


「……何?」


「自分の意思で、ここにいる」


ガレスの表情が強張った。


「……まさか、お前」


リュシェルトは一度、背後の魔王を振り返った。


黒髪に紅い瞳。

かつて倒すべき敵だった男。

今は、誰よりも大切な恋人。


「……俺は、ゼルヴェディウスが好きだ」


沈黙。


三千の兵士が固まった。

宰相が目を閉じた。

ゼルヴェディウスは胸を押さえた。


「……リュシェ」


「今は黙ってろ!!」


「だが、お前が皆の前で俺への愛を――」


「黙れっつってんだろ!!」


ガレスはゆっくり剣を抜いた。


「……やはり、精神支配か」


「だから違うって!!」


「勇者が魔王を愛するなど、あってはならん!」


その言葉に、リュシェルトの表情が変わった。

先ほどまでの照れも困惑も消える。


青い瞳に、鋭い光が宿った。


「……あってはならない?」


「ああ。魔王は世界の敵だ。お前は、その魔王を倒すために選ばれた勇者なのだぞ」


リュシェルトは静かに息を吸った。


「……じゃあ、聞くけどさ」


「何だ」


「俺が魔王を倒したら、どうなる?」


「世界に平和が訪れる」


「俺は?」


「……何?」


「俺は、どうなるんだよ」


ガレスが眉を寄せた。


「もちろん、お前は英雄として――」


「死ぬんだよ」


その言葉に、空気が凍った。


「……何を」


「聖剣の契約だ。魔王を殺した瞬間、勇者の命も失われる」


リュシェルトは、腰に下げた聖剣へ手を置いた。


「俺は、魔王を倒すために選ばれた。でも、倒したあとの俺の人生なんて、最初から用意されてなかったんだ」


「……そんな馬鹿な」


「俺もそう思った」


リュシェルトは苦笑した。


「俺だって、帰りたかったんだよ。魔王を倒して、皆のところへ帰って、くだらない話して、普通に飯食ってさ」


声が、少しだけ震えた。


「……生きて帰りたかった」


ガレスの顔から血の気が引いた。

周囲の騎士たちも、誰一人として言葉を発しない。


リュシェルトは、その沈黙を破るように続けた。


「でも、それを知ってた奴がいた」


彼はゼルヴェディウスを振り返った。


「三年前から、俺を生かす方法を探してた馬鹿がいたんだよ」


魔王は何も言わなかった。

ただ、静かにリュシェルトを見つめていた。


「……魔王が?」


ガレスの声が掠れる。


「そうだよ」


「なぜ……?」


リュシェルトは少しだけ笑った。


「俺が好きなんだってさ」


「…………」


「六百年生きてるくせに、恋愛経験だけは絶望的で、国家予算の使い方もおかしくて、毎日記念日を増やそうとする、とんでもねえ馬鹿魔王だけど」


「……リュシェ」


「でも、俺を死なせたくないって、ずっと戦ってくれてた」


ゼルヴェディウスの紅い瞳が、僅かに揺れた。


*


「……それでも」


ガレスは剣を握り締めた。


「それでも、お前は勇者だ。人間を守る使命がある」


「ああ」


リュシェルトは頷いた。


「わかってる」


そして、一歩前へ出た。


「だから、俺は人間を見捨てない」


青い瞳が、三千の軍勢を見渡す。


「魔族も見捨てない」


背後に控える魔王軍の兵士たちが、息を呑んだ。


「俺は、魔王を好きになったからって、人間を裏切るつもりはねえ」


その声は、次第に強くなっていった。


「俺が守りたいのは、人間だけじゃない。魔族だけでもない。目の前で困ってる奴がいたら、種族なんか関係なく助ける。それが、俺の勇者としての誇りだ」


ガレスが目を見開いた。

リュシェルトは、まっすぐに剣を抜いた。


白銀の刀身が、陽光を受けて輝く。


「俺は人間を救う。魔族も救う」


一度、背後のゼルヴェディウスを振り返る。

魔王は、静かに彼を見つめていた。


「ついでに、この馬鹿魔王も救う」


リュシェルトは、力強く笑った。


「文句あるか!!」


その声は、魔王城の城壁を越え、広い平原へ響き渡った。


誰も動かなかった。


人間も、魔族も。

ただ目の前の勇者を見つめていた。


最初に動いたのは、魔王軍の若い兵士だった。


「……勇者様」


彼は、震える声で呟いた。


「……俺たちも、救ってくださるんですか」


リュシェルトは迷わず頷いた。


「当たり前だろ」


「……俺たち、魔族ですよ」


「知ってるよ」


「人間の敵だって……」


「お前、俺に何かしたか?」


「……いえ」


「じゃあ、敵じゃねえだろ」


若い兵士の目から、涙が溢れた。


「……勇者様あああ!!」


その声をきっかけに、魔王軍のあちこちから嗚咽が漏れ始めた。


「なんというお方だ……!」


「我々まで救うと……!」


「魔王陛下が惚れるわけだ……!」


ぱち、ぱち。

小さな拍手が聞こえた。


人間軍の一人だった。

続いて、もう一人。

また一人。


やがて拍手は、三千の兵士たちへ広がっていった。

ガレスは剣を下ろした。


「……リュシェルト」


「なんだよ」


「お前は……本当に、強くなったな」


リュシェルトは照れくさそうに笑った。


「……昔から強かっただろ」


「そうだな」


ガレスも、少しだけ笑った。


「だが、今のお前は……私が知っている誰よりも、勇者らしい」


