異能殺し
屋台の灯りが並ぶ通りには、人々の笑い声が響き、酒と焼き串の香りが漂っていた。つい先ほどまで平和に見えていた景色を、日御子は警戒しながら見渡す。
黒猫はなおも暗がりを睨み、全身の毛を逆立てていた。
「グルルル……」
この黒猫が、ここまで露骨に何かを警戒することは滅多にない。野犬に追われても平然としていたし、蛇を見つけた時でさえ興味深そうに近づいていった。
「……気のせいではなさそうですの」
日御子自身も、理由の分からない胸騒ぎを覚えていた。
(何がいるのか、確かめますの)
日御子は静かに目を閉じた。
「《王域》」
双眸が淡く輝き、緑色の光が日御子を中心に波紋のように広がった。光が街を走査し、建物や路地、屋根、屋台、通りを行き交う人々の姿が、巨大な立体地図となって意識の中へ浮かび上がる。
その中に、明らかに不自然な動きをする者たちがいた。
屋根の上に二人、正面の路地に一人、さらに背後にも一人いる。いずれも日御子を囲む位置で動きを止めており、偶然そこに居合わせたとは考えにくかった。
(やはり、いましたの)
配置から見て、屋根の二人は援護役。正面にいる一人は注意を引くための囮であり、本命は背後から仕掛けてくるのだろう。
日御子は腰の短剣へ手を伸ばした。
敵は四人。少し多いが、対処できない人数ではない。南へ抜ければ大通りへ出られ、その先には衛兵の詰所もある。そこまで辿り着けば、刺客たちも簡単には手を出せないはずだった。
頭の奥には、すでに鈍い痛みが生まれている。それでも、敵に囲まれている状況で《王域》を解除するわけにはいかなかった。
黒猫はなおも唸り続けていた。
(何かを見落としていますの……?)
その反応が気になり、日御子は《王域》の範囲をさらに広げた。街を行き交う人々の位置と動きを一つずつ確かめるが、先ほど見つけた四人以外に、敵と思われる者はいない。
それにもかかわらず、胸の奥で鳴り続ける警鐘は消えてくれなかった。
◇
「にゃっ!」
黒猫が突然、日御子の肩から飛び降りた。積み上げられた木箱を足場に屋根へ飛び乗り、そのまま夜の街へ姿を消していく。
「どうしましたの……?」
日御子は目を瞬いたが、追いかけようとはしなかった。この黒猫は昔から、何かに気づくと勝手に行動し、その意味はあとになって分かることが多い。
それよりも今は、周囲を取り囲む刺客への対処が先だった。
日御子が意識を《王域》へ戻した、その直後。
「やはり面倒だな」
背後から突然、男の声が聞こえた。日御子の全身が凍りつく。
振り返ると、そこには黒い眼帯をつけた男が立っていた。片目が鈍い光を帯び、口元には余裕を感じさせる笑みが浮かんでいる。
いつからそこにいたのか、全く分からない。
日御子は反射的に《王域》へ意識を向けた。目の前には確かに男が立っているのに、脳内に広がる立体地図には誰も映っていなかった。
人も道も建物も正常に捉えているのに、その男の存在だけが、最初からなかったかのように認識できない。
(……あり得ませんの)
日御子の思考が、一瞬だけ止まった。
眼帯の男は、その反応を興味深そうに眺めていた。
「俺にだけ気づけないってことは、本当に異能で周囲を認識しているんだな」
(――この男は《王域》について知っている。それもかなり詳しく)
冷たいものが背筋を走る。
「私に、何をしたんですの?」
「別に何もしてねぇよ」
眼帯の男は薄く笑った。
「俺は、相手の異能を殺す」
日御子の表情が強張る。
「異能を……殺す?」
