第11話 魔王は勇者を殺せない。勇者も魔王を殺せない。
魔王ゼルヴェディウスが六百年の生涯で最も恐れたものは、神でも、死でも、世界の終焉でもなかった。
勇者リュシェルトのいない明日だった。
そして現在、その勇者は魔王城の執務室で、世界の存亡を左右する作戦会議の真っ最中だというのに、盛大に怒鳴っていた。
「だから!! なんで俺の遺書が用意されてんだよ!!」
「念のためだ」
「縁起でもねえ!!」
「お前には万一のことがあってはならん。だから俺が――」
「お前の遺書もあるじゃねえか!!」
リュシェルトが机へ叩きつけた二通の封書には、それぞれ《勇者リュシェルト殿へ》《魔王ゼルヴェディウス陛下へ》と記されていた。
問題は、両方ともゼルヴェディウスの筆跡であることだった。
「……お前、俺の遺書まで代筆したのか?」
「お前に書かせるのは酷だろう」
「死ぬ前提で話を進めるな!!」
宰相は無言で書類を回収した。
世界の根源にある古代神殿へ向かうことが決まってから、魔王陛下は著しく情緒が不安定になっている。
勇者が三分間視界から消えれば捜索隊を編成し、五分間返事がなければ魔力探知を発動し、昨夜などは「最後になるかもしれぬ」と言って寝台の中でリュシェルト抱きしめて離さなかったらしい。
その話を聞かされた宰相は、別の意味で死を覚悟した。
「陛下。神殿の調査結果が出ております」
ようやく本題へ戻した宰相が、古びた羊皮紙を広げる。
そこには、白と黒の魔力が複雑に絡み合う紋章が描かれていた。
「聖剣の契約は、勇者と魔王の命を対価として維持されております。契約を破壊すれば、勇者殿は神から授かった加護を失い、陛下もまた魔王としての力の大半を失う可能性がございます」
「構わん」
ゼルヴェディウスは即答した。
「俺の力など、すべてくれてやる」
「構うわ!!」
リュシェルトが机を叩く。
「お前、また一人で全部背負うつもりか!?」
「だが、お前の命には代えられん」
「俺だって、お前の命には代えられねえんだよ!!」
その言葉に、ゼルヴェディウスが黙った。
リュシェルトは一度深呼吸すると、真っ直ぐに紅い瞳を見つめた。
「……一緒にやるって、約束しただろ」
魔王はしばらく彼を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……ああ。そうだったな」
宰相は胸を撫で下ろした。
ようやく話がまとまった。
そう思った直後。
「では、出発前に結婚式を――」
「しねえよ!!」
「万一に備えて、せめて婚約だけでも」
「死亡フラグを増やすなあああ!!」
宰相は胃薬を飲んだ。
これが最後の一瓶になることを祈りながら。
*
古代神殿は、人間界と魔界の境界にある、地図にも記されていない谷底に存在した。
空を覆う雲は不自然なほど白く、風のない谷には、幾千年ものあいだ誰にも踏み荒らされなかった石段が続いている。
神殿の入口には、巨大な天秤の彫刻があった。
片方には聖剣を掲げる勇者。
もう片方には、鎖に繋がれた魔王。
その足元には、古代文字が刻まれていた。
《光は闇を討ち、闇は光の礎となる》
リュシェルトは眉を寄せた。
「……気に入らねえな」
「同感だ」
ゼルヴェディウスは彫刻を見上げた。
「最初から、どちらかが死ぬように作られている」
「しかも、魔王は鎖で縛られてる」
「勇者も剣を握らされているな」
リュシェルトは、その言葉に目を見開いた。
確かに、彫刻の勇者は聖剣を掲げている。
だが、よく見ればその手首にも細い鎖が巻きついていた。
「……どっちも自由じゃなかったってことか」
「そういうことだろう」
ゼルヴェディウスが静かに答える。
「この契約は、人間と魔族の戦争を終わらせるためのものではない。互いを憎み続けるよう、役割を固定するためのものだ」
リュシェルトは拳を握った。
勇者は魔王を殺す。
魔王は勇者を殺す。
そのどちらかが果たされるまで、戦いは終わらない。
世界は、そういう仕組みにされていた。
「……ふざけんな」
リュシェルトは聖剣を抜いた。
白銀の刀身が、静かな谷に青い光を放つ。
「俺たちは、誰かに殺し合わされるために生まれたんじゃねえ」
その言葉に、ゼルヴェディウスは微笑んだ。
「……ああ」
そして、二人は神殿へ足を踏み入れた。
*
神殿の最奥には、巨大な光の輪が浮かんでいた。
床には無数の魔法陣が刻まれ、中央には白い祭壇が置かれている。
その上に、一本の剣の形をした光があった。
リュシェルトの聖剣とまったく同じ形だった。
