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管轄移譲

 木剣のぶつかる乾いた音が、午後の訓練場に響いた。


「そこで止まらない。受けたら、次です」


 レオンの声に、若い兵士が慌てて木剣を引き戻す。だが、構え直した時には、レオンの切っ先が兵士の肩口でぴたりと止まっていた。


 型そのものは、よく身についている。問題はその後だった。受けた瞬間に足が止まり、次の一歩が出てこない。


「受ける時、両足に体重が乗り切っています。受けるのは手です。足は、次のために取っておく」


 レオンは動きを遅く区切って見せた。斜めに立てた刃で受け、外へ流す。後ろの足に体重を残したまま、流し終えた時には、もうその足が前へ出ている。


 最初は手と足がばらばらだった。レオンは叱らず、言い方を変え、立ち位置を変え、時には兵士の後ろ足を木剣の先で軽く示した。


 十何度目かの打ち込みで、兵士が受け、流し、そのまま踏み込んだ。レオンの胴の前で、木剣が止まる。


「今のです! 受けた時、左足が残っていました。だから次の一歩が出た」


「……できました」


「ええ。できました」


 兵士の顔が、ぱっと明るくなる。その表情を見ると、レオンの胸まで温かくなった。


 だから、つい次を教えたくなる。横からの打ち込み、続けて踏み込まれた時の受け方。兵士は懸命に応えたが、足がもつれ、受けが遅れる。レオンは角度を変えながら崩れる場所を探すのに夢中で、傾き始めた日差しにも、兵士の肩が大きく上下していることにも、気づいていなかった。


「首席。そろそろ彼を休ませてあげたらどうですか」


 柵の外から、聞き慣れた声がした。


 振り返ると、白衣の上に諜報局の外套を羽織った男が立っていた。眼鏡の奥の目が、呆れたようにこちらを見ている。


「君ですか」


 レオンはそこでようやく時計塔へ目をやった。訓練の終了予定から三十分以上過ぎていた。


「……すみません。予定を過ぎていました。休憩にしましょう。さっきの踏み込みは、本当に良かった。あの感覚を忘れないでください」


 兵士は嬉しそうに頭を下げ、日陰の水桶へ向かった。


 レオンは柵へ歩み寄った。


「いつから見ていたんですか」


「彼が三度目に木剣を取り落としたあたりからです」


 エラスムスは小さく肩を竦めた。


「貴方は昔から、教え始めると鐘の音も聞こえなくなる。士官学校で後輩に槍を教えて、夕食を食べ損ねたのを忘れたんですか」


「君は昔から、人の失敗をよく覚えていますね」


「首席の失敗は珍しいので、記録しておく価値があるんです」


「次席は暇なんですね」


 エラスムスの口元が、僅かに動いた。笑ったのかどうかは分からない。


 その視線が、ふとレオンの腰へ落ちた。


「剣、替えましたか」


「柄だけです。革を巻き直しました」


「前より少し、手の位置が下がっていますね」


 言われるまで、誰にも気づかれなかった変化だった。


「よく見ていますね」


「……観察は、研究者の仕事ですから」


 エラスムスは眼鏡を押し上げた。


 ふと、その白衣に目が行った。この男が今、何を研究しているのか。あの保管庫で交わした言葉は、まだレオンの中で終わっていない。それを口には出さなかった。


 エラスムスの視線が、日陰の兵士へ移った。


「一つ、いいですか。彼は、貴方の説明を理解していると思います。受け方、足の位置、次の狙い。それを一度に考えようとして、身体が追いついていないだけでは」


 レオンは先ほどの指導を振り返った。教える側には一続きの動きでも、教わる側には別々の課題だったのだ。


「……その通りです。課題を絞ります」


 休憩を終えた兵士に、レオンは一つだけ告げた。


「今からは、左足のことだけを考えてください」


 横からの打ち込み。受けは少し乱れた。だが、左足は残っていた。そのまま、一歩が出る。二度目は、受けも揃った。


「そうです。それです!」


 兵士は木剣を握ったまま、信じられないというように自分の足元を見ていた。


 レオンは柵の方を振り返った。


「助かりました。ありがとうございます」


「礼には及びません。素人の感想です」


「君は昔から、私が見落とすものによく気づきます」


「……貴方は昔から、人の言うことを素直に聞きすぎます」


「正しい助言を、意地を張って退ける理由はありませんから」


 エラスムスは、ずれてもいない眼鏡を、もう一度押し上げた。


 兵士が礼を述べて訓練場を去ると、エラスムスも柵から身体を離した。


「そろそろ行きます。局長の協議に同席するので。次は時間を守ってくださいね、首席」


「善処します」


「貴方の善処は、信用しないことにしています」


 エラスムスは振り返らずに歩いていった。


 レオンは小さく息をつき、執務棟へ足を向けた。


◇


「――以上が、ヒノモトの現状です」


 報告を終えた男は、直立したまま微動だにしなかった。


 軍務局長第一側近、マグヌス・ブラウアー。


 身の丈は二メートルを超える。執務室の天井が低く見えるほどの巨躯は、無駄なく鍛え抜かれていた。報告の間、その顔の筋肉は一度も動かなかった。


 帝国軍では、この男を「鉄壁」と呼んでいた。


「各地の襲撃は、連携していると見ていいんだな」


「はい。手口と時期が揃っています。指揮を執る組織があると判断します」


「その組織の中身は」


「把握できていません」


 言い訳は一つもなかった。この男は、分かっていることと分かっていないことを、決して混ぜない。


 扉が叩かれ、諜報局長の来訪が告げられた。


 入ってきたのは、銀色の髪の女だった。柔らかな微笑みを浮かべ、その半歩後ろに白衣の男を従えている。先ほどまで訓練場で軽口を叩いていたエラスムスは、今は表情一つ崩さず、局長の後ろに控えていた。


