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また一つ帰る場所

 NKJの一行が失われた遺跡を目指していた頃――。


 遠く離れたマレディア王国では、朝日が港を明るく照らしていた。


「日御子さん!」


 荷物を運んでいた海兵が、大きく手を振る。


「おはようございますの」


 日御子も笑顔で手を振り返した。


 この国へ来てから、一か月余り。最初は自分の居場所などないと思っていた街の景色も、今ではすっかり日常の一部になっていた。


「《王域》をお願いします!」


「はいですの」


 日御子が意識を広げると、港の外に浮かぶ船の位置や進行方向が、手に取るように伝わってきた。


「東側から商船が二隻。間もなく入港しますの」


「了解!」


 海兵が旗を振り、接岸を待つ者たちへ合図を送る。


「今日も助かりました!」


「お役に立てて何よりですの」


 仕事へ戻る海兵を見送り、日御子はノワと共に市場へ向かった。



「日御子ちゃん!」


 市場へ入った途端、果物屋の老婆が笑顔で手招きした。


「これ、持ってきな!」


 差し出されたのは、鮮やかな色をしたオレンジだった。


「よろしいんですの?」


「この前、迷子になった孫を見つけてもらったお礼だよ」


「ありがとうございますの」


 日御子が頭を下げる横を、ノワが尻尾を立てて歩いていく。


「ノワ!」


 魚屋の店主が、小魚を一匹放った。


 ノワは飛んできた小魚を器用に咥えると、得意そうに尻尾を揺らした。


「今日も可愛いな!」


「にゃあ」


「本当に人気者ですの」


 日御子が苦笑すると、魚屋の店主は声を上げて笑った。


「猫だけじゃないぞ。日御子ちゃんも、この町じゃすっかり有名人だ」


「そうなんですの?」


「困った時は日御子ちゃん。みんな、そう思ってる」


 思いも寄らない言葉に、日御子は照れ臭そうに視線を逸らした。


「期待されるほど立派ではありません」


「謙遜するなって!」


 市場に笑い声が広がる。


 そんな日々を重ねるうちに、町を歩けば自然と誰かが日御子の名を呼ぶようになっていた。



 数日後の休日。


 広場には、子どもたちの元気な声が響いていた。


「王様!」


「もう一回!」


「よーし、次は誰だ!」


 ロドリックが子どもたちと相撲を取り、豪快に笑っている。


 その様子を眺めていた一人の女の子が、日御子を見つけた。


「あっ、日御子お姉ちゃん!」


「こっち来て!」


「え?」


 呼ばれるまま近づくと、周りの子どもたちも一斉に駆け寄ってきた。


「王様と相撲して!」


「見たい!」


「きっと面白い!」


「わ、私ですの?」


 日御子は目を丸くした。


「お願いします!」


 十人近い子どもたちが、揃って両手を合わせる。


「これは……」


 断れる空気ではなかった。


 ロドリックが豪快に笑い、腕をまくる。


「よし、勝負だ!」


「ちょ、ちょっと待つですのー!」


 日御子は子どもたちに背中を押され、広場の中央へ連れていかれた。


「はっけよーい!」


 子どもたちが勝手に行司を始める。


「のこったー!」


