少女の帰還
遺跡探索の数日後。
NKJ本部の静かな医務室に、小鳥のさえずりが聞こえていた。
ベッドに横たわる咲夜姫の傍らには、NKJの主だったメンバーが集まっている。
「そろそろ起きてもおかしくないんだけどなぁ……」
アリスが小さく呟いた、その時だった。
咲夜姫の指先がぴくりと動いた。
「!」
鬼龍神が身を乗り出す。
閉じられていた瞼がゆっくりと開く。焦点の合わない瞳が天井を見つめ、やがて少しずつ周囲を映した。
「……ここは」
掠れた声だった。
「目ぇ覚ましたか!」
鬼龍神が思わず叫ぶ。
咲夜姫は瞬きを繰り返し、皆の顔を見回すと、小さく微笑んだ。
「皆さん……ご心配をお掛けしました」
その一言で、部屋の空気が一気に緩んだ。
「よかったぁー!」
ふるーるが飛び跳ね、のぶおも静かに胸を撫で下ろす。ポリアンナも僅かに表情を和らげた。
「無事で何よりです」
アリスがすぐに診察を始める。
脈、呼吸、瞳孔。
「脈も呼吸も安定してる。目立った外傷もないね」
そう言って笑ったものの、アリスは咲夜姫の瞳をじっと見つめた。
「でも……異能が発動してる」
鬼龍神が眉をひそめる。
「どういうことだ?」
「咲夜ねーさんの異能って、任意発動型でしょ? でも見て。ずっと瞳が光ってる」
皆が息を呑む。
咲夜姫の瞳の奥では、淡い光が絶えず揺らめいていた。
「まるで、異能が何かを処理し続けてるみたい」
その時、咲夜姫が突然固まった。
目は開いている。瞬きもしない。呼吸だけが規則正しく続いている。
「咲夜ねーさん?」
アリスが声を掛けるが、返事はない。
十秒ほど経った頃、咲夜姫の口がゆっくりと開いた。
「――ΣΑΡ・ΕΝ・ΛΥΘ・ΚΕΡΑ――」
流れるような響きだった。
誰も聞いたことがなく、どこの国の言葉とも違う。
「……え?」
咲夜姫自身が、一番驚いていた。
「い、今……私……何て言いました?」
鬼龍神が固まり、ソリムドも不安そうにポリアンナを見る。
アリスだけが、確信したように頷いた。
「やっぱり、脳がバグってる。まだ何かを処理し続けてるっぽい」
医務室に重苦しい沈黙が流れる。
ポリアンナが静かに口を開いた。
「咲夜姫さん。遺跡で、何を見ましたか」
咲夜姫は目を閉じ、記憶を辿ろうとする。だが、すぐに頭を押さえ、小さく眉を寄せた。
「……いっぱい」
「いっぱい、あり過ぎて……意味が、よく分かりません」
アリスが慌てて制する。
「無理しなくていいよ。ゆっくりで」
咲夜姫は小さく頷いた。
「空が、巨大な結晶で覆われていました。その下に、ものすごく大きな街があったんです」
「結晶に?」
ソリムドが聞き返す。
「はい。建物も、乗り物も、全部見たことのない形で……」
咲夜姫の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「人は皆、笑っていて、とても幸せそうでした」
ふぉろんたいごが首を傾げる。
「夢じゃなくて、ですか?」
咲夜姫は静かに首を振った。
「違います。誰かの記憶……だと思います」
部屋が静まり返る。
「話せる範囲で、ほかには何かありますか」
ポリアンナに尋ねられ、咲夜姫は再び目を閉じた。
その瞬間、動きが止まる。
「……咲夜姫?」
鬼龍神が呼び掛ける。
数秒後、咲夜姫がぽつりと呟いた。
「……千年前」
誰も声を出さなかった。
「千年前に、何かがあったみたいです」
ポリアンナの表情が僅かに変わる。
「何が?」
だが、咲夜姫は苦しそうに頭を押さえた。
「分かりません……上手く思い出せないんです。でも、遺跡は……」
言葉が止まり、再び焦点が遠くなる。
「贈り物」
静かな声だった。
「……は?」
アイザックが思わず聞き返す。
「誰かが、そう言っていました。この遺跡は……誰かが未来に残した贈り物だと」
誰一人、その意味を理解できなかった。
咲夜姫自身も、はっと我に返る。
「……あれ?」
不安そうに皆を見回した。
「私……また何か言いました?」
◇
それから数日後。
船で最寄りの港まで送ってもらった日御子とビビアンは、陸路を経て、ようやくNKJ本部へ辿り着いた。
懐かしい木造の建物。庭では隊員たちが訓練を行っている。
その光景を目にした瞬間、日御子の足が止まった。
足元では、ノワも金色の瞳で本部を見上げていた。
帰ってきた。
その実感に、胸が締め付けられる。
逃げるように飛び出した場所。
置き手紙一枚だけを残して。
それでも、今帰るべき場所はここだった。
「入らないの?」
ビビアンが隣で静かに尋ねる。
日御子は小さく息を吸った。
「……入りますの」
震える足で一歩を踏み出し、本部の扉をくぐった。
◇
「あっ!!」
最初に気づいたのは、アリスだった。
医務室から出てきた彼女は、入口に立つ日御子を見て、その場で固まった。
信じられないように、何度も瞬きを繰り返す。
「……日御子ちゃん?」
日御子は申し訳なさそうに微笑んだ。
「あの……ただいまですの」
その一言で、アリスの目から涙が溢れた。
「ばかぁっ!」
駆け出し、勢いよく日御子へ抱きつく。
「心配したんだからぁ! もう帰ってこないんじゃないかって、毎日そう思ってたんだからぁ!」
日御子は目を見開いた。
「アリスさん……」
