ツナグチカラ
「おい。今、何て言った?」
日御子は、担架が運ばれていった方向を見つめたまま呟いた。
「私なら良かったんです。私が前に出るべきでしたの」
その瞬間だった。
「てめぇは何様のつもりなんだよ!」
怒号が港中へ響き渡り、海兵も、再会を喜んでいた家族たちも、一斉にこちらを振り返った。
「何で全部てめぇのせいなんだよ! 子どもは助かっただろ!」
「あの兵士は、自分の意志でお前を守ったんだ! それを、何で勝手に全部背負ってんだ!」
日御子は何も答えられない。
ビビアンはさらに一歩、踏み込んだ。
「私が先に行きます? 囮になります? そんなの、普通の人間は言わねぇんだよ!」
「子どもを助けたいなら、まず自分も生き残ることを考えろ!」
日御子が首を横へ振る。その目から、涙が零れた。
「でも……」
「でもじゃねぇ!」
ビビアンの声が、さらに大きくなる。
「何でそんなに自分を粗末にする! 命が惜しくないのか!」
港に、静寂が落ちた。
日御子の唇が、震えながら開く。
「……惜しいですの」
思いもしなかった返事に、ビビアンの言葉が止まった。
「怖いですの。傷付くのも、死ぬのも。本当は、とても怖いですの」
震える声だった。
けれど、次の一言で、空気が凍り付いた。
「でも、それくらいの罰は、当然なんです」
「……何?」
日御子は涙を流したまま続ける。
「傷付くべきだったのは、あの兵士さんじゃありません。私なんです」
「私は、罰を受ける側なんです。守られる資格なんて、ありませんの」
「だから、私が前へ出なければいけなかったんです!」
何が、この子をここまで追い詰めたのか。
何を犯したと思っているのか。
ビビアンには、何一つ分からない。
それでも、自分が傷付くことを当然の義務だと思っている。その歪みだけは、嫌というほど伝わってきた。
何度も飲み込んできた言葉が、もう止まらなかった。
「何があったか知らねぇ……! でもな、そんなもん、罰でも何でもねぇ! 自分を傷付けることが償いになると思ってんじゃねぇ!!」
「違う!」
日御子が叫んだ。
「償いじゃない! 私は……!」
「また同じことを繰り返すんだ! また誰かを不幸にするんだ!」
「だから本当は……」
「消えてしまいたいんだ……」
語尾が、崩れていた。
いつも丁寧に言葉を選んでいたこの子が、取り繕うことさえできなくなっている。
「でも! そんな終わり方は許さないんだ!!」
「楽になることだけは、許さないんだ!!」
ビビアンは、言葉を失った。
死ぬのは怖い。
それでも、消えてしまいたい。
苦しみから逃れたいのに、逃げることすら自分に許していない。
目の前にいる少女が、どうやって今日まで立っていたのか。
それすら、分からなくなった。
◇
「……にゃあ」
その時、黒猫が二人の間へ歩み出てきた。
「ノワ……?」
日御子が顔を上げる。
ノワは迷うことなく跳び上がり、ビビアンの肩へ収まった。
「え?」
驚くビビアンの耳元で、金色の瞳が淡い光を帯びる。
優しく、温かな何かが、胸の奥へ静かに流れ込んできた。
突然、視界が白く染まる。
港の喧騒も、人々の声も、泣き続ける日御子の姿も、全てが溶けるように消えていく。
「なっ……」
次の瞬間には、景色が変わっていた。
◇
柔らかな陽射しが、庭へ降り注いでいた。
小さな花壇の花が揺れ、木々が風に葉を鳴らしている。
「待って、ノワー!」
幼い少女が、小さな黒猫を追い掛けて駆けていく。
「ふふっ、待ちなさーい!」
「にゃあ!」
黒猫が振り返り、楽しそうに鳴いた。少女は転びそうになりながらも、声を上げて笑っている。
その姿を見て、ビビアンは足を止めた。
「……日御子?」
六歳ほどだろうか。今よりずっと幼い顔立ちだった。それでも、その面影を見間違えるはずがない。
「ここは……」
周囲を見回すが、返事はない。
誰にも、ビビアンの姿は見えていないらしかった。
そのはずなのに、黒猫だけが一瞬、ビビアンの方へ顔を向けた。
そして何事もなかったように、再び少女のもとへ駆けていく。
「捕まえた!」
日御子がノワを抱き上げる。
「今日も私の勝ちですの!」
「にゃあ」
ノワは抵抗もせず、気持ち良さそうに目を細めた。
「日御子」
穏やかな女性の声がした。
日御子が、ぱっと顔を輝かせて振り返る。
「お母様!」
柔らかな笑みを浮かべた女性が、こちらへ歩いてくる。
日御子によく似た黒髪と、穏やかな顔立ち。ビビアンは思わず、その姿に目を奪われた。
日御子はノワを抱いたまま、その胸へ飛び込む。
女性は微笑み、娘の頭を撫でた。
「今日もノワと遊んでいたの?」
「はい! ノワは、私の一番のお友達ですの!」
その言葉に、女性は少しだけ目を細めた。
「そう」
その笑顔には、微かな安堵が滲んでいた。
「今度は、あちらまで競争ですの!」
日御子はノワを地面へ降ろし、庭の向こうへ駆けていく。ノワも、すぐにその後を追った。
女性は遠ざかっていく一人と一匹を、穏やかに見守っている。
やがて、ノワだけが女性の足元へ戻ってきた。
