また一つ帰る場所
NKJの一行が失われた遺跡を目指していた頃――。
遠く離れたマレディア王国では、朝日が港を明るく照らしていた。
「日御子さん!」
荷物を運んでいた海兵が、大きく手を振る。
「おはようございますの」
日御子も笑顔で手を振り返した。
この国へ来てから、一か月余り。最初は自分の居場所などないと思っていた街の景色も、今ではすっかり日常の一部になっていた。
「《王域》をお願いします!」
「はいですの」
日御子が意識を広げると、港の外に浮かぶ船の位置や進行方向が、手に取るように伝わってきた。
「東側から商船が二隻。間もなく入港しますの」
「了解!」
海兵が旗を振り、接岸を待つ者たちへ合図を送る。
「今日も助かりました!」
「お役に立てて何よりですの」
仕事へ戻る海兵を見送り、日御子はノワと共に市場へ向かった。
◇
「日御子ちゃん!」
市場へ入った途端、果物屋の老婆が笑顔で手招きした。
「これ、持ってきな!」
差し出されたのは、鮮やかな色をしたオレンジだった。
「よろしいんですの?」
「この前、迷子になった孫を見つけてもらったお礼だよ」
「ありがとうございますの」
日御子が頭を下げる横を、ノワが尻尾を立てて歩いていく。
「ノワ!」
魚屋の店主が、小魚を一匹放った。
ノワは飛んできた小魚を器用に咥えると、得意そうに尻尾を揺らした。
「今日も可愛いな!」
「にゃあ」
「本当に人気者ですの」
日御子が苦笑すると、魚屋の店主は声を上げて笑った。
「猫だけじゃないぞ。日御子ちゃんも、この町じゃすっかり有名人だ」
「そうなんですの?」
「困った時は日御子ちゃん。みんな、そう思ってる」
思いも寄らない言葉に、日御子は照れ臭そうに視線を逸らした。
「期待されるほど立派ではありません」
「謙遜するなって!」
市場に笑い声が広がる。
そんな日々を重ねるうちに、町を歩けば自然と誰かが日御子の名を呼ぶようになっていた。
◇
数日後の休日。
広場には、子どもたちの元気な声が響いていた。
「王様!」
「もう一回!」
「よーし、次は誰だ!」
ロドリックが子どもたちと相撲を取り、豪快に笑っている。
その様子を眺めていた一人の女の子が、日御子を見つけた。
「あっ、日御子お姉ちゃん!」
「こっち来て!」
「え?」
呼ばれるまま近づくと、周りの子どもたちも一斉に駆け寄ってきた。
「王様と相撲して!」
「見たい!」
「きっと面白い!」
「わ、私ですの?」
日御子は目を丸くした。
「お願いします!」
十人近い子どもたちが、揃って両手を合わせる。
「これは……」
断れる空気ではなかった。
ロドリックが豪快に笑い、腕をまくる。
「よし、勝負だ!」
「ちょ、ちょっと待つですのー!」
日御子は子どもたちに背中を押され、広場の中央へ連れていかれた。
「はっけよーい!」
子どもたちが勝手に行司を始める。
「のこったー!」
掛け声と同時に、ロドリックが踏み込んだ。
日御子が何かするより早く、その身体が軽々と持ち上げられる。
「きゃあっ!」
日御子は宙でくるりと一回転し、芝生の上へぽすん、と転がった。
一瞬の静寂。
直後、広場に子どもたちの笑い声が弾けた。
「わははは!」
「飛んだー!」
「お姉ちゃん、負けたー!」
日御子は呆然と空を見上げていたが、少し遅れて自分でも可笑しくなってきた。
「ふっ……あははっ」
芝生に寝転んだまま、声を上げて笑う。
その顔を見たロドリックは、満足そうに笑って大きな手を差し出した。
「いい顔で笑えるようになったじゃねぇか」
日御子は僅かに目を見開いたあと、その手を掴んで立ち上がった。
「……はいですの」
少し離れた場所では、二人を見ていたビビアンが静かに口元を緩めていた。
