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最終話 魔王に倒された勇者、結局魔王の嫁になる。

世界を救った勇者リュシェルトは、魔王城から姿を消した。


もっとも、誘拐でも失踪でもない。

故郷へ帰ったのだ。


古代契約の破棄によって人間と魔族を争わせていた強制的な宿命は消え、両種族の和平条約も正式に締結された。

人間界では祝祭が続き、かつて魔王討伐のために旅立った青年は、今や世界を救った英雄として迎えられていた。


そして、その英雄の恋人である魔王ゼルヴェディウスはというと。


「……リュシェがいない」


魔王城の執務室で、死にそうな顔をしていた。


「存じております」


宰相は淡々と書類をめくった。


「……もう三日だ」


「本日で三日目でございます」


「……長い」


「わずか三日でございます」


「六百年生きてきたが、これほど長い時間を過ごしたことはない」


「昨日も一昨日も同じことをおっしゃっておりました」


ゼルヴェディウスは深いため息をついた。


黒と深紅の豪奢な衣装をまとい、紅い瞳を伏せるその姿は、事情を知らなければ魔界の存亡を憂う絶対君主に見えただろう。


実際には、恋人が三日間帰省しているだけなのだ。


「……宰相」


「はい」


「人間界まで迎えに行ってもよいだろうか」


「勇者殿は三日後に戻るとおっしゃいました」


「今日が三日目だ」


「夕刻まではお待ちください」


「……夕刻」


魔王は絶望したように天井を仰いだ。

宰相は胃薬を飲んだ。


世界は救われた。

戦争も終わった。


それなのに、自分の職場環境だけが一向に改善されない。


「……せめて、帰還を祝う式典の準備を」


「すでに三種類の式典案を却下しております」


「では、四つ目を」


「おやめください!!」


そのときだった。


執務室の扉が、勢いよく開いた。


「おーい、帰ったぞ!」


聞き慣れた声が響いた。


銀白色の短髪に、澄んだ青い瞳。旅装束の上から白い外套を羽織り、腰には神の加護を失った聖剣を下げている。


勇者リュシェルトだった。


ゼルヴェディウスが、ゆっくり顔を上げる。


「…………リュシェ?」


「なんだよ、その顔。三日で帰るって言っただろ」


魔王は立ち上がった。

椅子が倒れた。

書類が舞った。

宰相が悲鳴を上げた。


そして次の瞬間、ゼルヴェディウスはリュシェルトを抱きしめていた。


「……リュシェ!!」


「うおっ!? おい、苦しい!!」


「帰ってきたのか……!」


「帰ってきたって言ってんだろ!!」


「……本当に?」


「幻覚に見えるなら医者呼んでやるよ!!」


ゼルヴェディウスは腕の力を緩め、リュシェルトの顔を覗き込んだ。


紅い瞳が、ひどく優しく細められる。


「……おかえり、俺の勇者」


その声を聞いた瞬間、リュシェルトの胸が温かくなった。


故郷でも、たくさんの人々が帰還を喜んでくれた。

英雄だと讃えられ、祝福され、何度も抱きしめられた。


それは嬉しかった。


けれどこの男の「おかえり」を聞いて、ようやく本当に帰ってきたのだと思えた。


「……ただいま、ゼルヴェディウス」


リュシェルトは照れくさそうに笑い、自分から魔王の背へ腕を回した。


その瞬間、ゼルヴェディウスが膝を折った。


「……幸福すぎる」


「立て!! 帰宅早々倒れるな!!」


*


魔王城で結婚式の準備が始まったのは、その翌朝だった。


正確には、魔王が勝手に始めた。


「国家予算三年分を投入する」


「しません!!」


宰相の絶叫が、会議室に響き渡った。


円卓には魔王軍四天王が勢揃いしている。


炎の四天王グランディスは腕を組み、氷の四天王セレスティアは優雅に紅茶を飲み、闇の四天王ノクスは無言で資料を眺めていた。

風の精霊王シルフィードに至っては、すでに花嫁衣装の意匠案を百種類ほど用意している。


「陛下! 盛大な婚礼ならば、魔界の山を二つ砕いて巨大な祝祭広場を造りましょう!」


「山を砕くな!!」


