運命のアムリタ
黄金色の光が、静まり返った保管庫を照らしていた。
誰も言葉を発することなく、台座の上へ置かれた透明な器を見つめている。
その内部では、光そのものを閉じ込めたような黄金色の液体が、ゆっくりと揺れていた。
「これが……」
のぶおが小さく呟く。
「アムリタ」
ポリアンナが、古地図に記されていた名を静かに口にした。
古代王家が遺した最高位の秘宝。
文献に残された言葉は、ただ一つ。
『万物を覆す奇跡』
それが今、目の前にあった。
ポリアンナは慎重に台座へ近づいた。透明な器の表面には、細かな古代文字が隙間なく刻まれている。
文字を読める咲夜姫は、のぶおに支えられたまま意識を失っていた。内容を確認することはできない。
ポリアンナが器へ手を伸ばした、その瞬間だった。
器を包んでいた淡い光が、ふっと消えた。
パキッ、と小さな音が響き、器を台座へ固定していた封印が解ける。
「開いた……」
ソリムドが息を呑んだ。
「先ほどの認証と連動しているのでしょうか」
ポリアンナは透明な器を静かに持ち上げた。見た目よりも重く、内部の液体が動くたび、掌へ重心の変化が伝わってくる。
衝撃を避けるよう厚手の布で包み、革張りの収納箱へ丁寧に納める。留め具を閉じたあと、ポリアンナの視線は自然とのぶおが支えている咲夜姫へ向いた。
呼吸は穏やかで、顔色も悪くない。それでも呼びかけには反応せず、目を閉じたままだった。
「本当に大丈夫なの?」
ソリムドが心配そうに顔を覗き込む。
「分かりません。装置は正常に停止し、知識継承も完了したように見えました」
ポリアンナは咲夜姫の表情を見つめる。
「ですが、どれほどの負荷を受けたのかまでは分かりません。ここでできることは、もうないでしょう」
「帰還します」
のぶおが咲夜姫を背負い直した。
「本部へ戻れば、アリスさんに診てもらえます」
全員が頷き、千年以上の秘密を残した保管庫をあとにした。
◇
遺跡の外へ出る頃には、日は西の山へ傾き始めていた。
谷を渡る風は冷たく、行きとは違う静けさが一行を包んでいる。
のぶおは背中の咲夜姫を気遣いながら歩いていた。
「少し揺れますよ」
小さく声をかけるが、返事はない。聞こえてくるのは、穏やかな寝息だけだった。
「早く目を覚ましてくれるといいな……」
何度も振り返るソリムドに、ポリアンナも静かに頷く。
「ええ。なるべく急いで戻りましょう」
そのまま歩き続けていたポリアンナの足が、不意に止まった。
手にした収納箱へ視線を落とす。
先ほどまでとは重さが違う。
嫌な予感を覚えながら、ゆっくりと留め具を外した。
「――ありません」
その一言で、全員の動きが止まった。
「え?」
ソリムドが駆け寄る。
収納箱の中には、器を包んでいた布だけが残されていた。
アムリタを収めた透明な器は、跡形もなく消えている。
「そんな馬鹿な……」
のぶおが目を見開いた。
ポリアンナは収納箱の内側を確認した。破損した形跡はなく、留め具も壊れていない。周囲の道へ目を走らせても、器が落ちた様子はなかった。
「保管庫へ置いてきたとか……?」
「いいえ。間違いなく、この中へ収納しました」
だからこそ異常だった。
箱を壊すことも、留め具を外した痕跡を残すこともなく、アムリタだけが消えている。
パルパティーンは森の奥へ視線を向け、静かに剣の柄へ手を掛けた。
「どこを見ている」
不意に、頭上から声が降ってきた。
全員が一斉に振り返る。
少し離れた岩の上に、一人の女が立っていた。
黒い外套を纏い、顔の上半分を仮面で覆っている。その右手には、黄金色の液体を収めた透明な器が握られていた。
「……それを、いつの間に」
ポリアンナの問いに、女は器へ一度視線を落とした。
「これは帝国が接収する」
その声を聞いた瞬間、パルパティーンの表情が変わった。
「遺跡へ向かう途中から、妙な気配を感じていたが……よりによって、お前か。ソニア」
ソニアと呼ばれた女は、僅かに視線だけを向ける。
「久しいな」
「今や敵側か」
仮面の下で、不敵な笑みを浮かべる。
「帝国特務局――ソニア・グレイ」
左手で短剣を抜き、静かに身構えた。
「参る」
パルパティーンも剣を抜いた。
「全員、囲め!」
一行が即座に散開し、ソニアの退路を塞ぐ。
「あいつは厄介だ! 姿を追うな! 行動経路を範囲ごと潰せ!」
次の瞬間、岩の上に立っていたソニアの姿が霞んだ。
確かに、そこにいる。
それなのに、意識を向けた瞬間、存在そのものが思考から滑り落ちていく。
「何だこれ、気持ち悪ぃ……!」
アイザックが舌打ちする。
ポリアンナは、意識から抜け落ちていくソニアの姿を必死に追った。
「認識阻害……。いえ、本部へ施してもらっているものとは比べものになりませんね」
姿が消えているわけではない。目には映っているはずなのに、ソニアという存在を意識へ留めておくことができない。