◇
夕暮れを迎え、市場の喧騒も少しずつ落ち着き始めていた。
ノワは子どもたちにもらった小魚を咥え、満足そうに先を歩いている。
「ノワ、待ちなさいですの」
日御子は苦笑しながら、その後を追いかけた。さらに少し後ろを、ビビアンが歩いている。
穏やかな時間だった。
「……ビビアン」
不意に名前を呼ばれ、ビビアンが足を止めた。
振り返ると、ロドリックが立っていた。
「少しだけ、いいか」
ビビアンは一瞬だけ迷い、小さく頷いた。
「日御子、先に戻ってて」
「はいですの」
日御子は何も尋ねず、ノワと共に歩いていった。
二人きりになった道を、潮風が通り抜ける。
「……元気そうで安心した」
ロドリックが静かに口を開いた。
「そう見えます?」
「見える」
短いやり取りのあと、沈黙が落ちる。
昔なら、それだけで充分だった。
ロドリックは遠ざかる日御子へ視線を向けた。
「いい子だな」
「……うん」
ビビアンも同じ方を見る。
「だから、連れてきました」
「そうか」
また、言葉が途切れた。
「……変わらないね」
ビビアンが、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「何でもないです」
小さく首を横へ振る。
誰かを信じ、受け入れ、その人が帰ってこられる場所であり続ける。
昔と何も変わらない。
だから好きになった。
だからこそ離れた。
「ビビアン」
ロドリックが静かに呼ぶ。
「無理はするな」
たった、それだけだった。
引き止めることも、理由を聞くこともしない。ただ、今も変わらず心配だけしている。
(……ずるいよ)
胸の奥が締め付けられる。
そんなことを言われたら、どこにも行きたくなくなってしまう。
「……ありがと」
ビビアンは少しだけ寂しそうに笑い、踵を返した。
「じゃあね」
ロドリックはその背中を見送りながら、小さく笑った。
「また来い」
その一言が、夕暮れの風に乗って届く。
ビビアンは立ち止まらなかった。
振り返ることもなく、ただ小さく片手を上げた。
◇
その夜、日御子は宿の窓辺に座り、港に並ぶ灯りを眺めていた。窓の外では、一隻の船が港を離れようとしていた。日御子は遠ざかっていく灯りを目で追いながら、その先に広がる海を見つめる。
ビビアンと出会い、マレディア王国の人々と笑い合ううちに、少しずつ前を向けるようになった。
だからこそ、いつまでも目を背けてはいられなかった。
思い浮かぶのは、NKJの仲間たちの顔。
何も言わずに飛び出し、心配を掛けた。迷惑も掛けた。
皆のもとへ戻るのが怖い。どんな顔をすればいいのかも、何を言えばいいのかも分からない。
その答えまで、日御子はまた一人で抱え込もうとしていた。
ビビアンの言葉が蘇る。
『全部、自分だけで背負おうとするな』
「……そうでしたの」
日御子は小さく笑い、椅子から立ち上がった。
隣の部屋の前まで行き、扉を叩く。
「ビビアン」
「どうしたの?」
扉を開けたビビアンを、日御子は真っ直ぐ見つめた。
「私、NKJへ帰ってみようと思うの」
「……帰る?」
日御子は胸の前で手を握り、小さく息を吸った。
「この国の皆さんには、とても良くしてもらったの」
「できれば、ずっとここにいたい。離れるのは寂しいの」
それほどまでに、この国は日御子にとって大切な場所になっていた。
「それに、怖いの。皆さんにどんな顔をすればいいのか分からないし、許していただけるとも思ってない」
それでも、顔を上げる。
「もう一度、皆さんとお話がしたいの。逃げたままでは終わりたくない」
ビビアンは少しだけ目を見開き、やがて、ふっと笑った。
「そっか」
その一言だけで充分だった。
「じゃあ、あたしも行く」
「……え?」