 掛け声と同時に、ロドリックが踏み込んだ。


 日御子が何かするより早く、その身体が軽々と持ち上げられる。


「きゃあっ!」


 日御子は宙でくるりと一回転し、芝生の上へぽすん、と転がった。


 一瞬の静寂。


 直後、広場に子どもたちの笑い声が弾けた。


「わははは!」


「飛んだー!」


「お姉ちゃん、負けたー!」


 日御子は呆然と空を見上げていたが、少し遅れて自分でも可笑しくなってきた。


「ふっ……あははっ」


 芝生に寝転んだまま、声を上げて笑う。


 その顔を見たロドリックは、満足そうに笑って大きな手を差し出した。


「いい顔で笑えるようになったじゃねぇか」


 日御子は僅かに目を見開いたあと、その手を掴んで立ち上がった。


「……はいですの」


 少し離れた場所では、二人を見ていたビビアンが静かに口元を緩めていた。



 夕暮れを迎え、市場の喧騒も少しずつ落ち着き始めていた。


 ノワは子どもたちにもらった小魚を咥え、満足そうに先を歩いている。


「ノワ、待ちなさいですの」


 日御子は苦笑しながら、その後を追いかけた。さらに少し後ろを、ビビアンが歩いている。


 穏やかな時間だった。


「……ビビアン」


 不意に名前を呼ばれ、ビビアンが足を止めた。


 振り返ると、ロドリックが立っていた。


「少しだけ、いいか」


 ビビアンは一瞬だけ迷い、小さく頷いた。


「日御子、先に戻ってて」


「はいですの」


 日御子は何も尋ねず、ノワと共に歩いていった。


 二人きりになった道を、潮風が通り抜ける。


「……元気そうで安心した」


 ロドリックが静かに口を開いた。


「そう見えます?」


「見える」


 短いやり取りのあと、沈黙が落ちる。


 昔なら、それだけで充分だった。


 ロドリックは遠ざかる日御子へ視線を向けた。


「いい子だな」


「……うん」


 ビビアンも同じ方を見る。


「だから、連れてきました」


「そうか」


 また、言葉が途切れた。


「……変わらないね」


 ビビアンが、ぽつりと呟いた。


「ん?」


「何でもないです」


 小さく首を横へ振る。


 誰かを信じ、受け入れ、その人が帰ってこられる場所であり続ける。


 昔と何も変わらない。


 だから好きになった。


 だからこそ離れた。


「ビビアン」


 ロドリックが静かに呼ぶ。


「無理はするな」


 たった、それだけだった。


 引き止めることも、理由を聞くこともしない。ただ、今も変わらず心配だけしている。


(……ずるいよ)


 胸の奥が締め付けられる。


 そんなことを言われたら、どこにも行きたくなくなってしまう。


「……ありがと」


 ビビアンは少しだけ寂しそうに笑い、踵を返した。


「じゃあね」


 ロドリックはその背中を見送りながら、小さく笑った。


「また来い」


 その一言が、夕暮れの風に乗って届く。


 ビビアンは立ち止まらなかった。


 振り返ることもなく、ただ小さく片手を上げた。



 その夜、日御子は宿の窓辺に座り、港に並ぶ灯りを眺めていた。窓の外では、一隻の船が港を離れようとしていた。日御子は遠ざかっていく灯りを目で追いながら、その先に広がる海を見つめる。