「アイザックさん、左右の岩場を!」
「了解!」
アイザックが両手を掲げ、《紅蓮》の炎を放った。
幾つもの炎弾が左右の岩場へ着弾し、轟音とともに岩を砕く。燃え上がった炎が岩場を埋め、左右からの逃走を封じていく。
右奥には岩壁の陰へ続く細い抜け道があり、そこだけ炎が届いていなかった。
のぶおは咲夜姫を背負ったまま後方へ下がり、彼女を庇う位置から片手を前へ突き出した。
「《絶界守護》!」
森へ続く道を遮るように、蒼銀の障壁が展開される。
「残るのは右奥の岩場だけです。そちらへ追い込んでください!」
「分かってる!」
アイザックが右奥へ向けて炎弾を連射する。
だが、放たれた炎は何もない空間を通り過ぎ、岩へ激突した。
「どこだ!?」
燃え盛る岩場へ視線を巡らせても、ソニアの姿を捉えられない。
ポリアンナは残された退路を注視し、ソニアが現れる瞬間を待っていた。
その背後で、僅かに空気が揺れる。
退路を塞がれたソニアが次に狙う場所を、パルパティーンだけは知っていた。
包囲を指揮する者を倒し、混乱が生じた隙に抜ける。
昔から変わらない、ソニアの戦い方だった。
パルパティーンの片目が鈍く光る。
次の瞬間、ポリアンナの背後へ一本の短剣が現れた。
首筋へ向け、迷いなく振り抜かれる。
「ポリアンナさん!」
ソリムドの叫びと、鋭い金属音が重なった。
半透明の障壁がポリアンナの周囲へ展開され、短剣を弾き返していた。
「そこに来ると思ったぜ」
パルパティーンが剣を構える。
「《絶界守護》をコピーしたままで正解だったな」
そのまま踏み込み、剣を横薙ぎに振るう。
ソニアは上体を反らして刃を躱した。切り裂かれた黒い外套の裾が、宙を舞う。
パルパティーンはさらに一歩詰め、返す刃を斬り上げた。
だが、その時にはもう、ソニアの存在が再び認識から抜け落ちていた。
剣が空を切る。
「アイザック!」
「おう!」
アイザックがポリアンナの周囲へ炎弾を撃ち込んだ。
岩場が砕け、爆炎が幾つも立ち上る。続けて森へ至る道や、身を隠せそうな岩陰も炎で埋めていく。
それでも、手応えはなかった。
「逃げ足は相変わらずだな」
パルパティーンが低く吐き捨てる。
「最低限の目的は達成した」
静かな声が、風の中から聞こえた。
全員が振り向いた先、離れた岩の上にソニアが立っていた。
その手には、アムリタを収めた器が握られている。
「では失礼する」
アイザックが即座に炎弾を放った。
轟音とともに岩が砕け、爆炎に包まれる。
だが、炎が晴れた時には、ソニアの姿はどこにもなかった。
「待て!」
アイザックが岩を飛び越え、森へ飛び込む。
数十秒後、舌打ちしながら戻ってきた。
「駄目だ。完全に見失った」
ポリアンナは自らの首筋へ触れ、小さく息を吐いた。
「アムリタは奪われましたが、あなたがいなければ、私は死んでいました」
パルパティーンは答えなかった。
ただ、ソニアが消えた森の奥を見つめている。
「ソニア……」
その名を小さく呟く。
「厄介な相手だ」
◇
アムリタは奪われた。それでも今は、意識を失った咲夜姫を本部へ連れ帰ることが最優先だった。
一行は来た時の道を辿り、幾日も山中を歩き続けた。
道中、咲夜姫は呼びかけに僅かな反応を示し、水を口にすることはできた。それでも意識が完全に戻ることはなく、すぐに深い眠りへ沈んでしまう。
のぶおは咲夜姫を背負い、足場の悪い道でも決して歩調を乱さなかった。ほかの者たちも必要な時以外は言葉を交わさず、帰路を急いだ。
やがて森の向こうに、NKJ本部の館が見えてきた。
◇
「咲夜姫!」
真っ先に駆け寄ってきたのは鬼龍神だった。
のぶおの背中で眠る咲夜姫を見た途端、その表情が変わる。
「……まさか。何があったんだ!」
「遺跡で倒れました。まだ、意識が完全には戻っていません」
「そんな……」
鬼龍神の顔から血の気が引く。
「道を空けて!」
アリスがすぐに咲夜姫を寝台へ横たえ、診察を始めた。
脈を測り、呼吸を確かめ、瞳孔の反応を調べる。
皆が固唾を呑んで見守る中、アリスはやがて小さく息を吐いた。
「命に別状はないよ」
張り詰めていた空気が、僅かに緩む。
「ただ……」
アリスは首を傾げた。
「眠ってるって感じでもないんだよね」
「どういうことですか?」
ポリアンナが尋ねる。
「身体は休んでる。でも、頭だけ、めっちゃ忙しそう」
鬼龍神が咲夜姫の寝顔を見つめる。
苦しそうには見えない。けれど、閉じた瞼は時折小さく震え、何かを見ているようにも、考え続けているようにも見えた。
咲夜姫の身体は眠っていた。
だが、その意識は休んでいない。
受け継いだ膨大な記憶が無数の欠片となり、互いに結びつきながら、一つの知識体系へ組み上がろうとしていた。
彼女の中で始まった変化を、この時はまだ、誰も知らなかった。
【第六十話 また一つ帰る場所】へ続く