「一人にしたら、また全部抱え込むでしょ」
ビビアンは少し照れ臭そうに笑った。
「親友なんだから、最後まで付き合うよ」
日御子の瞳が潤んだ。
「……ありがとう」
「お礼はいらない。その代わり、ちゃんと紹介して」
「あなたが帰りたいと思った、大切な仲間たちを」
日御子は力強く頷いた。
「うん」
その返事に、もう迷いはなかった。
◇
翌朝。
日御子とビビアンは、王城の執務室を訪れていた。
ロドリックは手元の書類から顔を上げると、二人を見て穏やかに笑った。
「来たか」
日御子は一歩前へ出る。
「私、NKJへ帰ってみようと思いますの。今度は、きちんと皆さんと向き合いたいです」
ロドリックは驚かなかった。
「そうか」
ロドリックは椅子から立ち上がると、日御子の頭へ大きな手を置いた。
「行ってこい」
優しい声だった。
「それでもし、また迷ったら、いつでも帰ってこい」
日御子の瞳が揺れる。
「お前はもう、マレディア王国の住人だからな」
胸の奥に、温かなものが広がった。
「……はいですの」
日御子は涙を堪え、深く頭を下げた。
「本当に、お世話になりました」
ロドリックの傍らに控えていた夜刀が、一歩前へ出た。
「日御子さん」
「はい」
「あなたのおかげで、多くの子どもたちが救われました。海軍総司令として、心より感謝申し上げます」
「そんな……私は何も……」
「違います」
夜刀は静かに首を横へ振った。
「あの日、あなたがいなければ、我々は海賊船を発見できませんでした。救う機会をくださったのは、あなたです」
日御子は僅かに俯き、やがて穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうございますの」
「我々は受けた恩を忘れません。もし、この先何か困ったことがあれば、いつでもお知らせください」
ロドリックも大きく頷く。
「その時は遠慮なく、この国を頼れ」
日御子は二人の顔を見つめ、その言葉を胸へ刻むように頷いた。
「……はいですの」
夜刀はビビアンへ向き直った。
「次にお帰りになる時は――」
僅かに間を置く。
「逃げる理由がなくなっていると良いですね」
ビビアンの肩が小さく揺れた。
「……見てたんだ」
「見ていました」
「あなた様は昔から分かりやすいので」
ビビアンは苦笑する。
「相変わらず嫌な男」
「褒め言葉として受け取っておきます」
二人は一瞬だけ視線を交わした。
その空気は、昔と何も変わらなかった。
◇
港では、出航の準備が進んでいた。
見送りに来た市場の人々や海兵たちが、日御子とビビアンを囲んでいる。
「日御子ちゃん!」
「元気でね!」
「また来いよ!」
果物屋の老婆から、袋いっぱいの果物を渡された。
「道中で食べな」
「ありがとうございますの」
ノワも皆の足元を歩き回り、何度も頭を撫でられている。
「ノワも元気でな!」
「にゃあ」
やがて、出航を告げる鐘が鳴った。
日御子は港に集まった人々の顔を、一人ずつ見渡した。
別れを告げる言葉は、どうしても口にしたくなかった。
「行ってきますの」
その言葉に、港中から笑顔が返ってくる。
「おう!」
「行ってこい!」
ロドリックも、大きく手を振った。
「また帰ってこい!」
日御子は満面の笑みを浮かべ、力いっぱい手を振り返した。
「はいですの!」
船がゆっくりと港を離れていく。
ビビアンは遠ざかるマレディア王国を見つめ、小さく息を吐いた。
もう、逃げるために国を出るのではない。
日御子と共に、前へ進むための旅立ちだった。
二人を乗せた船は、一つの帰る場所に見送られながら、大切な仲間たちが待つもう一つの帰る場所へ進んでいった。
【第六十一話 少女の帰還】へ続く