《勇者リュシェルト》
突然声が響いた。
男とも女ともつかない、感情のない声。
《汝は使命を逸脱した》
リュシェルトは剣を構えた。
「……お前が、神か」
《我は契約の管理者。世界の均衡を保つ者》
「随分と勝手な均衡だな」
《勇者は魔王を討つために存在する》
「違う」
リュシェルトは即答した。
「俺は、誰かを守るために勇者になった」
《魔王を愛することは、勇者の使命に反する》
「……だったら、その使命が間違ってる」
ゼルヴェディウスが隣へ並ぶ。
「聞いたか。俺の恋人は、実に格好いいだろう」
「今それ言うな!!」
《魔王ゼルヴェディウス。汝もまた、定められた役割を逸脱した》
「知ったことか」
魔王の紅い瞳が冷たく細められる。
「俺は六百年、魔界を統べてきた。だが、たった一人の男を愛することすら許されぬ世界なら、その理など不要だ」
《契約を破棄すれば、双方は力を失う》
「構わん」
《魔王は、その魔力の大半を失う》
「構わん」
《勇者は、神の加護を失う》
「上等だ」
リュシェルトは笑った。
「そんなもんがなくたって、俺は俺だ」
その瞬間、祭壇の光が激しく揺れた。
《ならば、証明せよ》
神殿全体が震えた。
床の魔法陣から、白い鎖が無数に伸びる。
それらはリュシェルトの手足へ絡みつき、同時にゼルヴェディウスの身体を縛り上げた。
「……っ!?」
聖剣が強烈な光を放つ。
リュシェルトの右手が勝手に持ち上がった。
剣先が、ゼルヴェディウスの胸へ向けられる。
「……おい、待て……!」
身体が動かない。
指が開かない。
腕が、意思に反して前へ伸びる。
《勇者は魔王を討つ》
声が響く。
《それが、世界の定め》
「……ふざけんな……!」
リュシェルトは歯を食いしばった。
聖剣が震える。
一歩、また一歩。
勝手に足が動く。
ゼルヴェディウスは鎖に縛られたまま、静かに彼を見つめていた。
「……リュシェ」
「……逃げろ……!」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃねえだろ!!」
剣先が、魔王の胸元へ近づく。
リュシェルトの瞳から、涙が零れた。
「……嫌だ……!」
世界を救うために握った剣だった。
誰かを守るために振るってきた剣だった。
それが今、最も大切な人間を殺そうとしている。
「……俺は、お前を殺したくない……!」
ゼルヴェディウスは微笑んだ。
「……知っている」
「……だったら……!」
「俺も、お前を死なせたくない」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「……だから、終わらせよう」
次の瞬間、ゼルヴェディウスの身体から膨大な黒い魔力が溢れた。
白い鎖が軋み、神殿の柱に亀裂が走る。
《警告。魔王の魔力が契約領域を侵食》
「……リュシェ」
魔王が手を伸ばした。
「俺を信じろ」
リュシェルトは、涙に濡れた青い瞳でその手を見つめた。
そして聖剣を握り直した。
「……当たり前だろ」
白銀の刀身が、眩い光を放つ。
「俺たちは、二人で生き残るんだ!!」
聖剣が、祭壇へ振り下ろされた。
同時に、ゼルヴェディウスの黒い魔力が光の輪を貫く。
白と黒。
相反するはずの二つの力が、初めて同じ方向へ向けられた。
《契約破棄、確認》
《勇者の加護、消失》
《魔王の魔力、消失》
《世界均衡、再構築》
神殿が、白い光に包まれた。
*
リュシェルトが目を覚ましたとき、神殿は崩れかけていた。
天井から砂が落ち、床には無数の亀裂が走っている。
身体が重い。
聖剣は、ただの銀色の剣になっていた。
あれほど身近に感じていた神の加護も、今はどこにもない。
けれどそんなことはどうでもよかった。
「……ゼルヴェディウス?」
返事がない。
リュシェルトはゆっくり身体を起こした。
数歩先に、黒い影が倒れていた。
「……おい」
駆け寄る。
黒髪が瓦礫に散らばり、胸元の紅玉は砕けている。
顔色が、異様に白かった。
「……ゼルヴェディウス?」
肩を揺する。
返事がない。
「……おい、起きろよ」
リュシェルトは震える手で、魔王の頬へ触れた。
冷たい。
いつも自分を抱きしめてくれた腕も、頬へ触れてくれた指も、今は動かなかった。
「……ふざけんなよ」
声が震えた。
「……約束しただろ」
魔王の胸へ耳を当てる。
鼓動が、聞こえない。
「……おい……!」
リュシェルトは必死に胸元を押さえた。
治癒魔法を使おうとする。
けれど、何も起きない。
神の加護は、もうない。
「……くそっ……!」
