魔境の伝説
翌朝、まだ朝靄の残るNKJ本部では、遺跡へ向かう準備が進められていた。
アイザックは手甲の装着具合を確かめ、のぶおは背負い袋の紐を締め直している。咲夜姫は古地図と青銅色のメダルを何度も見比べながら、落ち着きなく広間を歩き回っていた。
部屋の隅では、鬼龍神が毛布に包まれ、長椅子へ横になっている。
そこへ、ふぉろんたいごが泣きそうな顔で進み出た。
「皆さん。たまには黒字で帰ってきてください」
一同が揃って首を傾げる。
「昨日、私の貴重なお宝が一つ、失われました」
鬼龍神が長椅子の上で、そっと目を逸らした。
「何でもいいです。金目の物なら、持てるだけ持って帰ってきてください」
「遺物を売る前提で話さないでください!」
咲夜姫が即座に抗議する。
アイザックは困ったように笑った。
「ふぉろさん、遺跡調査を何だと思ってんすか?」
「もちろん、資金調達です!」
ふぉろんたいごは迷うことなく断言した。
「言い切ったよ、この人……」
ソリムドが呆れたように肩を落とす。
「皆さん、期待していますよ」
ふぉろんたいごが満足そうに頷く一方、玄関先ではアリスが元気よく手を振っていた。
「いってらー!」
「……気ぃつけて行けよ」
長椅子から鬼龍神が声をかける。その表情は、妙に沈んでいた。
ソリムドがじっと顔を覗き込む。
「何か拗ねてない?」
「拗ねてねぇよ」
鬼龍神は顔を背けた。
「鬼龍っちパイセンは療養だからね。最低でも三日間は安静!」
アリスが人差し指を立てる。
「三日も!?」
思わず声を裏返した鬼龍神は、すぐに咳払いして取り繕った。
「いや、まあ……休めるのは悪くねぇけど」
その視線が、地図を抱えた咲夜姫へ向く。
「別に、行きたかったわけじゃねぇし」
「分かりやすすぎるだろ」
アイザックが呆れたように言う。
「咲夜姫さんと行けなくて寂しいんでしょ?」
ソリムドが笑うと、鬼龍神は勢いよく起き上がった。
「違ぇよ!」
「安静にしてろって」
「では、そろそろ出発しましょうか」
ポリアンナが苦笑しながら声をかけ、一行はNKJ本部を後にした。
◇
咲夜姫が解読した古地図を頼りに、一行は山奥へ向かった。
初めのうちは細い獣道が残っていたものの、山へ分け入るにつれて道らしい道は消えていった。木々をかき分け、幾つもの沢を越え、切り立った斜面を迂回しながら進んでいく。
額には汗が滲み、足元は泥にまみれている。それでも、咲夜姫だけは終始楽しそうだった。
「すごいです! この辺りから、文献の記録が完全に途切れるんですよ!」
ソリムドが首を傾げる。
「つまり?」
「ここから先へ入った人は、誰も帰ってこられなかった可能性があります!」
「笑顔で言うことじゃないよ!」
アイザックは欠伸を一つ漏らした。
「まあ、面白くなってきたんじゃねぇか?」
「これまでのどの研究記録にも存在しない遺跡ですよ。本当にワクワクします!」
地図を胸へ抱く咲夜姫の姿は、夢の舞台へ向かう子供のようだった。
日が暮れるたびに野営し、夜明けとともに再び歩き始める。古地図に描かれた地形と周囲の山々を照らし合わせながら進んだが、古い崖崩れや川筋の変化によって、何度も迂回を強いられた。
その道中、パルパティーンがふと足を止め、来た道を振り返った。
木々の間に人影はなく、足音も聞こえない。枝葉は揺れず、鳥たちも普段と変わらず鳴いている。
それでも、何者かの気配だけが微かに残っていた。
「どうしました?」
のぶおが尋ねる。
「妙な気配がする」
「気配?」
「見られてる気がするんだよな」
アイザックが周囲へ目を走らせる。
「何もいねぇぞ」
「だから妙なんだよ」
パルパティーンは、しばらく森の奥を見つめていた。気配にはどこか覚えがあるような気もしたが、正体までは掴めない。
「……気のせいならいい」
小さく首を振り、一行のあとを追った。
それからも、険しい山道は続いた。
背丈を超える草木を掻き分け、足場の崩れた尾根を渡り、時には遠回りをしながら古地図の示す場所を目指す。
出発から数日後の早朝。
まだ空が白み始めたばかりの頃、一行は最後の尾根を越えた。朝露に濡れた茂みを抜けた瞬間、先頭を歩いていた咲夜姫が足を止める。
山の端から昇り始めた朝日が、谷を覆う霧を淡く照らしていた。
その霧の向こうに、巨大な石造りの建造物が浮かび上がっている。
咲夜姫は息を呑んだ。
「……あった」
目の前には、深い谷が広がっていた。
その向こう側。濃い霧に包まれた森の奥に、巨大な石造りの建造物が眠っている。
苔に覆われた塔。山肌に半ば飲み込まれた外壁。そして、遺跡の最奥を守るようにそびえる巨大な扉。
まるで大地そのものが、千年にわたって遺跡を隠し続けてきたかのようだった。
誰もが言葉を失い、谷を吹き抜ける風の音だけが耳に届く。
咲夜姫の手が、小さく震えていた。
現在の地図にも、今までの研究記録にも残されていない世界が、今、確かに目の前にある。研究者として憧れ続けてきた光景に、咲夜姫の瞳が僅かに潤んだ。
「咲夜姫さん、泣いてる?」
ソリムドに尋ねられ、咲夜姫は慌てて袖で目元を拭った。
「な、泣いてません!」
そう答えながら、改めて遺跡を見つめる。