「怪我してない!? ちゃんとご飯食べてた!? 眠れてた!?」
矢継ぎ早の質問に、日御子は困ったように笑う。
「だ、大丈夫ですの……」
「大丈夫じゃないよぉ……全然大丈夫じゃないもん……」
アリスは泣きながら首を振った。
その声に、食堂にいた隊員たちが顔を上げる。
「……え?」
鬼龍神が立ち上がり、のぶおも振り返る。アイザックの口から、食べかけのパンが落ちた。
全員の視線が入口へ集まる。
そこに立っていたのは、数か月前、置き手紙だけを残して姿を消した日御子だった。
誰も言葉が出ない。
帰ってきた。
その実感だけが、胸へ押し寄せていた。
◇
「お帰りなさい、日御子さん」
皆の後ろで、ポリアンナが静かに笑っていた。
「……ただいまですの」
鬼龍神がゆっくりと歩み寄り、日御子の前で足を止めた。
「……帰ってきたんだな」
日御子は唇を噛み、俯いた。
「……はいですの」
鬼龍神は何も言わず、大きな手で日御子の頭をぽんと叩いた。
「馬鹿野郎」
怒鳴るでも、責めるでもない。
「心配させやがって」
日御子の目に、また涙が滲む。
その横で、のぶおが静かに息を吐いた。
「無事で、本当に良かったです」
穏やかな笑みだった。
「日御子さぁぁぁん!」
もう我慢できなかったソリムドが勢いよく飛びつき、そのまま泣き始める。
「会いたかったぁ! もう帰ってこないかと思ったぁ!」
「ごめんなさいですの……」
日御子は何度も謝る。
だが、ソリムドは首をぶんぶん振った。
「謝らなくていい! 帰ってきてくれたから! それだけでいい!」
そのやり取りを見ていたビビアンは、小さく目を見開いた。
誰も、なぜ出て行ったのかと責めない。どうして連絡しなかったのかと問い詰めもしない。
ただ、帰ってきたことだけを喜んでいる。
(……変な奴ら)
自然と口元が緩みかけた。
「おーい」
そこへ、間延びした声が響いた。
アイザックが腕を組み、皆を見回してため息を吐く。
「お前らさぁ。せっかく帰ってきたのに、全員で泣かせてどうすんだよ」
「うるせぇ。空気読め」
鬼龍神が苦笑する。
「読んでる読んでる」
アイザックは肩を竦め、日御子へいつもの調子で笑い掛けた。
「ま、とりあえず、おかえり。腹減ったろ? 今日は芋、多めに食わせてやるよ」
一瞬の静寂。
「ぶはっ!」
ソリムドが吹き出し、鬼龍神も呆れたように笑う。
「結局それかよ」
「だってよー。こいつは芋大好きなんだぞ」
食堂に、少しずつ笑いが戻っていく。
日御子も思わず笑みを零した。
「ふふっ……ありがとうございますの」
その笑顔を見て、アイザックは満足そうに頷く。
「よし。やっといつもの顔だ」
「にゃあ」
日御子の足元で、ノワが短く鳴いた。
アイザックはそちらへ目を向け、いつもの調子で片手を上げる。
「よぉ、お前も久しぶりだな」
ノワは返事をするように尻尾を立てた。
その様子を見ていたビビアンは、すっと笑みを消した。
(何なの、こいつ)
(日御子に馴れ馴れしい)
理由は分からない。
ただ、無性に気に入らなかった。
アイザックがビビアンの視線に気づき、首を傾げる。
「……ん? なんだ?」
「あんた嫌い」
ビビアンは即答した。
食堂が静まり返る。
「…………え?」
アイザックだけが、間の抜けた声を漏らした。
「いや、ちょっと待て」
返事はない。ビビアンはぷいと顔を逸らした。
「おれ、何かした?」
鬼龍神が肩を震わせ、ソリムドも笑いを堪えている。のぶおは苦笑しながら視線を逸らした。
アイザックは助けを求めるように皆を見回す。
「誰か教えてくれ。おれ、何で嫌われた?」
アイザックは頭を掻きながら、大きくため息を吐いた。
「……意味分かんねーよ」
◇
騒ぎを聞きつけたのか、食堂の入口に咲夜姫が立っていた。
その瞳は、帰ってきた日御子だけをじっと見つめている。
「咲夜姫さん?」
日御子が声を掛けても、返事はない。
やがて、咲夜姫の口がゆっくりと開いた。
「――ΝΕΦ・ΑΡ・ΣΙΩ・ΤΕΡΑ――」
聞いたことのない言葉だった。
食堂から笑い声が消える。
「またか」
鬼龍神が駆け寄ろうとした、その時。
「待って」
アリスが咲夜姫の瞳を覗き込み、小さく首を振った。
「どうしましたの?」
「目覚めてから何度か調べてるけど、咲夜ねーさんの脳がずっと高負荷で動いてるんだよ。異能も一度も止まってない」
「……目覚めてから、ずっとですの?」
アリスが頷く。
日御子は咲夜姫を見つめ、静かに息を吸った。
「でしたら、《天照の鏡》で、咲夜姫さんの中に何が起きているのか確かめられるかもしれませんの」
ポリアンナが日御子へ顔を向ける。
「《天照の鏡》とは?」
その名を口にするだけで、胸が締め付けられる。
日御子は一度だけ目を閉じ、痛みに耐えてから答えた。
「ユウマ……いえ、ユリウスとの戦いで覚醒した、もう一つの異能ですの」
のぶおが目を丸くする。
「……異能が、増えたんですか?」
「詳しい話は後ですの」
日御子は、焦点の合わない咲夜姫の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「まずは、咲夜姫さんを診てみます」
【第六十二話 赦されなくても】へ続く




