はじめての親友
日御子の手を握ったとたん。
世界が砕け散った。
「――ッ!」
ビビアンの視界が、再び白く染まる。
次の瞬間。
無数の景色が、濁流のように流れ込んできた。
幼い日御子。
優しく笑う父王。
民と同じ場所へ立ち。
誰よりも民を想い。
王でありながら、迷うことなく頭を下げる姿。
そんな父を、誇らしそうに見つめる日御子。
景色が変わる。
ユリウスの穏やかな笑み。
迷う日御子の肩へ、優しく添えられる手。
「本当に……これで良いですの?」
「姫様は間違っていません」
その言葉を信じた。
信じてしまった。
革命軍。
差し伸べられる無数の手。
自分を迎える歓声。
「皆さんを救いますの!」
自分が正しいのだと信じた。
燃え上がる王都。
崩れる城壁。
泣き叫ぶ人々。
倒れていく兵士達。
血に染まった剣。
その先に立つ王。
最後まで。
娘へ剣を向けなかった父。
日御子の手に残る、剣の重み。
温かな血の感触。
膝から崩れ落ちる日御子。
《天照の鏡》。
歪められていた記憶。
優しかった父王。
繋がっていく真実。
自分が信じた正義によって。
守りたかったものを、自ら壊してしまったという現実。
『いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
絶望。
後悔。
罪悪感。
自責。
悲しみ。
自分への憎しみ。
息をすることさえ許さないほどの感情が。
濁流となって、ビビアンの胸へ流れ込んでくる。
「……ぁ」
胸が苦しい。
身体の内側から、引き裂かれていく。
立っていられない。
膝から力が抜けた。
◇
光が砕け。
潮の匂いと波の音が戻ってくる。
ビビアンは、その場へ崩れ落ちた。
頬を、涙が伝っていた。
拭っても。
次から次へと溢れてくる。
(こんなの……)
(耐えられるわけがないだろ……)
自分が信じたものに裏切られ。
最も愛していた人を、自らの手で奪った。
しかも。
その人は最後まで、自分を愛していた。
(壊れずにいられるわけがない)
自分を憎み、罰し続けることも。
それしか考えられなくなることも。
今なら理解できてしまう。
ビビアンは顔を上げた。
日御子が怯えたように立ち尽くしていた。
「……どうして」
掠れた声が漏れる。
「どうして、あなたが泣いていますの……?」
ビビアンは答えられなかった。
怒っていたはずだった。
自分の命を粗末にする日御子が許せなかった。
殴ってでも止めてやりたいと思っていた。
けれど。
日御子はあの日の絶望から、今も一歩も動けずにいる。
あの凄まじい痛みを知ってしまった今。
怒りを向け続けることなど、とてもできなかった。
止めなければならない。
このまま自分を罰し続ければ。
日御子はいつか、本当に帰ってこられなくなる。
ビビアンは震える拳を握り締めた。
それを止めるということは。
日御子に。
もう一度立てと言うことだ。
もう一度、自分で考えろと言うことだ。
もう一度、誰かを信じろと言うことだ。
それがどれだけ地獄か。
今のビビアンには、痛いほど分かっていた。
それでもなお。
全部見てしまった自分は。
自分だけは。
逃げるわけにはいかなかった。
ビビアンは震える足で立ち上がる。
「……日御子」
涙で掠れた声が、二人の間へ落ちた。
◇
日御子は、ゆっくりと顔を上げた。
涙で滲んだ瞳が、ビビアンを映す。
ビビアンも泣いていた。
頬を伝う涙を、もう拭おうともしない。
「私は見た」
「お前が見てきたものを」
「お前が失ったものを」
声が震える。
「お前が抱えてきた苦しみも、感じた」
日御子の肩が僅かに揺れた。
ビビアンは一歩、日御子へ近付いた。
「どうしてお前が自分を憎むのか」
「どうして、自分を罰することしかできなくなったのか」
「少しは分かった」
日御子の瞳から、新たな涙が零れる。
「だったら……」
「分かるでしょう?」
震える両手を、強く握り締める。
「私が信じました」
「私が決めました」
「私が間違えました」
「私が、父を……」
その先は、言葉にならなかった。
日御子は唇を噛み締める。
それでも。
無理やり声を絞り出した。
「だから!」
「私が罰を受けなければいけないんです!」
「私が苦しむのは、当然なんです!」
「私は……」
「私は、自分を許しません!」
「分かるよ」
ビビアンは静かに答えた。
日御子が目を見開く。
「分かるから」
「お前を止める」
「……どうして?」
「自分を罰し続けて」
「その先に何がある」
日御子は答えられない。
「どれだけ自分を苦しめても、過去は変わらない」
「自分を傷付け続けても、失った人は帰ってこない」
「それどころか」
ビビアンの声が、僅かに強くなる。
「お前を大切に想ってる奴まで、苦しませることになる」
その言葉に。
日御子の脳裏へ、懐かしい顔が浮かんだ。
最後まで手を差し伸べてくれたポリアンナ。
アリス。
ソリムド。
NKJの仲間達。
そして。
決してそばを離れなかった小さな存在。
足元で、ノワが日御子を見上げていた。
「……にゃあ」
その鳴き声に。
日御子の顔が歪んだ。
「でも……」
「じゃあ、どうすればいいの……?」
声が崩れていく。
「どうすれば良かったの?」
「どうすれば!」
「私は、私を許せるの!!」
ビビアンは何も言わない。