その言葉に、リュシェルトの胸が熱くなった。


*


「……リュシェ」


背後から、低い声がした。

振り返るとゼルヴェディウスが立っていた。


その紅い瞳には涙が浮かんでいた。


「……おい」


リュシェルトは嫌な予感を覚えた。


「……お前、まさか」


「……俺の恋人は」


「待て」


「……世界一、格好いい」


「待てって!!」


魔王は泣いた。


魔界の絶対君主が、三千の人間軍と数千の魔王軍の前で堂々と。


「……リュシェ。愛している」


「お前が泣くなああああ!!」


ゼルヴェディウスはリュシェルトを抱きしめた。

その腕には、いつもの強引さがなかった。


ただ、愛する男を誇りに思う気持ちだけがあった。


「……お前は、本当に美しいな」


「……顔の話かよ」


「違う」


ゼルヴェディウスは首を振った。


「お前の心が、だ」


その言葉に、リュシェルトは何も言えなくなった。

魔王はそっと額を寄せる。


「……俺は、三年前からお前を愛していた」


「……知ってる」


「だが、今日、また恋をした」


リュシェルトの耳が赤くなる。


「……馬鹿」


「何度でも、お前に恋をするのだろうな」


「……そういうこと、人前で言うな」


「では、二人きりならよいか?」


「……あとでな」


ゼルヴェディウスの表情が輝いた。


「……約束だぞ」


「……ああ」


その返事に、魔王は心底幸せそうに微笑んだ。


*


魔王城の寝室には、静かな月光が差し込んでいた。


リュシェルトは寝台に腰掛け、窓の外を眺めていた。


昼間の騒動が嘘のように、城は静まり返っている。


人間軍は一時的に武装を解き、魔王軍と協議の場を設けることになった。


まだ和平ではない。

けれど、確かに何かが変わり始めていた。


「……リュシェ」


背後から声がした。

振り返ると、ゼルヴェディウスが立っていた。


黒い寝間着の襟元が僅かに開き、紅い瞳が柔らかな光を宿している。


「……約束を覚えているか」


「……何の」


「二人きりになったら、という約束だ」


リュシェルトは顔を赤くした。


「……覚えてるよ」


ゼルヴェディウスが近づく。

その指が、銀白色の髪を優しく梳いた。


「……触れてもよいか?」


「……恋人だろ、俺たち」


「それでも、聞きたい」


その言葉に、リュシェルトは小さく笑った。


「……いいよ」


唇が重なった。


昼間の喧騒も、三千の軍勢も、世界の運命も、今だけは遠く感じられた。


ゼルヴェディウスの腕が腰へ回り、リュシェルトは自分からその首へ腕を絡める。


「……リュシェ」


「……ん」


「愛している」


「……知ってる」


「何度でも言わせてくれ」


「……好きにしろ」


もう一度、唇が重なる。

今度は少し長く、互いの存在を確かめるように。


やがてリュシェルトは魔王の胸へ額を寄せた。


「……なあ、ゼルヴェディウス」


「なんだ」


「俺たち、ちゃんと生き残ろうな」


魔王の腕に、僅かに力が籠もる。


「……ああ」


「世界も救って、お前も救って、俺も生き残る」


「……必ず」


「そしたら……」


リュシェルトは少しだけ言葉を詰まらせた。


「……そのときは、結婚の話、もう一回してもいいぞ」


沈黙。

ゼルヴェディウスの呼吸が止まった。


「…………リュシェ?」


「……だから、全部終わったらだよ!!」


「……本当に?」


「何回聞くんだ!!」


「……結婚を?」


「まだ決めてねえ!!」


「……俺と?」


「他に誰がいるんだよ!!」


魔王は、その場に膝をついた。


「……幸福すぎる」


「だからまだ何も終わってねえんだって!!」


その日の魔王軍公式記録には、次のように記された。


《人間軍三千、魔王城へ到着》

《勇者様、両種族の救済を宣言》

《人間軍および魔王軍、暫定的な停戦協議を開始》

《魔王陛下、勇者様の演説に感涙》

《勇者様、将来的な婚姻協議の可能性を示唆》

《魔王陛下、感激により翌日の政務不能》


宰相は最後の一行を見て、深く溜息をついた。


「……世界が救われても、私の胃は救われないのでしょうな」


※


しかしその夜、魔王城の遥か上空では、誰にも気づかれぬ異変が起きていた。


雲の向こうに、巨大な光の輪が浮かび上がる。


そこから、冷たい声が響いた。


《勇者リュシェルト》

《汝は、与えられた使命を逸脱した》

《魔王を討て》

《さもなくば、世界そのものを滅ぼす》


光の輪から、無数の鎖が伸びた。


それはまるで、世界そのものが勇者を縛りつけようとしているかのようだった。


眠るリュシェルトの傍らでゼルヴェディウスだけが、その声を聞いていた。


魔王は静かに目を開いた。

紅い瞳が、冷たく細められる。


「……ようやく姿を現したか」


腕の中では、リュシェルトが穏やかに眠っている。

ゼルヴェディウスは、その銀白色の髪へそっと口づけた。


「……安心しろ、リュシェ」


低い声が、夜の静寂へ溶けていく。


「今度こそ、俺が終わらせる」


――第11話『魔王は勇者を殺せない。勇者も魔王を殺せない。』へ続く。

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