 ビビアンと出会い、マレディア王国の人々と笑い合ううちに、少しずつ前を向けるようになった。


 だからこそ、いつまでも目を背けてはいられなかった。


 思い浮かぶのは、NKJの仲間たちの顔。


 何も言わずに飛び出し、心配を掛けた。迷惑も掛けた。


 皆のもとへ戻るのが怖い。どんな顔をすればいいのかも、何を言えばいいのかも分からない。


 その答えまで、日御子はまた一人で抱え込もうとしていた。


 ビビアンの言葉が蘇る。


『全部、自分だけで背負おうとするな』


「……そうでしたの」


 日御子は小さく笑い、椅子から立ち上がった。


 隣の部屋の前まで行き、扉を叩く。


「ビビアン」


「どうしたの?」


 扉を開けたビビアンを、日御子は真っ直ぐ見つめた。


「私、NKJへ帰ってみようと思うの」


「……帰る?」


 日御子は胸の前で手を握り、小さく息を吸った。


「この国の皆さんには、とても良くしてもらったの」


「できれば、ずっとここにいたい。離れるのは寂しいの」


 それほどまでに、この国は日御子にとって大切な場所になっていた。


「それに、怖いの。皆さんにどんな顔をすればいいのか分からないし、許していただけるとも思ってない」


 それでも、顔を上げる。


「もう一度、皆さんとお話がしたいの。逃げたままでは終わりたくない」


 ビビアンは少しだけ目を見開き、やがて、ふっと笑った。


「そっか」


 その一言だけで充分だった。


「じゃあ、あたしも行く」


「……え?」


「一人にしたら、また全部抱え込むでしょ」


 ビビアンは少し照れ臭そうに笑った。


「親友なんだから、最後まで付き合うよ」


 日御子の瞳が潤んだ。


「……ありがとう」


「お礼はいらない。その代わり、ちゃんと紹介して」


「あなたが帰りたいと思った、大切な仲間たちを」


 日御子は力強く頷いた。


「うん」


 その返事に、もう迷いはなかった。



 翌朝。


 日御子とビビアンは、王城の執務室を訪れていた。


 ロドリックは手元の書類から顔を上げると、二人を見て穏やかに笑った。


「来たか」


 日御子は一歩前へ出る。


「私、NKJへ帰ってみようと思いますの。今度は、きちんと皆さんと向き合いたいです」


 ロドリックは驚かなかった。


「そうか」


 ロドリックは椅子から立ち上がると、日御子の頭へ大きな手を置いた。


「行ってこい」


 優しい声だった。


「それでもし、また迷ったら、いつでも帰ってこい」


 日御子の瞳が揺れる。


「お前はもう、マレディア王国の住人だからな」


 胸の奥に、温かなものが広がった。


「……はいですの」


 日御子は涙を堪え、深く頭を下げた。


「本当に、お世話になりました」


 ロドリックの傍らに控えていた夜刀が、一歩前へ出た。


「日御子さん」


「はい」


「あなたのおかげで、多くの子どもたちが救われました。海軍総司令として、心より感謝申し上げます」


「そんな……私は何も……」


「違います」


 夜刀は静かに首を横へ振った。


「あの日、あなたがいなければ、我々は海賊船を発見できませんでした。救う機会をくださったのは、あなたです」


 日御子は僅かに俯き、やがて穏やかに微笑んだ。


「……ありがとうございますの」


「我々は受けた恩を忘れません。もし、この先何か困ったことがあれば、いつでもお知らせください」


 ロドリックも大きく頷く。


「その時は遠慮なく、この国を頼れ」


 日御子は二人の顔を見つめ、その言葉を胸へ刻むように頷いた。


「……はいですの」


 夜刀はビビアンへ向き直った。


「次にお帰りになる時は――」


 僅かに間を置く。


「逃げる理由がなくなっていると良いですね」


 ビビアンの肩が小さく揺れた。


「……見てたんだ」


「見ていました」


「あなた様は昔から分かりやすいので」


 ビビアンは苦笑する。


「相変わらず嫌な男」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 二人は一瞬だけ視線を交わした。


 その空気は、昔と何も変わらなかった。



 港では、出航の準備が進んでいた。


 見送りに来た市場の人々や海兵たちが、日御子とビビアンを囲んでいる。


「日御子ちゃん!」


「元気でね!」


「また来いよ!」


 果物屋の老婆から、袋いっぱいの果物を渡された。


「道中で食べな」


「ありがとうございますの」


 ノワも皆の足元を歩き回り、何度も頭を撫でられている。


「ノワも元気でな!」


「にゃあ」


 やがて、出航を告げる鐘が鳴った。


 日御子は港に集まった人々の顔を、一人ずつ見渡した。


 別れを告げる言葉は、どうしても口にしたくなかった。


「行ってきますの」


 その言葉に、港中から笑顔が返ってくる。


「おう!」


「行ってこい!」


 ロドリックも、大きく手を振った。


「また帰ってこい!」


 日御子は満面の笑みを浮かべ、力いっぱい手を振り返した。


「はいですの!」


 船がゆっくりと港を離れていく。


 ビビアンは遠ざかるマレディア王国を見つめ、小さく息を吐いた。


 もう、逃げるために国を出るのではない。


 日御子と共に、前へ進むための旅立ちだった。


 二人を乗せた船は、一つの帰る場所に見送られながら、大切な仲間たちが待つもう一つの帰る場所へ進んでいった。



【第六十一話 少女の帰還】へ続く


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