「ヒノモトの管轄を、諜報局へ移していただきたいのです」


 挨拶もそこそこに、リリアナは切り出した。


「理由は」


「ヒノモトで、解放戦線と名乗る組織が形を成しつつあります。放置すれば、帝国の統治を揺るがしかねません」


「それなら、軍務局も把握している」


「ええ、存じております。ですので、こちらをお持ちしました」


 エラスムスが、薄い綴りを机に置いた。


「解放戦線の内部へ、諜報員を潜り込ませております。そこから得た資料です」


 アルベルトは綴りを開いた。


 組織の規模、およそ一千。指揮系統の図。幹部の名が並び、その一番上には、旧ヒノモト王国の重臣だった男の名が記されている。


 無言で頁をめくり、マグヌスへ渡す。マグヌスは目を通し、短く言った。


「軍務局の把握は、襲撃の手口から組織の存在を推定した段階です。これは、その内側の情報です」


「大したものだ」


 アルベルトは綴りを閉じた。


「だが、情報を集められることと、管轄を渡すことは別の話だ。この資料を軍務局へ回せば済む」


「それでは間に合いません」


 リリアナは静かに言った。


「解放戦線は、まだ蜂起の準備段階です。今のうちに内側から崩すには、監視も、摘発も、潜入員への指示も、一つの手で動かす必要があります。兵による統治は、軍務局が最も長けていますが、潜伏した組織を追うのは、私どもの領分です」


 理屈は通っていた。アルベルトはしばらく黙った。


 解放戦線への手当ては要る。だが、それなら合同で当たる手もある。管轄そのものを譲る理由には、まだ足りない。


 リリアナは、その沈黙を急かさなかった。代わりに、もう一つ言葉を置いた。


「管轄を移していただけるなら、もう一つ提案したいことがあります。王女と、ポリアンナ。二人の所在を、諜報局で調べます」


 アルベルトの目が、僅かに細くなった。


「お前は、王女を生かしておきたいのではなかったか」


「所在を突き止めるところまでです。その先をどうするかは、また別の話です」


 リリアナは微笑んだまま答えた。


 今しがた見せられた綴りが、頭を過る。千人の組織の内側へ人を潜り込ませられる諜報局なら、二人の居場所にも手が届くかもしれない。居場所さえ分かれば、あとは軍務局が動く。


「……いいだろう」


 アルベルトは椅子の背にもたれた。


「ヒノモトの管轄は譲ろう。だが、一つ条件がある」


「何でしょう?」


「人体実験だ。ヒノモトでの実施は一切認めん。研究の名目で人を使い潰すことは許さん」


 低い声だった。執務室の空気が、僅かに重くなる。


「ええ、もちろん。お約束します」


「口約束で済ませるつもりはない。軍務局からも人を出す。守られているかどうかは、こちらの目で確かめる」


「どうぞ。お好きな方をお送りください」


 リリアナは、茶会の誘いにでも応えるように頷いた。


 アルベルトは、その顔をしばらく見ていた。いつもと変わらない、柔らかな微笑みだった。


「マグヌス。ヒノモトの管轄を、諜報局へ移す。手続きを進めろ。目付に出す者の人選も任せる」


「承知しました」


 これまでマグヌスが預かってきた土地だった。それでも、その声には何の色も混じらなかった。


「引き継ぎの範囲について、後ほど確認させてください」


「一覧をまとめて届けます」


 エラスムスとマグヌスのやり取りは、それだけだった。


 リリアナが深く頭を下げ、エラスムスを伴って退室していく。


 扉が閉じた。


 人体実験は認めない。そう告げた自分の声だけが、まだアルベルトの耳に残っていた。


◇


 特務局へ続く回廊を、リリアナは一人で歩いていた。


 ヒノモトは、帝国のどの占領地よりもS型の多い土地だ。研究を進めるには、あそこを自分の手に置く必要があった。


 研究が一日早く進めば、それだけ陛下の宿願に近付く。


 人体実験は一切認めない。軍務局の目付まで付けてくるあたり、いかにもあの男らしい、真っ直ぐな条件だった。


 構わない。目付も人だ。望むものを差し出せば、見るべきものから目を逸らしてくれる。


 リリアナは微笑んだ。人に見せるためのものではない、本当の笑みだった。


 特務局の局長室では、長い黒髪の男が長椅子に寝そべっていた。


「珍しい客だな」


 ヴァルダーは、身体を起こそうともしなかった。


「王女とポリアンナの所在を調べることになりました。そのために、ソニアをお借りしたいのです」


「王女探しか。面倒そうだな」


「居場所が分かれば十分です。戦う必要はありません」


「つまらねぇな」


 ヴァルダーは欠伸を一つすると、扉の方へ顔も向けずに呼んだ。


「ソニア」


 扉が開いた。


 足音一つ立てずに入ってきたのは、黒い外套をまとった女だった。顔の上半分を仮面が覆い、口元しか見えない。二十代の半ばほどだろうか。ただそこに立っているだけで、部屋の空気に溶け込んでしまいそうな静けさがあった。


「お呼びか」


「仕事だ。NKJを探れ。王女と、ポリアンナの居場所。ついでに、あいつらが何をしてるかと、根城の場所もな。分かったことは、俺と諜報局へ回せ」


「承った」


 ソニアはそれ以上何も尋ねなかった。一礼すると、来た時と同じように、音もなく部屋を出ていった。


 閉じた扉を見つめ、リリアナは静かに目を細めた。


 約束は、相手を頷かせるためにするものだ。守るためではない。



【第五十六話 失われたオーク】へ続く


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