ツナグチカラ
「おい」
「今、何て言った?」
日御子は担架が運ばれていった方向を見つめたまま呟く。
「私なら良かったんです」
「私が前に出るべきでしたの」
その瞬間だった。
「てめぇは何様のつもりなんだよ!」
怒号が港中へ響き渡った。
周囲の海兵も。
家族達も。
驚いて振り返る。
「何で全部てめぇのせいなんだよ!」
「何で真っ先に!」
「てめぇが傷付くって話になる!」
「子供は助かっただろ!」
「あの兵士は、自分の意志でお前を守ったんだ!」
「それを!」
「何で勝手に全部背負ってんだ!」
日御子は何も答えられない。
ビビアンは一歩踏み出す。
「私が先に行きます?」
「囮になります?」
「そんなの、普通の人間は言わねぇんだよ!」
「子供を助けたいなら!」
「まず自分も生き残ることを考えろ!」
日御子は首を横へ振る。
涙が零れた。
「でも……」
「でもじゃねぇ!」
「何でそんなに自分を粗末にする!」
「命が惜しくないのか!」
港に静寂が落ちる。
日御子は震える唇を開いた。
「……惜しいですの」
ビビアンが目を見開く。
「怖いですの」
「傷付くのも」
「死ぬのも」
「本当は、とても怖いですの」
震える声だった。
次の一言で、空気が凍り付く。
「でも」
「それくらいの罰は、当然なんです」
「……何?」
日御子は涙を流したまま続ける。
「あの兵士さんじゃありません」
「傷付くべきだったのは、私」
「私は……」
「罰を受ける側なんです」
「守られる資格なんてありませんの」
「だから」
「私が前へ出なければいけなかったんです!」
何が、日御子をここまで追い詰めたのか。
何を犯したと思っているのか。
ビビアンには、何一つ分からない。
だが。
自分が傷付くことを、当然の義務だと思っている。
その歪みだけは、嫌というほど伝わってきた。
ビビアンは拳を強く握り締める。
指先が白くなる。
何度も飲み込んできた言葉が。
もう止まらなかった。
「何があったか知らねぇ……!」
一歩踏み出す。
「でもな!」
「そんなもん、罰でも何でもねぇ!」
「自分を傷付けることが、償いになると思ってんじゃねぇ!!」
日御子は涙を流しながら叫ぶ。
「違う!」
「償いじゃない!」
「私は……!」
「また同じことを繰り返すんだ!」
「また誰かを不幸にするんだ!」
「だから本当は!」
「消えてしまいたいんだ……」
「でも!」
「そんな終わり方は許さないんだ!!」
「楽になることだけは、許さないんだ!!」
ビビアンは言葉を失った。
死ぬことが怖いのに、消えてしまいたい。
苦しみから逃れたいのに、それを自分が許さない。
あまりにも痛々しいその告白を。
すぐには受け止めきれなかった。
◇
その時だった。
「……にゃあ」
黒猫が二人の間へ歩いてくる。
日御子が目を見開いた。
「ノワ……?」
ノワは迷うことなく。
ビビアンの肩へ飛び乗る。
「え?」
ビビアンが驚いていると。
ノワの金色の瞳が、淡く光を帯びた。
次の瞬間。
優しく、温かな想いが。
ビビアンの心へ静かに流れ込み始めた。
突然。
視界が白く染まる。
港の喧騒。
人々の声。
泣き続ける日御子の姿。
すべてが溶けるように消えていく。
「なっ……」
次の瞬間。
景色が変わっていた。
◇
柔らかな陽射しが降り注ぐ庭。
小さな花壇。
風に揺れる木々。
そして。
「待って、ノワー!」
幼い少女が、小さな黒猫を追い掛けて駆けていく。
「ふふっ、待ちなさーい!」
黒猫は振り返り、楽しそうに鳴いた。
「にゃあ!」
少女は転びそうになりながら笑っている。
その姿を見たビビアンは、小さく目を見開いた。
「……日御子?」
六歳ほどだろうか。
今よりもずっと幼い顔。
それでも、その面影は間違いない。
ビビアンは周囲を見回す。
「ここは……」
返事はない。
誰にも、ビビアンの姿は見えていないらしかった。
そのはずなのに。
黒猫だけが、一瞬ビビアンへ顔を向けた。
やがて何事もなかったように。
再び幼い日御子のもとへ駆けていった。
「捕まえた!」
日御子はノワを抱き上げる。
「今日も私の勝ちですの!」
「にゃあ」
ノワは抵抗することもなく、気持ち良さそうに目を細めた。
その時だった。
「日御子」
穏やかな女性の声。
日御子が嬉しそうに振り返る。
「お母様!」
柔らかな笑みを浮かべた女性が歩いてくる。
ビビアンは思わず視線を奪われた。
日御子によく似た黒髪。
穏やかな顔立ち。
日御子はノワを抱いたまま、その胸へ飛び込んだ。
女性は微笑みながら、娘の頭を撫でる。
「今日もノワと遊んでいたの?」
「はい!」
「ノワは、私の一番のお友達ですの!」
その言葉に。
女性は少しだけ目を細めた。
「そう」
その笑顔には、微かな安堵が滲んでいた。
「今度は、あちらまで競争ですの!」
日御子はノワを地面へ降ろすと、庭の向こうへ駆けていく。
ノワも、その後を追い掛けた。
女性は遠ざかっていく一人と一匹を、穏やかに見守っていた。
やがて。
ノワだけが女性の足元へ戻ってくる。
女性はしゃがみ込み、小さな身体をそっと抱き上げた。