「では、勇者様へ国を一つ贈呈するのはいかがでしょう」


「ノクス!! お前も黙れ!!」


「三日間、陛下が勇者様を無視なされば、婚礼への期待が高まるかもしれませんわ」


「セレスティア、俺が死ぬ」


「またかよ! 三日で死ぬ魔王がどこにいるんだよ!!」


リュシェルトの怒鳴り声が響く。


その横では、シルフィードが真剣な顔で衣装案を広げていた。


「勇者様、こちらの背中が大きく開いた婚礼衣装など――」


「却下!!」


「では、胸元が開いたものを」


「もっと却下!!」


「陛下は喜ばれると思いますが」


「本人の前で言うな!!」


ゼルヴェディウスは資料を覗き込み、深く頷いた。


「……実に美しい」


「お前も見るな!!」


宰相は静かに頭を抱えた。


和平交渉では、人間側の王族と魔族の重臣が互いに譲歩し、わずか数日で条約の骨子がまとまった。


それなのに、魔王陛下の結婚式だけは、三日経っても予算案すら通らない。


「……勇者殿」


宰相は縋るようにリュシェルトを見た。


「どうか、陛下をお止めください」


リュシェルトは深いため息をつき、ゼルヴェディウスの前に立った。


「……なあ」


「なんだ、リュシェ」


「俺、お前と結婚するために帰ってきたんだぞ」


沈黙。

会議室が凍りついた。

ゼルヴェディウスの紅い瞳が、大きく見開かれる。


「…………今、何と?」


「だから、結婚するために――」


「……俺と?」


「他に誰がいるんだよ!!」


魔王は胸を押さえた。


「……リュシェ」


「なんだよ」


「……もう一度」


「言わねえ!!」


「頼む。一生のお願いだ」


「お前の一生のお願い、これで何回目だ!?」


ゼルヴェディウスは、その場に膝をついた。

宰相が叫んだ。


「陛下!! まだ予算会議の途中でございます!!」


しかし、魔王は聞いていなかった。


「……リュシェが、俺と結婚してくれる……」


「……ああ」


「……本当に?」


「……本当だよ」


リュシェルトは耳まで赤くなりながら、そっと手を差し出した。


「だから、そんな大金使わなくてもいい。俺は、お前と一緒にいられれば、それでいいんだよ」


ゼルヴェディウスは、その手を取った。

そして、深く息を吐いた。


「……わかった」


宰相の顔が輝いた。


「陛下……!」


「国家予算三年分はやめよう」


「ありがとうございます!!」


「では、二年分で――」


「減額幅がおかしい!!」


リュシェルトは元聖剣を抜いた。

なお、魔王は嬉しそうだった。


*


結婚式は、魔王城の大聖堂で執り行われた。


人間界と魔界の両方から招待客が集まり、かつて敵同士だった騎士と魔族の兵士が、同じ長椅子に並んで座っている。


天井からは白い花が降り注ぎ、ステンドグラスには二つの月と太陽が描かれていた。


祭壇の前に立つゼルヴェディウスは、黒と深紅の礼装をまとっていた。

その胸元には、リュシェルトが選んだ小さな銀の飾りが留められている。


六百年の魔王にしては、驚くほど控えめな装飾だった。

理由は簡単だった。


「装飾品は三つまで」


と、勇者から厳命されていたからだ。


そして、扉が開いた。

リュシェルトが姿を現す。


白と銀を基調とした礼装に、淡い青の刺繍。

肩から流れる外套には、かつて勇者として旅した証である紋章が残されていた。


神の加護は失った。

けれど、その姿は誰よりも勇者らしかった。


ゼルヴェディウスは息を呑んだ。

三年前に初めて見たときも美しいと思った。


敵である魔族の兵士を庇い、誰にも命じられていないのに剣を抜いた青年。

あの日から、ずっと追いかけてきた。


殺されても構わないと思ったことさえある。

ただ、彼に生きていてほしかった。


そして今。

その青年が、自分の意思で歩いてくる。


自分の隣へ。


「……リュシェ」


ゼルヴェディウスの声が震えた。

リュシェルトは少しだけ笑った。


「……なんだよ。もう泣くなよ」


「……無理だ」


「は?」


「……美しすぎる」


魔王の頬を、涙が伝った。


