白い悪魔
戦場には、なお怒号が響いていた。
「突き進めぇぇぇっ!」
「退くな!」
解放戦線の兵士たちは、勝利を確信していた。帝国軍は完全に崩れ、補給路は失われ、陣形も分断されている。
司令部は目前。
あと一押し。
誰もが、そう思っていた。
その時だった。
「……?」
《王域》を維持していた日御子が、小さく眉をひそめる。
「どうしました?」
隣にいたポリアンナが尋ねた。
日御子は《王域》へ意識を向けたまま答える。
「敵司令部から……一人、こちらへ向かってきますの」
「一人?」
「はいですの。ですが……妙ですの」
《王域》の中で、一つの反応だけが真っ直ぐこちらへ近付いてくる。迷いがなく、まるでこの戦場を横切ることが最初から決まっているかのようだった。
ポリアンナが僅かに目を細める。
「近くの部隊へ警戒を伝えます」
『前線各隊へ。敵司令部から単独で接近する反応があります。警戒してください』
「お願いしますの」
日御子は頷いた。
どれほど腕が立とうと、この戦場を一人で突破できるはずがない。
◇
「敵だ!」
最前線の兵士が叫んだ。
白い軍服を纏った女性が一人、ゆっくりと歩いてくる。その両眼が、鈍く光っていた。
敵は一人。
警告は届いていたが、数で押さえれば終わる。そう考えた兵士たちが、一斉に武器を構えた。
「囲め!」
数人が駆け出した直後、先頭の兵士の首が宙を舞った。
身体が力を失い、その場へ崩れ落ちる。
「…………え?」
誰かが声を漏らした。
何が起きたのか、誰一人として理解できない。
リリアナは歩みを止めていなかった。
歩く。
斬る。
ただ、それだけを繰り返す。
迷いも力みもない。まるで、行く手を塞ぐ草を払っているだけのようだった。
「な……」
「何だ、あいつ!」
「止めろ!」
「囲め!」
さらに兵士たちが四方から殺到する。
リリアナは、それでも歩みを止めない。
銀閃が幾重にも走る。
一瞬だった。
七人。
血飛沫が花のように散り、兵士たちがほとんど同時に崩れ落ちた。
「う、嘘だろ……」
誰かが震えた声を漏らす。
白い軍服は返り血で赤く染まっていた。
それでも、女性の表情には何一つ変化がない。
◇
その異変は、《王域》を通して日御子にも見えていた。
「……日御子さん?」
ポリアンナが声を掛ける。
日御子は微動だにしない。
敵影は一つ。
だが、その一点が解放戦線の部隊へ近づくたび、人の流れが左右へ割れていく。
まるで海が二つに割れるように、戦場の中へ一本の道が生まれていた。
「そんな……」
日御子の口から、思わず声が漏れる。
おかしい。
ただ兵士たちが避けているだけではない。
その一点へ近付いた反応が、一つ、また一つと動きを止めている。
それも、異様な速さで。
一人も例外がない。
そして、その異常を目の当たりにしたであろう後続の兵士たちが、左右へ退いていく。
だから、道になっている。
「どうしました?」
日御子は《王域》へ意識を集中したまま答える。
「……敵影に近付いた者たちが、全員動かなくなっていますの」
ポリアンナの表情が強張った。
「全員……?」
「はいですの。一人も残っていませんの」
日御子は息を呑む。
「何をしているのか……分かりませんの」
敵影はなおも止まらない。
その一点が進むたび、また一つ、反応が止まる。
そして戦場を割く道だけが、真っ直ぐこちらへ伸び続けていた。
◇
前線でも、異常は明らかになっていた。
誰も動けない。
一人の女が歩いてきただけで、数十名の兵士が地に伏している。
「……何をされた?」
誰かが呟く。
返事はなかった。誰一人として、あの一瞬を説明できない。
リリアナの背後には、倒れた兵士たちが連なっていた。
戦場を真っ直ぐ貫く、死の道。