「教えてよ!!」
「私は!」
「どうしたらいいの!!」
嗚咽が混じる。
「分からない!」
「どうやって生きればいいのか!」
「自分を罰することしか!」
「私には思い付かないの!!」
堪えていた感情が、次々と溢れ出す。
「また間違えるのが怖い!」
「また誰かを信じるのが怖い!」
「また私のせいで、誰かが傷付くのが怖いんだよ!」
「だったら!」
「誰とも関わらず!」
「一人で苦しんでいた方がいい!」
「そうすれば、もう誰も傷付けなくて済むから!!」
「それで、お前が消えてもか?」
ビビアンの言葉に。
日御子の声が止まった。
「誰にも頼らず」
「誰にも助けを求めず」
「そのまま一人で潰れて」
「お前がいなくなれば、それで解決するのか?」
「それは……」
ビビアンの声が、港へ響いた。
「それだけは!」
「あたしは認めない!!」
日御子の肩が跳ねる。
「本当は」
「もう休めって言ってやりたい」
「今は何も考えなくていいって」
「もう苦しまなくていいって」
「そう言って、全部終わりにしてやりたい」
ビビアンは首を横へ振った。
「でも、それじゃ駄目なんだ」
「休んだあとでいい」
「どれだけ掛かってもいい」
「それでも、いつか」
「お前自身が、これからどう生きるのかを決めなきゃいけない」
日御子の瞳が揺れる。
「……無理だよ」
日御子が小さく首を振る。
「私には、もう無理」
声が掠れる。
「もう」
「一人では、抱えられないの……」
その言葉に。
ビビアンは一歩踏み出した。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま。
日御子の両肩を掴む。
「当たり前だろ!!」
日御子が息を呑む。
「こんな重さ!」
「一人で抱えられるわけがねぇんだよ!」
肩を掴む手に、力が入る。
「だったら!」
「あたしも持つ!!」
日御子の目が大きく見開かれた。
「半分でも!」
「十分の一でもいい!」
「持てるだけ、あたしが持つ!」
「だから!」
「勝手に一人で潰れるな!」
「全部、自分だけで背負おうとするな!」
日御子は何も言えなかった。
ビビアンは真っ直ぐ、その瞳を見つめる。
「あたしにも答えなんて分からない」
「どうすれば過去と向き合えるのか」
「これから何ができるのか」
「でも」
「一緒に考えることはできる」
「お前がまた歩けるようになるまで」
「隣にいることはできる」
日御子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……どうして」
「どうして、そこまでしてくれるの……?」
その言葉に。
白い世界で出会った女性の声が、脳裏に蘇る。
『あの子を、一人にしないであげて』
託された願い。
交わした約束。
けれど。
今、日御子のそばにいたいと思うのは。
もう、約束だけが理由ではなかった。
◇
ビビアンは乱暴に涙を拭った。
少しだけ笑う。
泣き笑いだった。
「決まってるだろ」
「友達だからだ」
日御子の動きが止まった。
「……友達?」
「ああ」
「私と……?」
「他に誰がいるんだよ」
日御子は呆然とビビアンを見つめる。
「いつから……」
「一緒に旅をして」
「一緒に飯を食って」
「一緒に子供を助けた」
「あたしがお前を放っておけなくなった」
「それで十分だろ」
日御子の唇が震える。
「でも……」
「私なんかが」
「私なんかって言うな」
ビビアンは、日御子の言葉を遮った。
「友達になるのに、資格なんかねぇよ」
「お前が自分をどう思ってようが関係ない」
「あたしは、お前の友達でいたい」
「だから、隣にいる」
「私は……」
言葉が詰まる。
何度も唇を動かし。
それでも声にできず。
日御子は俯いた。
ビビアンは待った。
急かさず。
ただ、日御子が言葉を見つけるのを待ち続けた。
やがて。
日御子の手が、震えながら持ち上がる。
ビビアンの服の裾を。
弱々しく掴んだ。
「……助けて」
消えてしまいそうな声だった。
「私を……」
「一人にしないでください……」
ビビアンの顔が歪む。
「ああ」
それだけ答え。
日御子の身体を、強く抱き締めた。
その温もりに触れても。
日御子の身体は、すぐには動かなかった。
誰かへ縋ることを。
誰かに支えられることを。
まだ、自分へ許すことができない。
それでも。
ビビアンの腕は離れなかった。
やがて。
日御子の指が、ビビアンの服を強く握り締める。
「……ぅ」
嗚咽が漏れた。
「うっ……」
膝から力が抜ける。
ビビアンは、その身体を抱き留めた。
日御子はビビアンの胸へ顔を埋める。
子供のように、声を上げて泣いた。
「ごめんなさい……」
ビビアンは首を横へ振る。
「謝るな」
その声も震えていた。
「泣きたい時は泣け」
「苦しい時は、苦しいって言え」
「でも」
「もう一人で抱え込むな」
日御子は何度も頷いた。
涙で言葉にならない。
ただ必死に。
ビビアンへしがみつきながら。
何度も頷いた。
二人の足元では。
ノワが静かに、その姿を見上げていた。
金色の瞳が、穏やかに細められる。
「……にゃあ」
優しい鳴き声が響いた。
日御子は泣き続けた。
それでも。
自分を抱き締める腕を、もう振りほどこうとはしなかった。
【第五十五話 失われたオーク】へ続く