「お前が泣くなああああ!!」


大聖堂に、勇者の絶叫が響き渡った。


参列者たちは笑った。

魔王軍四天王は泣いた。

宰相も泣いた。


ただし宰相の涙には、ようやく婚礼予算が確定したことへの安堵が多分に含まれていた。


*


誓いの言葉を交わす頃には、ゼルヴェディウスもどうにか落ち着きを取り戻していた。


祭壇の前で向かい合う二人へ、司祭が静かに問いかける。


「魔王ゼルヴェディウス。あなたは、リュシェルトを生涯愛し、尊重し、喜びも悲しみも分かち合うことを誓いますか」


「ああ。誓う」


魔王は即答した。

その声には、六百年の君主としての威厳があった。


「彼の自由を奪わず、その意思を尊び、どのような未来が訪れようとも、ともに歩むことを誓おう」


リュシェルトは目を見開いた。


かつて、この男は自分を閉じ込めた。

愛していると言いながら、自由を奪った。


けれど今は違う。

隣に立つことを、選ばせてくれる。


司祭がリュシェルトへ向き直った。


「勇者リュシェルト。あなたは、ゼルヴェディウスを生涯愛し、尊重し、喜びも悲しみも分かち合うことを誓いますか」


リュシェルトは、少しだけ息を吸った。


「……誓います」


青い瞳が、まっすぐに紅い瞳を見つめる。


「ただし、国家予算を勝手に使わないこと。記念日を増やしすぎないこと。俺が嫌がることはしないこと」


「……承知した」


「それから」


リュシェルトは微笑んだ。


「……俺が帰ってくる場所で、ずっと待っててくれ」


ゼルヴェディウスの表情が、再び崩れた。


「……リュシェ」


「だから泣くなって!!」


司祭は咳払いをした。


「……それでは、誓いの口づけを」


ゼルヴェディウスは、ゆっくりとリュシェルトの頬へ手を伸ばした。


「……よいか?」


その問いに、リュシェルトは小さく笑った。


「……今さら聞くなよ」


「それでも、聞きたい」


「……いいよ」


唇が重なった。

大聖堂に、祝福の鐘が鳴り響く。


かつて敵同士だった二人が、ようやく同じ未来を選んだ瞬間だった。


*


その夜。

魔王城最上階の寝室には、柔らかな月光が差し込んでいた。


巨大な天蓋付きの寝台。

二人分の枕。

窓辺に飾られた花束。


初めてここへ連れてこられた日の光景と、ほとんど変わらない。


ただ、一つだけ違う。

今夜、リュシェルトは自分の意思でここにいる。


「……懐かしいな」


寝台の端へ腰掛けたリュシェルトが、ぽつりと呟いた。


「最初にここへ連れてこられたとき、絶対に殺されると思ってた」


「……すまなかった」


「なのに、蓋を開けてみりゃ、豪華な寝室に花束に寝間着二人分だろ?」


ゼルヴェディウスは少し困ったように笑った。


「……喜んでもらえると思っていた」


「どんな思考回路してんだよ」


リュシェルトは呆れたように笑い、隣へ腰掛けた魔王を見つめた。


黒い寝間着の襟元から、鎖骨が覗いている。

かつては恐ろしいと思っていた紅い瞳も、今では自分だけを映す優しい色に見えた。


「……ゼルヴェディウス」


「なんだ?」


「……こっち来いよ」


魔王が僅かに目を見開いた。

リュシェルトはその手を取り、自分の頬へ導いた。


「……今日は、俺から」


そう言って、唇を重ねる。

ゼルヴェディウスの腕が、そっと腰へ回された。


「……リュシェ」


「……ん?」


「……本当に、俺のものになってくれるのか」


その言葉に、リュシェルトは少しだけ眉を上げた。


「……違うだろ」


ゼルヴェディウスが瞬く。

リュシェルトは、その胸へ手を置いた。


「俺は、お前のものじゃねえ」


「…………」


「……でも、お前の隣にいるって決めた」


魔王の紅い瞳が、静かに揺れた。


「……それじゃ、駄目か?」


ゼルヴェディウスは首を振った。


「……いいや」


そして、リュシェルトの額へ唇を寄せた。


「それが、何より嬉しい」


リュシェルトは小さく笑い、魔王の首へ腕を回した。


長い口づけのあと、二人は額を寄せ合った。


「……愛している、リュシェ」


