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どうでもいい命

「お姉ちゃーん!」


 振り返ると、小さな男の子が満面の笑みで駆けてくるところだった。


 可愛らしい、と思ったのも束の間。


 その頭が、真っ直ぐ腹へ突っ込んできた。


 どすん。


「でゅふっ!?」


 息が全部抜けた。


 視界の端で、ノワが慌てて横へ飛び退くのが見える。


「にゃっ!」


 日御子はその場に膝をつき、腹を押さえたまま動けなかった。


 子どもとは、こんなに硬いものだっただろうか。


「ねこさんだ!」


 当の本人は、既にノワへ夢中だった。


「……そう、ですの」


 辛うじて返事をする。


 ノワは不満そうに尻尾を一度だけ揺らすと、何事もなかったように日御子の足元へ戻ってきた。


「大丈夫?」


 肩を震わせながら、ビビアンが背中をさすってくる。


「危ないですよ」


 男の子へ向けられた声は、それでも柔らかかった。


「す、すみませんですの……」


「違います」


 ビビアンが苦笑する。


「謝るのは、あなたじゃない」


 そこへ、慌てた様子の母親が駆け寄ってきた。


「こらっ!」


 男の子の肩を掴み、日御子へ何度も頭を下げる。


「ごめんなさい! 目を離した途端に走り出してしまって……」


「だ、大丈夫ですの」


 まだ腹を押さえたまま、日御子は首を横へ振った。


「お気になさらないでください」


 男の子は母親の手をするりと抜け、再び目の前へ立つ。


「お姉ちゃん、きれい!」


「え……」


「髪もきれー! お姫様みたい!」


 息が詰まった。


 その言葉が、どれだけの人を不幸にしたのかを、この子は知らない。


 真っ直ぐな瞳が、こちらを見上げている。


「……ありがとうございますの」


 日御子は困ったように微笑み、そっと男の子の頭を撫でた。


「えへへ」


 男の子が嬉しそうに目を細める。


 母親も安心したように笑った。


「本当にすみません。人懐っこい子ではあるんですけど、いきなり抱きつくなんて初めてで……」


「そうなんですの?」


「ええ」


 母親は不思議そうに首を傾げる。


「よほど気に入られたみたいだね」


 ビビアンが小さく笑った。


「……そう、なんでしょうか」


 日御子は照れ臭そうに視線を逸らす。


 それでも、男の子の頭を撫でる手は止めなかった。


「またね!」


 大きく手を振り、母親に連れられて市場の奥へ歩いていく。


 日御子も小さく手を振り返した。


 その背中が見えなくなるまで、なぜか目を離せなかった。


◇


 それから、しばらくして。


「さて、次は日用品だね」


 ビビアンが荷物を持ち直す。


「はいですの」


 市場は変わらず賑やかだった。


 魚を売る威勢のいい声。色鮮やかな果物を並べる店。大道芸人の周りには、子どもたちの笑い声が集まっている。


 潮風が通りを吹き抜けていった。


「平和な国ですの」


 思わず、そう呟いていた。


 二人はゆっくりと市場を歩き、食料と石鹸、それに保存食を買い足していく。


 そんな何気ない時間を、不意に悲鳴が切り裂いた。


「――た、助けてください!」


 日御子とビビアンが同時に振り返った。


 人混みを掻き分けて駆けてくるのは、先ほど別れたあの母親だった。


「うちの子が! うちの子がいないんです!」


 手にしていた買い物袋が地面へ落ち、中から果物が転がっていく。


 辺りが一気に騒然となった。


「どうした!」


「まさか!」


 近くにいた海兵たちが駆け寄る。


「最後に見たのは、どこだ!」


「向こうのお店です!」


 母親が震える指で一軒の露店を示した。


「お金を払う間だけ、手を離して……振り返ったら、もういなくて……!」


 海兵の一人が仲間へ目を向けた。頷き返す顔が、どれも強張っている。


「港を封鎖しろ!」


「城門にも連絡だ!」


 海兵たちが一斉に動き始める。


 町の人々も周囲を見回し、男の子の姿を探し始めた。


「お願い! あの子を探してください!」


 母親はその場へ膝をつき、泣き崩れる。


「さっきの……」


 日御子は息を呑んだ。


 つい先ほどまで、自分が撫でていた小さな頭。


 隣で、ビビアンの表情も険しくなっている。


 近くにいた店主が、悔しそうに拳を握った。


「また、子どもが……」


「まさか、まだ続いているんですか?」


 ビビアンの問いに、店主は重い表情で頷く。


「ええ。場所を変えながら、今も被害が出ています」


「この街では、しばらく何もなかったんです。だから、もう大丈夫だと思っていたんですが……」


 別の店主が唇を噛んだ。


「軍もずっと追っているとは聞いてるんですが……」


