噛み合わない記録
翌朝、日御子が館の廊下を歩いていると、前方から小さな黒い影が駆けてきた。
「にゃあ」
黒猫は一直線に日御子の足元まで来ると、当然のように身体を擦り寄せた。
「朝から、どちらへ行っていましたの?」
日御子がしゃがんで頭を撫でると、黒猫は満足そうに喉を鳴らした。やがて、くるりと向きを変え、数歩進んでは日御子を振り返る。
「どこかへ案内してくれますの?」
「にゃあ」
「分かりました。ついていきますの」
日御子は口元を緩め、黒猫のあとを追った。
◇
黒猫に導かれて館の外へ出たところで、訓練場から轟音が響いた。
日御子が駆けつけると、訓練場を囲む石壁の一部が崩れ、大きな亀裂が走っていた。周囲へ散った木片や枯れ草には、まだ炎が残っている。
訓練場の隅では、昨日も見かけた青年が、騒ぎにも目を向けず黙々と木刀を振り続けていた。
崩れた壁の前では、アイザックが何事もなかったように右手を振っていた。
「何をしていますの?」
「訓練に決まってんだろ」
「壁が壊れていますけど」
「ちょっと火力を間違えただけだ。事故ってやつだな」
「明らかに故意ですの」
日御子が呆れていると、背後から疲れ切った声が聞こえた。
「またですか……」
振り返ると、帳簿を抱えたふぉろんたいごが、壊れた壁を見て額を押さえていた。
「この壁を直すのに、いくらかかると思ってるんですか?」
「修行なんだから、しょうがないっす。強くなるための先行投資っすよ」
「では、今月のアイザックさんの食費を修繕費へ回しましょう。先行投資ということで」
「本当にすみませんでした!」
アイザックは光の速さで姿勢を正し、海よりも深く頭を下げた。
◇
近くで訓練を見ていた子供たちが、木剣を手にアイザックへ駆け寄ってきた。
「あいざっくー! 見て、今日は勝った!」
「そうか。偉い偉い」
返事は棒読みだった。それでも子供たちは嬉しそうに笑い、もっと褒めろと言わんばかりに木剣を掲げている。
「随分と懐かれていますの」
「違ぇよ。こいつらが勝手に寄ってくるだけだ」
そう言いながら、アイザックは近くの木箱から焼き芋を取り出し、子供たちへ一つずつ放り投げた。
歓声を上げる子供たちを眺めていた日御子も、期待を込めてアイザックへ視線を向ける。
「……私の分はありませんの?」
「お前も食うのかよ」
アイザックは呆れながらも、木箱からもう一つ取り出した。投げ渡された焼き芋を、日御子は慌てて受け止める。
「ありがとうございます」
「ガキんちょと同じ扱いだけどな」
「不本意ですの」
そう言いながら焼き芋を頬張る日御子の顔は、どこか幸せそうだった。
アイザックはリンゴを取り出すと、片手で一気に握り潰した。指の間から滴る果汁を、そのまま口へ流し込む。
「今、リンゴを握り潰しましたの?」
「こっちの方が早いだろ」
「握力がゴリラのそれですの……」
◇
焼き芋を食べ終える頃、黒猫は再び歩き出した。そのあとを追って裏庭へ回ると、もりやんが地面に片手をついていた。
低い振動とともに、荒れていた地面がゆっくりと形を変えていく。土が盛り上がって真っ直ぐな畝となり、埋まっていた石が畑の外へ押し出される。続いて細長い窪みが走り、畑へ水を引くための水路が出来上がった。
「畑を作っていましたの?」
「うん」
「とても便利な異能ですの」
「便利」
もりやんは満足そうに、整えられた畑を眺めた。
「昔は嫌いだった」
「そうなんですの?」
「子供の頃、地面を動かしたら家が傾いた。そのまま壊れた」
「それは……怒られますの」
「怒られた」
もりやんは手についた土を払い、静かに続けた。
「でも、今は好き。壊すだけじゃなくて、作れるから」
日御子は、出来上がった畝と水路を見つめた。同じ力でも、使い方によって残るものはまるで違う。
「私の《王域》は、周囲を見通す力ですの」
「それも便利そう」
「地形や人の動きは分かりますけど、それでお腹は膨れません。畑を作れる方が、生活には役立ちそうですの」
「畑は大事」
もりやんは、少しだけ得意げな顔をした。
◇
昼前になると、咲夜姫が日御子を資料室へ案内した。
「地図がお好きだと聞いたので、ここなら気に入っていただけると思います」
扉の向こうには本棚が並び、各地の地図や戦争記録、行政資料が年代ごとに整理されていた。室内には古い紙とインクの匂いが漂っている。
日御子の目が輝いた。
「素晴らしいですの……」
「こちらには現在の街道図、奥には各国の古地図があります。遺跡周辺の調査記録も保管していまして、特に第三期遺跡群から発見された石板が興味深いんですよ」
咲夜姫の声が急に弾み始めた。