「ノワ」
静かな声だった。
「あなたは、あの子の最初のお友達ね」
ノワは女性を見つめ返す。
「いつも、日御子を笑わせてくれてありがとう」
「にゃあ」
女性は愛おしそうに、ノワの頭を撫でた。
ビビアンは何も言わなかった。
ただ。
そのやり取りを静かに見つめていた。
やがて。
穏やかな庭の景色が、ゆっくりと白く霞み始める。
花が消え。
風が止まり。
景色は静かに、次の記憶へと移り変わっていく。
◇
薄暗い寝室。
窓から差し込む夕日だけが、部屋を赤く染めていた。
ベッドには。
先ほどの女性が静かに横たわっている。
以前よりも痩せ細り。
呼吸も浅い。
部屋にいるのは。
女性と、一匹の黒猫だけだった。
「……ノワ」
か細い声。
ベッドの傍らで丸くなっていたノワが、ゆっくりと顔を上げる。
女性は細くなった腕を伸ばした。
ノワは迷うことなく、その腕へ身体を預ける。
女性は愛おしそうに、小さな身体を抱き寄せた。
しばらくの間。
何も言わず、静かに頭を撫で続ける。
やがて。
小さく息を吐き。
穏やかに微笑んだ。
「あの子を、一人にしないで」
ノワは女性を真っ直ぐ見つめ返す。
「にゃあ」
その返事を聞き届けると。
女性は安心したように目を細めた。
「……あとは、お願いね」
その瞬間。
女性の胸元から。
淡い金色の光が溢れ出す。
「……!」
ビビアンが息を呑む。
光は糸のように細く伸び。
ゆっくりと。
ノワの身体へ流れ込んでいく。
一本。
また一本。
まるで命そのものを託すように。
温かな光が、静かに黒猫へ吸い込まれていった。
「これは……」
この人は。
自分の中にあるものを、ノワへ託そうとしている。
ノワは逃げなかった。
金色の光を受け入れながら。
ただ、じっと女性を見つめ続けている。
やがて。
最後の光がノワへ溶け込んだ。
部屋は静寂に包まれる。
女性は弱々しく手を伸ばし。
ノワの頭を、そっと一度だけ撫でた。
「……ありがとう」
ノワは静かに鳴いた。
「にゃあ」
女性の手から力が抜ける。
その手が、ゆっくりと寝台へ落ちた。
ノワは動かない。
女性の腕へ身体を寄せたまま。
いつまでも、その顔を見つめ続けていた。
やがて。
世界は再び、白い光に包まれた。
◇
眩しさがゆっくりと薄れていく。
気が付けば。
ビビアンは何もない白い空間へ立っていた。
静寂だけが広がる世界。
空間の中央に。
一人の女性が静かに立っている。
先ほどまで病床にいた、日御子の母親だった。
その足元には、ノワが座っている。
ビビアンはゆっくりと歩み寄る。
「……あんた」
女性は穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て。
ビビアンは確信する。
「あんたが、日御子の母親なんだな」
女性は小さく頷いた。
彼女の想いが、ビビアンの心へ直接流れ込んでくる。
母親の意識は消えていなかった。
ノワへ託された力と記憶。
その中へ溶け込み。
ノワと共に、ずっと日御子を見守り続けてきた。
『あの子は』
女性の想いが流れ込んでくる。
『十分、苦しみました』
その一言だけで。
ビビアンの胸の奥が締め付けられる。
女性は再び、ビビアンを見つめた。
『どうか』
『一人にしないであげてください』
ビビアンは何も答えられなかった。
日御子に何があったのか。
何を自分の罪だと思っているのか。
それはまだ分からない。
それでも。
母親とノワが、どれほど日御子を大切に想っているのか。
それだけは、痛いほど伝わってきた。
女性は足元のノワへ視線を落とす。
『ノワ』
『ありがとう』
『ここまで、本当によく頑張ってくれました』
ノワは嬉しそうに目を細めた。
女性の姿が、淡い光を帯び始める。
「待ってくれ!」
ビビアンが思わず手を伸ばす。
その姿は無数の金色の光となり。
足元にいるノワの中へ、ゆっくりと溶け込んでいく。
白い空間に残されたノワが、ゆっくりとビビアンを見上げた。
「にゃあ」
その鳴き声と共に。
一つの願いが、ビビアンの心へ流れ込んでくる。
『もう一度』
『繋いで』
ビビアンは静かに息を吐いた。
「日御子と繋がれってことか」
ノワはもう一度、小さく鳴いた。
「にゃあ」
その瞬間。
白い世界が、音もなく崩れ始める。
◇
光が砕け。
港の喧騒が戻ってくる。
潮の匂い。
波の音。
目の前で泣き続ける日御子。
すべてが一気に現実へ引き戻された。
白い空間で過ごした時間が嘘のように。
現実では、ほとんど時間が経っていなかった。
ビビアンの肩には、ノワがいる。
金色の瞳で。
日御子を真っ直ぐ見つめていた。
ビビアンは迷わなかった。
ゆっくりと歩み寄る。
目の前で肩を震わせる少女を見つめる。
「日御子」
「……え?」
日御子が涙で濡れた顔を上げる。
ビビアンは何も言わない。
ただ。
そっと、その手を握った。
その瞬間。
ノワの瞳が、眩く輝く。
世界が再び、光に包まれる。
ビビアンと。
日御子と。
母親の想いを抱いたノワ。
三つの意識が、静かに一つへ繋がった。
【第五十四話 はじめての親友】へ続く