 ビビアンが言葉を失っている。


 その横顔を見て、日御子は察した。


 この人がこの国を離れる前から、事件は続いているのだ。


 市場を満たしていた笑顔は、もうどこにもなかった。誰もが不安そうに周囲を見回している。


 日御子は静かに目を閉じ、《王域》を広げた。


 市場を行き交う人々の位置と動きが、一斉に意識へ流れ込んでくる。


 けれど、《王域》が示すのは「そこに人がいる」という事実までだ。顔も、声も、名前も分からない。


 しかも、小さな反応は市場だけで何十とある。


 路地を走る者。店の中にいる者。家族と手を繋いで歩く者。


 そのどれが、あの子なのか。


 判別する手立てがなかった。


 それでも日御子は意識を広げる。


 城門の先。港。停泊している船。


 それらしい反応を探し続けても、断定できるものは一つもなかった。


 やがて、日御子はゆっくりと目を開いた。


 額に、薄く汗が滲んでいる。


「見つけられませんでしたの……」


「日御子さん」


 ビビアンが肩へ手を添えてくれた。


 それでも、日御子は泣き崩れる母親から目を離せなかった。


「お願いします! あの子を……あの子を助けてください!」


 何度も頭を下げるその姿が、別の誰かと重なる。


 革命の日。


 泣いていた人々。


 助けを求める声。


 自分は、その全てを見過ごした。


 いや。


 違う。


 自分が――。


 日御子は強く拳を握った。


「ビビアンさん」


「はい」


「海軍は、この事件について調べていますの?」


「調べているはず」


 ビビアンは、周囲を走り回る海兵たちへ目を向ける。


「以前から追っていた事件だから。ロドリック様や海軍なら、これまでの被害について詳しい情報を持っていると思う」


 日御子は小さく頷いた。


「でしたら、王城へ行きますの」


 もう一度、市場を見渡す。


「私の異能なら、捜索のお役に立てるかもしれません。ここでは人が多過ぎて見つけられませんでした」


「でも、捜す場所を絞ることができれば……」


「分かった。王のところへ行こう」


 二人は王城へ向かって歩き始めた。


◇


 城へ続く坂道を上りながら、ビビアンが静かに口を開いた。


「捜索に協力することには反対しない」


 その声が、少しだけ硬くなる。


「だけど犯人の居場所が分かっても、日御子さんが前へ出る必要はありません」


 日御子は足を止めなかった。


「子どもを助けるために必要なら、戦いますの」


「相手は、人目のある市場から子どもを連れ去るような人間です」


 ビビアンの声が強くなる。


「この事件は、単独犯じゃありません。それに、犯人たちは武装している可能性が高い」


「戦えば、身の危険に晒される可能性だってある」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ沈み続けていた重いものが、ほんの僅かに軽くなった。


 傷つくかもしれない。


 命を落とすことだって、あるかもしれない。


 自分から終わらせることは、私が許さない。


 それでは、ただ苦しみから逃げるだけだから。


 けれど。


 あの子を助けた結果として、この命が尽きるのなら。


 誰かを救い。


 そのために命を使い切り。


 そのまま終わることができるのなら。


 それは、あまりにも都合の良い結末だった。


 気付けば、張り詰めていた肩から力が抜けていた。


 隣を歩いていたビビアンの足音が、僅かに乱れる。


「日御子さん……?」


 呼び掛けられ、静かに顔を上げる。


「私のことは、どうでもいいですの」


 自分でも驚くほど、自然に声が出た。


「子どもを助けられるなら、それで十分ですの」


 日御子は振り返ることなく、坂道を上っていった。


◇


 遠ざかっていく背中を、ビビアンはすぐには追えなかった。


 荒野で倒れていた時も、この子は食べ物を残したまま飢えていた。


 水を差し出した時も、まだ苦しみが足りないと言った。


 誰かが苦しんでいれば、自分から手を伸ばす。


 危険が迫っていれば、自分が前へ出る。


 それなのに。


(この子が助けたい人の中に)


(どうして、この子自身が入っていないの?)


 理由は分からない。


 それでも、聞かなかったことにしてはいけない気がした。


「……日御子さん、待って」


 ビビアンは駆け出した。


 今は、あの子を助けることが先だ。


 けれど。


 ――私のことは、どうでもいいですの。


 あの言葉だけは、いつまでも耳から離れなかった。



【第五十一話 人身売買】へ続く


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