女性はしゃがみ込み、その小さな身体をそっと抱き上げる。
「ノワ」
静かな声だった。
「あなたは、あの子の最初のお友達ね。いつも、日御子を笑わせてくれてありがとう」
「にゃあ」
女性は愛おしそうに、ノワの頭を撫でた。
ビビアンは何も言わず、そのやり取りを見つめていた。
やがて、穏やかな庭が、ゆっくりと白く霞み始める。
花が消え、風が止まり、景色は静かに次の記憶へ移り変わっていった。
◇
薄暗い寝室だった。
窓から差し込む夕日だけが、部屋を赤く染めている。
寝台には、先ほどの女性が横たわっていた。以前よりも痩せ細り、呼吸も浅い。
部屋にいるのは、女性と、一匹の黒猫だけだった。
「……ノワ」
か細い声。
寝台の傍らで丸くなっていたノワが、ゆっくりと顔を上げる。
女性が細くなった腕を伸ばすと、ノワは迷わずその腕へ身体を預けた。
女性は小さな身体を抱き寄せ、しばらくの間、何も言わずに頭を撫で続ける。
やがて、小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「あの子を、一人にしないで」
ノワは、女性を真っ直ぐ見つめ返す。
「にゃあ」
その返事を聞き届けると、女性は安心したように目を細めた。
「……あとは、お願いね」
その瞬間、女性の胸元から、淡い金色の光が溢れ出した。
「……!」
ビビアンが息を呑む。
光は糸のように細く伸び、ゆっくりとノワの身体へ流れ込んでいく。
一本。
また一本。
まるで命そのものを託すように、温かな光が黒猫へ吸い込まれていった。
「これは……」
この人は、自分の中にあるものを、ノワへ託そうとしている。
ノワは逃げなかった。
金色の光を受け入れながら、ただじっと、女性を見つめ続けている。
やがて、最後の光がノワへ溶け込み、部屋は静寂に包まれた。
女性は弱々しく手を伸ばし、ノワの頭を、そっと一度だけ撫でる。
「……ありがとう」
「にゃあ」
女性の手から、力が抜けた。
その手が、ゆっくりと寝台へ落ちる。
ノワは動かなかった。
女性の腕へ身体を寄せたまま、いつまでも、その顔を見つめ続けていた。
やがて世界は、再び白い光に包まれた。
◇
眩しさが、ゆっくりと薄れていく。
気が付けば、ビビアンは何もない白い空間に立っていた。
静寂だけが広がる世界の中央に、一人の女性が佇んでいる。
先ほどまで病床にいた、日御子の母親だった。
ビビアンはゆっくりと歩み寄る。
「……あんた」
女性は、穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、ビビアンは確信する。
「あんたが、日御子の母親なんだな」
女性は小さく頷いた。
女性の足元で、ノワが静かに座っている。
ビビアンは思い出していた。
荒野で、必死に自分を呼びに来た黒猫の姿を。
倒れた少女の傍を、片時も離れようとしなかったことを。
あれは、あの日託された願いだったのだ。
――あの子を、一人にしないで。
その願いだけを抱えて、小さな黒猫は、ずっと日御子の隣を歩いてきた。
女性の想いが、ビビアンの心へ直接流れ込んでくる。
『あの子は、十分、苦しみました』
その一言だけで、胸の奥が締め付けられた。
女性はもう一度、ビビアンを見つめる。
『どうか、一人にしないであげてください』
ビビアンは、何も答えられなかった。
日御子に何があったのか。何を自分の罪だと思っているのか。それはまだ分からない。
それでも、この人とノワが、どれほど日御子を大切に想っているのか。
それだけは、痛いほど伝わってきた。
女性が、足元のノワへ視線を落とす。
『ノワ。ありがとう』
『ここまで、本当によく頑張ってくれました』
ノワが、嬉しそうに目を細めた。
女性の姿が、淡い光を帯び始める。
「待ってくれ!」
ビビアンが思わず手を伸ばした。
けれど、その姿は無数の金色の光となってほどけ、足元のノワの中へ、ゆっくりと溶け込んでいった。
白い空間に残されたノワが、ビビアンを見上げる。
「にゃあ」
その鳴き声とともに、一つの願いが心へ流れ込んできた。
『もう一度、繋いで』
ビビアンは、静かに息を吐いた。
「日御子と、繋がれってことか」
「にゃあ」
ノワがもう一度、小さく鳴いた。
その瞬間、白い世界が音もなく崩れ始めた。
◇
光が砕け、港の喧騒が戻ってくる。
潮の匂い、波の音、そして目の前で泣き続ける日御子。全てが一気に、現実へ引き戻された。
白い空間で過ごした時間が嘘のように、ほとんど時間は経っていなかった。
肩の上のノワが、金色の瞳で日御子を真っ直ぐ見つめている。
ビビアンは、迷わなかった。
ゆっくりと歩み寄り、肩を震わせる少女の前に立つ。
「日御子」
「……え?」
涙に濡れた顔が上がる。
ビビアンは何も言わず、ただ、そっとその手を握った。
その瞬間、ノワの瞳が眩く輝いた。
《ツナグチカラ》。
世界が、再び光に包まれる。
ビビアンと、日御子と、母の願いを抱いたノワ。
三つの意識が、静かに一つへ繋がった。
【第五十四話 はじめての親友】へ続く