涙が、頬を伝った。
「……世界を救ったんだぞ……!」
リュシェルトはゼルヴェディウスの身体を抱きしめた。
百九十センチを超える大きな身体が、今は驚くほど重かった。
「……今度こそ……」
声が掠れる。
「……今度こそ、お前と普通に幸せになってもいいだろ……!」
涙が止まらなかった。
勇者になった日から、ずっと誰かのために生きてきた。
自分の命を削っても、人々を守ることが正しいのだと思っていた。
けれど今は違う。
自分だって幸せになりたかった。
この男とくだらないことで喧嘩して。
毎朝、馬鹿みたいな口説き文句を聞かされて。
国家予算の使い方に怒鳴って。
夜になったら、同じ寝台で眠って。
そんな、どうしようもなく普通の毎日が欲しかった。
「……頼むから……」
リュシェルトは、ゼルヴェディウスの額へ唇を寄せた。
「……俺を、一人にすんなよ……」
長い沈黙。
崩れゆく神殿に、砂の落ちる音だけが響いた。
そして。
「……リュシェ」
かすかな声がした。
リュシェルトは息を止めた。
「…………は?」
腕の中で、ゼルヴェディウスが薄く目を開けていた。
「……今のは」
「……お前……」
「……求婚、ということでよいのか?」
「…………」
「俺と普通に幸せになりたい、と……」
次の瞬間。
「馬鹿野郎おおおおお!!」
リュシェルトの拳が、魔王の胸を叩いた。
「痛っ……!」
「死んだかと思っただろ!!」
「……すまぬ」
「すまぬじゃねえ!!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、リュシェルトはゼルヴェディウスの襟を掴んだ。
「……二度と、こんなことすんな……!」
魔王は静かに微笑んだ。
「……ああ」
「……絶対だぞ……」
「……約束する」
リュシェルトは、その胸へ顔を埋めた。
今度は、確かに鼓動が聞こえた。
弱く、けれど確かな、生きている音。
ゼルヴェディウスは震える手を持ち上げ、銀白色の髪を優しく撫でた。
「……リュシェ」
「……なんだよ」
「……愛している」
「……知ってる……」
「……お前と、生きたい」
その言葉に、リュシェルトはもう一度泣いた。
今度は、笑いながら。
*
数日後。魔王城中央執務室。
宰相は、机の上に置かれた書類を見つめていた。
《古代契約破棄、成功》
《勇者リュシェルト、神の加護を喪失》
《魔王ゼルヴェディウス、魔力の大半を喪失》
《人間界・魔界間の強制的敵対契約、消滅》
《両種族、正式和平交渉を開始》
すべて、歴史的な出来事だった。
世界は救われた。
勇者も生き残った。
魔王も、無事に帰還した。
宰相は、静かに涙を拭った。
「……よかった。本当に、よかった……」
そのとき。
「宰相」
ゼルヴェディウスが入室した。
「はい、陛下」
「結婚式の準備を始める」
「…………」
「世界が救われたのだ。盛大に祝わねばならん」
「……はい?」
「国家予算三年分を投入する」
宰相は、ゆっくり目を閉じた。
世界は救われた。
勇者も救われた。
魔王も救われた。
しかし自分の胃だけは、救われなかった。
「陛下あああああ!!」
その絶叫を聞きつけ、リュシェルトが廊下から顔を出した。
「……今度は何だよ」
「勇者殿!! 陛下が結婚式に国家予算三年分を――」
「はああああ!?」
ゼルヴェディウスは満足そうに微笑んだ。
「リュシェ。ようやくお前と結婚できるな」
「まだ了承してねえだろ!!」
「だが、神殿で求婚を――」
「あれは求婚じゃねえ!!」
「俺と普通に幸せになりたいと」
「言ったけど!!」
「では、結婚だな」
「話が飛躍しすぎなんだよ!!」
魔王は嬉しそうに笑った。
「……愛している、リュシェ」
リュシェルトは真っ赤になった。
そして、腰の剣へ手を伸ばす。
かつて世界を救う力を宿していた聖剣は、今ではただの剣だった。
それでも、彼は迷わず抜いた。
「いい加減にしろ、この馬鹿魔王!!」
ゼルヴェディウスは笑った。
魔力の大半を失っても、六百年の威厳が少しばかり減っても、愛する勇者に怒鳴られる幸福だけは、何ひとつ変わらなかった。
なお、その日の魔王軍公式記録には、こう記された。
《世界救済、完了》
《魔王陛下および勇者様、生存確認》
《婚姻準備、開始》
《宰相、辞表提出を検討》
そして最後に、誰が書いたとも知れない一文が添えられていた。
《勇者は世界を救った。魔王は勇者を救った。そして二人は、互いの人生を救った》
――最終話『魔王を倒した勇者、結局魔王の嫁になる。』へ続く。