崩れた石柱の組み方や、壁面に刻まれた文様。その一部が、故郷の村外れにあった遺跡と妙に似ていた。
(この遺跡……どこかで……)
子供の頃から見慣れていた石壁が、ふと脳裏へ浮かぶ。
パルパティーンが遺跡を見上げた。
「こんなもん、よく今まで見つからなかったな」
「周囲を切り立った山々に囲まれ、谷は濃い霧に覆われています。地図がなければ、外から存在に気づくことすらできません」
咲夜姫は嬉しそうに目を輝かせた。
「千年以上も誰にも発見されなかった理由が、ようやく分かりました!」
「天然の要塞ですね」
ポリアンナも静かに頷いた。
一行は谷沿いの斜面を慎重に下り、両岸の幅が狭まった場所に残る石橋へ辿り着いた。
橋は幾つもの亀裂が走り、欄干の大半も崩れ落ちている。足を踏み出すたびに亀裂から砂や小石がこぼれ、遥か下の谷底へ吸い込まれていった。
ソリムドが恐る恐る足元を見下ろす。
「これ……落ちたりしないよね?」
「落ちたら俺が拾ってやる」
アイザックが笑う。
「全然安心できないよ!」
全員が橋を渡り切る頃には、谷を覆っていた朝霧が薄れ、山の端から昇った朝日が遺跡の入口へ斜めに差し込んでいた。
高さ十メートルを超える巨大な石扉には無数の蔦が絡みつき、表面には風化した古代文字が刻まれている。その脇には、王冠を戴いた王の石像が、半ば崩れながらも扉を見守るように立っていた。
「……閉まっていますね」
のぶおが呟く。
咲夜姫が古代文字を確認しようと扉へ近づいた時、アイザックが一歩前へ出た。
「だったら、壊しゃいい」
握られた右拳へ《紅蓮》の熱が集まり、赤く染まっていく。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
咲夜姫の制止より早く、アイザックの拳が石扉へ叩き込まれた。
轟音が山々へ反響し、衝撃に驚いた鳥たちが一斉に飛び立つ。
しかし、巨大な石扉は微動だにしなかった。
「……げ」
拳の跡すら残っていない扉を前に、アイザックが目を丸くする。
「嘘だろ……」
「アイザックさんでも壊せないの?」
ソリムドも驚いたように石扉を見上げた。
「普通の岩じゃねぇな」
「貴重な遺跡を壊そうとしないでください!」
咲夜姫が声を上げる。
「壊れてねぇだろ」
「そんなの結果論です!」
そのやり取りの傍らで、のぶおが入口の周囲を見回していた。
少し離れた場所に生い茂る蔦の隙間から、人工的に削られた平らな石面が覗いている。
「咲夜姫さん。こちらにも何かあります」
のぶおが蔦を掻き分けると、その奥から半ば苔に覆われた石碑が現れた。今にも崩れそうなほど風化しているが、表面には石扉と同じ古代文字が刻まれている。
「やっぱり……!」
咲夜姫は石碑へ駆け寄り、文字を傷つけないよう丁寧に苔を払い落とした。
「読めますか?」
「必ず解読します」
メモ帳を取り出し、古代文字を一つずつ書き写していく。
数分後、咲夜姫が顔を上げた。
「読めました!」
全員が石碑の周囲へ集まる。
「何て書いてある?」
アイザックに尋ねられ、咲夜姫は刻まれた文章を読み上げた。
「『知恵なき者は、この先へ進む資格なし』」
「『門は汝らを拒む』」
「『されど、王の道は光とともに、王の足元より伸びる』」
咲夜姫は困ったように眉を寄せた。
「文字は読めますが、意味までは分かりません」
「王の足元……?」
ソリムドがしゃがみ込み、地面を見回す。
石畳と土、その隙間から伸びる草以外に、目立ったものはない。
「ただの石畳じゃねぇか?」
アイザックも肩をすくめる。
ポリアンナは石碑の文言を反芻しながら、静かに周囲へ視線を巡らせた。
知恵なき者。
王の道。
光とともに、王の足元より伸びる。
その視線が、扉の脇に立つ王の石像で止まった。
斜めから差し込む朝日を受け、石像の足元から細長い影が伸びている。その影は石畳に刻まれた浅い溝と重なり、一本の道のように続いていた。
「……なるほど」
ポリアンナは影と溝を目で辿る。
石像の周囲には、僅かに沈んだ石畳が幾つも点在していた。その中で、朝日が作る影だけが、一枚の石畳へ真っ直ぐ伸びている。
「王の足元から、光とともに伸びる道――この影のことです」
ポリアンナが、影の先にある石畳を指さす。
「ここが、門を開く仕掛けでしょう」
咲夜姫の表情が明るくなった。
「踏んでみます!」
「ちょっと待って!」
影の先へ歩み寄ろうとする咲夜姫を、ソリムドが慌てて止める。
「罠かもしれないよ!?」
「爆発とかは勘弁してくれ」
アイザックも腕を組む。
咲夜姫は、にっこりと笑った。
「大丈夫です!」
一拍置いて付け加える。
「たぶん」
「その『たぶん』が怖ぇんだよ」
咲夜姫は深く息を吸い、影の先にある石畳へ片足を乗せた。
ゆっくりと力を込めて踏み込む。
直後、大地を揺らすような重低音が響いた。
石畳の隙間から砂埃が舞い上がり、巨大な石扉が千年の眠りから目覚めるように動き始める。
軋む石の音が山々へ反響し、開いていく扉の隙間から、冷たい空気と深い闇が流れ出した。
千年以上にわたって閉ざされていた遺跡が、今、彼らを迎え入れようとしていた。
【第五十七話 最後の聖杯】へ続く