「だから、お前の《王域》じゃ俺は見えねぇ」
◇
言葉が終わると同時に、眼帯の男が地面を蹴った。
日御子は反射的に短剣を抜き、迫る剣を受け止める。激しい金属音とともに火花が散り、衝撃が腕から肩まで一気に突き抜けた。
重い。
眼帯の男は日御子の体勢が崩れた隙を逃さず、剣を横薙ぎに振るった。日御子が咄嗟に身体を沈めると、刃は頭上を通過し、背後にあった屋台の支柱を一撃で斬り飛ばした。
大きく傾いた屋根から、食器や酒瓶が石畳へ落ちて砕け散る。周囲から悲鳴が上がり、酒を飲んでいた客も屋台の店主も、互いにぶつかりながら逃げ始めた。
「反応は悪くねぇな」
眼帯の男は楽しそうに笑っている。
日御子は短剣を構えたまま後方へ飛び退き、崩れた屋台を挟んで距離を取った。
《王域》で捉えられないことも問題だが、今考えるべきなのはそこではない。日御子が把握していた敵は四人であり、その配置と動きから攻撃手段を予測し、南へ逃げる道筋まで組み立てていた。
しかし、目の前の男はその計算に存在していない五人目だ。前提が一つ崩れれば、その上に組み立てた逃走経路も使えなくなる。
ずきりと、頭の奥の痛みが強くなった。
「っ……!」
脳内に展開していた立体地図が僅かに揺らぐ。このまま《王域》を維持すれば、痛みに意識を奪われ、敵の攻撃へ反応できなくなる。
(これ以上は、まずいですの)
日御子が《王域》を解除すると、立体地図が消え、頭の痛みも少しずつ引いていった。
その様子を見ていた眼帯の男が、僅かに目を細める。
「やっぱり、頭痛があるのか」
「……何を知っていますの?」
日御子は短剣を構え直した。
「隙だらけで、つまらねぇって話だ」
眼帯の男が再び踏み込んでくる。
日御子は傍らにあった木箱を蹴り飛ばした。石畳の上を滑った木箱が、眼帯の男の足元へ迫る。
同時に、屋根の上から二本の矢が放たれた。
一本が右肩を狙い、もう一本が左足のすぐ傍へ突き刺さる。日御子は二本の射線を避け、南へ二歩下がった。
正面の路地に潜んでいた刺客が姿を現し、近くの脇道を塞ぐ。背後にいた刺客も短剣を抜き、退路を狭めるように距離を詰めてきた。
左右と背後を塞がれ、南だけが不自然に空いていた。
屋根の二人は、すでに次の矢をつがえている。
四人は、日御子を仕留めようとしているのではない。
(南へ誘導されていますの……!)
罠だと分かっていても、ほかに進める道はない。立ち止まれば、屋根の刺客に狙い撃ちにされる。
日御子は唯一残された南の道へ向かって駆け出した。
背後から追ってきた眼帯の男は、迫る木箱を一息で飛び越え、屋台の縁へ足を掛けた。そのまま大きく跳躍して日御子の頭上を越え、南へ続く路地の入口へ着地する。
「先回り……!」
眼帯の男は、逃走路を塞ぐように剣を構えた。
「逃げ道は、最初からそこしか残してねぇ」
日御子は足を止めず、すぐに進路を変えた。屋台同士の狭い隙間へ飛び込む。人一人が通るのがやっとの幅しかないため、ここなら敵の長い剣も自由には振るえない。
隙間の奥で振り返り、追ってきた眼帯の男の脚へ向けて短剣を低く薙ぐ。
だが、男は僅かに片足を引くだけで刃を避けた。
「考え方も悪くねぇ」
狭い足場でも動きを鈍らせることなく、一歩で間合いを詰めてくる。日御子の手首へ剣の柄頭を叩き込み、衝撃で短剣を握る手が跳ね上がったところへ、さらに身体を寄せた。
日御子は空いている手で男の顔を狙ったが、その腕も簡単に受け止められた。
「ただ、お前は白兵戦向きじゃねぇな」