「ヒノモト王国西部の大遺跡群は、ほかの遺跡とは明らかに規模が違います。建築様式にも複数の時代の特徴が混在していて――」
「急に早口になりましたの……」
日御子が小さく呟いた時、資料室の扉が開いた。
「咲夜姫さん。日御子さんを案内していたのでは?」
入ってきたポリアンナが、咲夜姫の手にある大量の資料を見て顔を引きつらせた。
「ちょうど良かったです。ポリアンナさんも、前回の続きを聞きませんか?」
「嫌です。以前、四時間も聞かされましたからね」
「まだ導入部分ですよ?」
「三時間で終わったと思ったら、そこまでが前置きでした」
「本題は、そこからなんです」
「日御子さん。この方に質問すると帰れなくなるので、気をつけてください」
「恐ろしいですの……」
「少し失礼では?」
咲夜姫だけが不満そうだった。
◇
仕事の残っていた咲夜姫をポリアンナが連れ出したあと、日御子は一人で地図を眺めていた。
街道図、地形図、古い都市の区画図。年代ごとの変化を見比べているだけで時間を忘れ、気づけば昼を大きく過ぎていた。
黒猫は机の端で丸くなり、退屈そうに欠伸をしている。
「見てください。この年代にはなかった道が、こちらでは新しく作られていますの。補給路として考えれば、とても合理的です」
「……にゃあ」
黒猫はまったく興味を示さなかった。
日御子が次の資料へ手を伸ばした時、一冊の古い帳簿が目に留まった。
ヒノモト王国の行政記録。
故郷の名を見つけ、自然と手が伸びる。帳簿を開き、帝国との開戦後の記録を読み進めた。
食料配給率は、戦争初期には百パーセント。五年目には八十パーセント、十年目には六十五パーセントまで落ちていた。戦争が長引き、国全体の食料が不足していたので、ここまでは理解できる。
日御子の手が止まったのは、その内訳を見た時だった。
民間配給率、六十五パーセント。
軍配給率、六十五パーセント。
貴族配給率、六十五パーセント。
王族配給率、六十五パーセント。
「……?」
日御子は、もう一度数字を確認した。
見間違いではない。配給率は、全て同じだった。
その意味を理解するより先に、頭へ鋭い痛みが走った。
「っ……!」
日御子は額を押さえた。内側から頭を締めつけられるような痛みに、思考が途切れる。
◇
「大丈夫ですか?」
背後から声をかけられ、日御子は肩を震わせた。
振り返ると、いつの間にかポリアンナが立っていた。
「突然現れないでください。驚きますの」
「すみません。何か、気になる資料でもありましたか?」
ポリアンナが机へ視線を向ける。
日御子は反射的に帳簿を閉じた。まだ自分でも整理できていない疑問を、誰かに知られたくなかった。
「変わった資料なら、こちらにありましたの」
近くに置いていた人口統計を取り、閉じた帳簿の上へ重ねる。
「血液型についての記録です。S型は、やはり珍しいようですの」
「S型の資料ですか。実は私、S型なんですよ」
ポリアンナが、どこか自慢げに言った。
「本当ですの?」
「ええ」
「父もS型でしたの」
「えっ?」
今度はポリアンナが目を瞬いた。
「それは珍しいですね。S型は滅多にいませんから」
「そうですの?」
「ただ、私の故郷には数人いたので、子供の頃はそれほど珍しいと思っていませんでした」
「一つの土地に何人もいたのですか?」
「ええ。ですが、故郷を出てからは一人も会ったことがありません」
「奇妙な偶然ですの」
日御子は小さく笑った。父のことを口にしたせいか、その笑みには僅かな寂しさが滲んでいた。
ポリアンナはその表情を静かに見つめたが、何も尋ねなかった。
「お邪魔しましたね。ごゆっくりどうぞ」
そう言って、資料室を出ていく。
日御子はその背中を見送った。
自分が何者なのか。なぜ帝国に狙われているのか。聞きたいことはいくらでもあるはずなのに、ポリアンナは何も聞いてこない。
まるで、日御子が自分から話す時を待っているかのようだった。
◇
その夜、日御子は客室の机に向かい、借りてきた行政記録を読み返していた。
民間、軍、貴族、王族。
全て六十五パーセント。
父は民を苦しめ、自分たち王族や貴族を優先していたはずだ。だが、この記録によれば、食料不足の負担は民だけに押しつけられていない。
「どうして、全て同じですの……?」
この数字は、日御子が知っている父の姿と噛み合わなかった。
父の顔を思い出そうとすると、胸の奥が痛んだ。憎むべき相手だったはずなのに、浮かんでくるのは、静かに目を閉じた父の姿だった。
黒猫が机へ飛び乗る。日御子は何も言わず、その背中を撫でた。
やがて黒猫は静かに目を開き、金色の瞳で机の上の数字を見つめた。
【第九話 帝国の思惑】へ続く