その先端に、白い軍服の女がいる。
「くっ……!」
若い兵士が剣を構え、一歩踏み出そうとする。
「待て」
低い声が戦場に響いた。
福だった。
「司令……?」
兵士たちが振り返る。
「近付くな」
「ですが、相手は一人です!」
福はリリアナから視線を逸らさないまま、首を横へ振った。
「一人だからだ」
その言葉に、兵士たちは息を呑む。
この戦況で、たった一人だけ前へ出てくる。しかも、ここまで誰にも止められていない。
経験が告げていた。理解できない敵ほど、警戒すべきだと。
「全員、下がれ! 儂の後ろへ!」
福が鋭く命じる。
「《重力支配》の効果範囲へ入るな!」
兵士たちは戸惑いながらも、すぐに後退した。
リリアナは、なおも歩みを止めない。
兵士たちが十分に離れたことを確認し、福は剣を握り締めた。
「《重力支配》」
次の瞬間、リリアナの周囲へ見えない重圧がのしかかった。
地面が沈み、足元へ亀裂が走る。周囲の小石が土へめり込んでいく。
それでも、リリアナの足は止まらなかった。
一歩踏み出すたびに深い足跡を残しながら、歩調さえ変えずに進んでくる。
「ば……馬鹿な」
福の表情が初めて強張った。
女の両眼には、鈍い光が灯っている。異能を使っていることは分かるが、何をしているのかまでは分からない。
さらに《重力支配》を強める。地面が軋み、亀裂が大きく広がった。
それでもリリアナは姿勢一つ崩さず、その効果範囲を歩き抜けた。
福は剣を構えたまま、その背を見据えた。
この女は向かってくる者しか斬っていない。
しかも《重力支配》すら通じない。斬り掛かれば、命を賭すことになる。
ならば、まず見極めなければならない。何のために、一人でここまで来たのかを。
その姿を見ていたのは、解放戦線だけではなかった。
帝国軍の中にも、小さなどよめきが広がっていく。
「……リリアナ様?」
兵士の一人が思わず声を漏らした。
「本当に、ご本人なのか……?」
「まさか……お一人で、ここまで……?」
誰も歓声を上げなかった。
敵陣をたった一人で歩くその白い背中を、ただ呆然と見つめていた。
◇
リリアナは、なおも前へ進んでいた。
兵士たちは武器を握ったまま、その進路を空けていく。
やがてリリアナは、日御子とポリアンナのいる本陣から十数メートルほど先で歩みを止めた。
周囲には誰も近付けない。
否。
近付こうとする者すら、もういなかった。
戦場は異様な静けさに包まれていた。武器を構えた兵士たちは、固唾を呑んでその白い悪魔を見つめている。
ポリアンナが一歩前へ出た。
「まずは目的を聞きましょうか」
リリアナは一度だけポリアンナへ視線を向けた。両眼に灯っていた光が、すっと消える。
「結構です」
その声には敵意も侮蔑もない。ただ、本当に必要がないとでも言うような冷静さだけがあった。
「私がお話ししたいのは、あなたではありません」
その視線がゆっくりと横へ移り、真っ直ぐ日御子だけを捉える。
「旧ヒノモト王女、日御子さん」
帝国の諜報局長が日御子を名指ししたことで、周囲の兵士たちが僅かにざわめいた。
日御子は静かに一歩前へ出る。
「……何でしょうか」
リリアナは小さく頭を下げた。
「私は、あなたをお迎えに参りました」
「お迎え……ですの?」
「帝国へ、お越しいただきたいのです」
日御子は迷うことなく首を横へ振った。
「お断りしますの」
その返答にも、リリアナの表情は変わらない。
「そうですか」
短く頷いた。
「では、あなたにお伝えします」
一瞬、二人の間に沈黙が落ちる。
風だけが戦場を吹き抜けた。
リリアナは日御子を見つめたまま、静かに告げる。
「ヒノモト王は、生きています」
【第七十一話 覚醒異能】へ続く