掴んだ腕を捻られ、日御子の体勢が崩れる。そこへ男が肩からぶつかり、日御子の身体を屋台の隙間から石畳の上へ弾き出した。
痛みに顔を歪めながらも、日御子はすぐに片膝を立てた。
(南は塞がれ、ほかの道も四人に押さえられていますの。でしたら、次は――)
新しい逃走路を考えようとした時には、眼帯の男が目の前まで迫っていた。
「お前、ただの軍師か?」
「だったら……何ですの!」
日御子は立ち上がる勢いのまま短剣を突き出した。眼帯の男は上体を僅かに捻って切っ先を紙一重でかわし、剣の柄を日御子の腹部へ深く打ち込む。
「かはっ……!」
肺から空気が押し出され、呼吸が止まった。
日御子の身体は後方へ吹き飛び、石畳の上を何度も転がった。握っていた短剣も手から離れ、乾いた音を立てながら遠くへ滑っていく。
視界が揺れ、息が吸えない。
強い。それも、圧倒的に。
眼帯の男は、すでに勝敗が決まったと確信しているように、ゆっくりと歩み寄ってくる。いつの間にか眼に宿る光は消えていた。
それでも、日御子は震える足へ力を込めて立ち上がった。
(逃げ道がない……)
その考えを、すぐに否定する。
(違いますの。どこかにあるはずですの)
考えろ。
考えろ。
考えろ!
だが、次の一手が浮かばない。腹部の痛みで呼吸は乱れ、右腕には痺れが残っている。左右と背後は四人の刺客に塞がれている。
眼帯の男が、僅かに肩を竦めた。
「聞いていた話とは違うな。異能は厄介だが、本人が弱すぎる」
男の口元から笑みが消え、その片目が日御子を真っ直ぐに捉える。
「殺るしかねぇか」
空気が変わった。
今までの攻撃は、本気ではなかった。その事実を、日御子は肌を刺すような圧力で理解した。
「終わりだ」
眼帯の男が鋭く地面を蹴る。
速い。
日御子には、踏み込んだ瞬間しか見えなかった。短剣は手元になく、避けようとしても身体が反応しない。
(間に合いませんの――!)
「それは困りますね」
聞き覚えのある声が、夜の通りへ響いた。
眼帯の男は日御子へ剣を振り下ろす寸前で踏み込みを止め、そのまま後方へ跳んだ。
◇
眼帯の男がゆっくりと振り返り、日御子もその視線を追った。
街灯の向こうに、大量の書類を抱えた男が立っている。乱れた髪も、目元に残る濃い隈も、つい先ほど見た時のままだった。
咲夜姫に連れられていったはずの、ポリアンナだった。
「間に合いましたか」
ポリアンナは、少し困ったように笑った。その隣には咲夜姫もおり、少し離れた場所では、先ほど姿を消した黒猫が当然のような顔で座っている。
黒猫が二人を連れてきたのだと、日御子はようやく理解した。
眼帯の男は、ポリアンナを見たまま動かなかった。先ほどまで浮かべていた余裕の笑みが完全に消え、露出した目には明らかな警戒と困惑が浮かんでいる。
「……おい。なぜ、お前がここにいる」
日御子には、眼帯の男がそこまで驚く理由が分からなかった。
「私のお知り合いの方ですか?」
ポリアンナは少し考えるように首を傾げ、やがて何かに納得したように頷いた。
「ああ、なるほど」
穏やかな表情のまま、眼帯の男へ目を向ける。
「あなた、帝国の方ですか」
◇
眼帯の男は、ポリアンナを見据えたまま小さく呟いた。
「まさか、賞金首が自分から現れるとはな……」
剣を握る手に力が籠もる。だが、男の顔に浮かんでいた驚きはすぐに消え、代わりに獰猛な笑みが広がっていった。
「いや、逆に好機か」
【第六話 革命の設計者】へ続く