「……知ってる」


「……これからも、何度でも言わせてくれ」


「……好きにしろ」


ゼルヴェディウスは微笑んだ。


「……触れてもよいか?」


リュシェルトは耳まで赤くなった。


「……夫婦だろ、俺たち」


「それでも、お前の意思を聞きたい」


その言葉に、リュシェルトは少しだけ目を伏せた。


そして、ゆっくり頷いた。


「……いいよ」


ゼルヴェディウスの指が、銀白色の髪を優しく梳いた。


頬へ、額へ、そして唇へ。

何度も、確かめるように口づけが落ちる。


リュシェルトはそのたびに小さく息を吐き、やがて自分から魔王の胸へ身体を預けた。


「……なあ、ゼルヴェディウス」


「なんだ、リュシェ」


「俺、結局お前に負けっぱなしじゃないか?」


ゼルヴェディウスは、静かに笑った。


「何を言う。俺は最初からお前に負けている」


「……は?」


「お前に恋をした時点で、俺の負けだ」


「…………」


リュシェルトは真っ赤になった。


そして、魔王の胸へ顔を埋める。


「……馬鹿魔王」


ゼルヴェディウスは、その銀白色の髪へ唇を寄せた。


「愛している、俺の勇者」


「……知ってるよ」


しばらくして、リュシェルトは顔を上げた。

青い瞳が、まっすぐに紅い瞳を見つめる。


「……俺も、愛してる」


ゼルヴェディウスが、完全に動きを止めた。


「…………」


「……おい?」


「…………」


「……ゼルヴェディウス?」


魔王は、その場に崩れ落ちた。


「……幸福すぎる」


「寝台の上で倒れるなああああ!!」


その夜、魔王城には、久しぶりに勇者の絶叫が響き渡った。


そして、そのあとには誰にも邪魔されない、穏やかな笑い声が続いた。


*


翌朝。

魔王城の正門には、新しい看板が掲げられていた。


《勇者討伐成功記念・新婚生活開始》


リュシェルトは、それを見た瞬間に固まった。


「…………」


隣では、ゼルヴェディウスが満足そうに微笑んでいる。


「どうだ、リュシェ。実に素晴らしいだろう」


「……お前」


「我々の新たな門出を祝うため、特別に制作させた」


「……誰が許可した」


「俺だ」


「お前以外の誰かに聞け!!」


魔王は少し考えた。


「……では、宰相に」


「すでに反対されている!!」


「ならば問題ないな」


「大問題だろ!!」


リュシェルトは深く息を吸った。


そして、元聖剣を抜いた。


かつて世界を救うために振るった剣。

今は、ただの銀色の剣。


けれど、その輝きは少しも失われていなかった。


「ゼルヴェディウス!!」


「なんだ、リュシェ」


「今すぐこの看板を撤去しろおおおお!!」


魔王は、嬉しそうに笑った。


「……今日も元気で何よりだ」


「お前のせいだよ!!」


その光景を見つめながら、宰相は静かに辞表を書いていた。


《退職理由:魔王陛下のご結婚に伴う、慢性的な胃痛および精神的疲労》


しかし、その辞表は提出されなかった。

なぜなら、リュシェルトが宰相の肩を叩き、こう言ったからである。


「……なあ、宰相」


「……はい、勇者殿」


「これからも、あの馬鹿のこと頼むな」


宰相は、しばらく黙っていた。

そして、静かに笑った。


「……承知いたしました、勇者殿」


その日の魔王軍公式記録には、次のように記された。


《魔王陛下、勇者リュシェルト様と正式に婚姻》

《人間界・魔界間の和平、恒久条約として締結》

《勇者様、魔王城への正式居住を開始》

《魔王陛下、幸福により政務効率が著しく低下》

《宰相、辞表提出を検討するも撤回》


そして最後に、一行。


《勇者は魔王を倒せなかった》

《魔王もまた、勇者を倒せなかった》

《けれど二人は、世界に定められた運命だけは、確かに打ち破った》


世界を救うために魔王を倒しに来た勇者は結局、魔王の嫁になった。


なお、魔王は今日も、世界で一番幸せそうだった。


――完。


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